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2006年12月31日 (日)

Daily K-Scale 0426

よみたいときに よめば よゐ

ありがとうございました。

 とうとう2006年もあと数時間になりましたね。みなさん、今年はどんな年でしたか?悲しいこと、辛いこと、うれしいこと、楽しいこと、いろんなことがいっぱいあったことでしょう。きっと、今日の最後の最後に、プラマイゼロになっていれば「しあわせ」だと思っていいのでしょう。

 ぼくは、年始に掲げた20の目標、□HAY-ON-WYE村にメールを出して、交流をはじめる。□第一詩集を発表する(出版でなくてもいいから)。□ウェブ小説のアップロードをスタートさせる。□構想中の3つの物語を文章化する。□月に一度、京都の名所めぐりをして、レポートを発信する。□仕事はライターよりプランナーに比重をかける。□レギュラー仕事を手に入れる(情報誌の編集やキャンペーンなど)□ウォーキングからはじめて、ジョギング、ランニングへと進む。□スライドギターを極める!という決意でレッスンを続ける。■ボイストレーニングをはじめたい。□声に加えて、話法、話術などでも精進したい。□俳句づくりをはじめる。□狂言の研究や学習などをはじめたい。■言葉にかかわる個展を開く。□伝統芸術&工芸にかかわる企画展を開催したい。□天満の古き良きものを集めた展覧会を開催したい。□京都に、もうひとつの拠点をつくりたい。□チャクラ開眼の鍛錬をしたい。■東京とのコネクションを強化したい。□自分の足元を確かめつつ、遥か彼方を見つめて歩きつづけたい。のうち、実現できたのは■のついた、たった3つほどでしたね。

 ということで、みなさん、今年もご愛読ありがとうございました。いろんなご意見をいただいたりしましたが、なかなかお返事が書けず失礼いたしました。来年は、できるだけタイミングよく返信したいと決意しております。どうか、変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願いします。

 九紫火星のぼくは、2007年度は、動き回る忙しい年になるようです。というか、その運勢に乗って、年始から猛ダッシュして動き回ろうと思っています。みなさん、来年も「元気」で!よろしく!!

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Daily K-Scale 0425

よみたいときに よめば よゐ

際を楽しむ。

 不思議なものです。12月31日と1月1日。時計の針がひとつになったとたんに、新しい年のはじまりです。それまでのことは水に流して、まったく新しい気分で、新しい人生を歩きはじめるのです。感覚は、まさにリセット。ニューゲームといった感じでしょうか。こんな、感情の徳政令みたいなことがあるからこそ、人は希望を失わずに生きていけるのかもしれませんね。

 「際」ということがらがあります。それは「境目」であり「エッジ」であり「ギリギリ」です。「キワキワ」なんて使い方もしますね。12月31日午後11時59分59秒と1月1日午前0時0分0秒との「際」感覚が、なんともおもしろいな、と思うのです。それは、まるで「火の鳥の再生」のような新鮮さと神聖さを含んでいるのです。「際」を超えて、彼岸と此岸を両方体験して、はじめて手に入れることができること。その不思議な感覚を誰もが味わうことができる瞬間…それが「年の際」だと思うのです。

 時間の流れは、止まることなく続いていきます。でも、その速度は一定のように見えて、実は相対的に変化しているように、ぼくは感じています。気が焦ってくると、その流れはどんどん加速していきます。逆にリラックスしているときにはゆったりと流れていきます。こんなふうに、人により、気分によって、時間は伸び縮みしているのですね。ちょうど川の流れにも淀みがあったり急流があったりするように…。

 年の際の時間の流れはどうでしょう。もし、その速度を決める要素として「気分」が大きな比重を持つなら、できるだけゆったりとした心持ちで、「際」を迎えたいものですね。まるで大河のようなたゆたう流れに抱かれながら、新しい年に入りたいものです。そして、その速度を保ちながら、しばらく2007年を楽しんでみたいものです。まずは、大きな気持ちで、大きな歩みをしてみたいのです。

 今年と来年の「際」。焦らず、じっくりと両側のエッジを見据えたいものです。どんな接点で両側がつながっているのか、来年の岸がどんな姿勢で続いていくのか、しっかりと見はかりたいものです。

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2006年12月30日 (土)

Daily K-Scale 0424

よみたいときに よめば よゐ

108もある煩悩。

 ♪もういくつ寝るとお正月…ですね。雪なんかも降ったりして、歳末感覚は急加速、という感じですが。

 歳末といえば、除夜の鐘。この一年に積もった「煩悩」を取り除いて、新年を清清しい気持ちで迎えられるように撞かれます。その回数は108回。というのも、人の「煩悩」は108あると伝えられているからです。

 でも、なぜ108なんて中途半端な数なのでしょう。それには4つの説があると伝えられています。

 まず、ひとつ目。人のからだや動きを意味する六根【眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)】と、三種【好、悪、平】を掛けると18。そして、心をけがす六塵(ろくじん)【色(しょく)、声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(しょく)、法(ほう)】と、三受(苦、楽、捨)を掛けると18.これらを足すと36になりますね。さらに三世(過去、現在、未来)を掛けて108とする、という説です。

 ふたつ目は、人生の苦悩の根本原因の四苦(しく)【生、老、病、死】と、八苦【愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦と四苦】の語呂合わせで、四苦(4×9)と八苦(8×9)を足すと108になるという説。

 三つ目は、12ヵ月と、立春や大寒などの24節気、旧暦で5日間を1候として1年を分けた72候を足すと12+24+72で108となる説。

 四つ目は、倶舎宗の教え。倶舎宗では、煩悩を「見惑」(四つの真理をみることですぐに断たれる煩悩)と、「修惑」(修行によって断たれる煩悩)に分けますが、見惑は10の根本煩悩に分けられ、それぞれ欲界、色界、無色界の3つの境遇があり、その3つの境遇には、苦諦、集諦、滅諦、道諦の4種類があります。これらすべてを掛け合わせると120になるのですが、そのうち取り除かれるものがあったりして、合計は95に。それに修惑の3つの界を足して98に。さらに心を縛って修繕を妨げる十纏(じってん)を加えて108とする説。

 いずれの説が正しいのかは、わかりませんが、澄んだ鐘の音を聞きながら、積もった108の煩悩をきれいに洗い流したいものですね。

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2006年12月29日 (金)

Daily K-Scale 0423

よみたいときに よめば よゐ

ほどほどの不便さを。

 世の中、どんどん便利になっている。「便利」とは、どうやら「早い」「手軽」だけではなさそうだ。「他人と直(じか)に接触しなくてすむ気楽さ」が、実は私たちにとって、大きな付加価値のようなものになりつつあるのではないか。

 こんな考えが、新聞に載っていました。発言されているのは花巻市教育委員会東和事務所長の役重真喜子さん。「今の子どもたちは人との接し方が下手だ、と言われるようになって久しい」と同時に、「大人社会がせっせと量産しているのは“隣人と接触しなくてもすむ”便利で楽な道具」と看破されています。

 確かに、自動販売機の「便利さ」は彼女が語るとおり、コミュニケーションのわずらわしさを省いてくれます。店員さんとの会話やお金の受け渡し、まわりの人への気遣いなど、人と関わることなく目的が果たせるのです。つまりは感情を動かす必要がないのです。

 考えてみれば、最近、メールだけでコミュニケーションを済ますことって多いのではないでしょうか。年賀状の販売が不振だと聞きます。その背景には、メールで年賀の挨拶をする人が増えていることがあるそうです。一括送信できることやコスト削減できることがメール年賀状の増加に拍車をかけているようです。

 年賀状でさえ、こんな状態ですから、仕事となるとメールの洪水です。ある会社の方から伺った話ですが、近ごろは、上司が隣のデスクに座っている部下に「今日、残業できますか」とメールを打つのだそうです。「昔なら、直接“今日は残ってもらえるか”と声をかけたものなのに…」と、その会社のOBである話の主はなげいていらっしゃいました。

 役重さんは言います。「がっぷり四つが足りない」と。「接触だらけの毎日は、時にわずらわしく不便である。しかし、不便だからこそ生まれる助け合いがある。助け合いがあるところに優しさも生まれる」と。メールもいいけど、がっぷり四つのカマエで、面と向かって話すことも大切にしたいものですね。そう、ほどほどの不便さを、いつも身のまわりに置いておきたいと思います。

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2006年12月28日 (木)

Daily K-Scale 0422

よみたいときに よめば よゐ

師も走る時期。

 紺屋の白袴とはよく言ったもので、ぼくの周りの同業の方々は、「まだ年賀状ができてへん」という悲鳴を発しております。依頼された年賀状は、さっさと納品済みなのに、自分のカードは先送りになってしまいがちなのです。

 ご多分にもれず、ぼくも現在、必死で制作中です。でも、そういうときに限ってプリンター(印刷ではなくオンデマンドで制作しています)の調子が悪くなって、四苦八苦してしまいます。やっとのことでプリントが終了すれば、次は怒涛の宛名書きが待っています。師走とはよく言ったもので、心情的にもドタバタと駈けずりまわることになるのがこの月なのですね。

 あとは、大掃除を済ませて、仕事納めをして、家の大掃除をして、新年の準備をして…。あ~、やることいっぱい!きっと年賀状を投函できるのは31日になるかもしれません。いやいや、毎年、そんなもんですね。うちの年賀状は元旦に着いたためしがない。まったく失礼をお許しください…です。

 そんなわけで、毎年、この時期になると「来年こそは、もう少し段取よく計画的に前準備を進めておいて、バタバタしなくてもいいようにしなくちゃ!」と決意するのですが、学習能力が低いのか、毎年、同じことを繰り返しているようです。それって、全然成長することのない磯野家やさくら家みたいですね(とほほ…)。

 結局、今年も同じでした。もう判でついたように、です。「ぶじ、これ名馬」とも言いますから、いつもと同じ歳末を送れているのは幸福なのかもしれません。それは、それで、感謝したいものです。が、やっぱり、今年も「来年こそは…」と決意しておこうと思います。少しくらいは成長したいものですから。

 あと数日で、2006年も幕を降ろします。後厄ということもあり、ほんとうにいろいろハプニングが続出した一年でした。そのあたりのことは、また改めて書こうとは思います。いずれにしても、来年は、もっといい年にしたいものです。そして、全世界がもっと平和で平穏になりますように…。

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Daily K-Scale 0421

よみたいときに よめば よゐ

命を守れ、という命。

 『字通』によると「命」という字は、“令+口であって、令は礼帽を著けて、跪いて神の啓示を受ける形であり、口は祝詞を収める器を表している”といいます。つまり、“神に祈って、その啓示として与えられるものを命という”のだそうです。

 『字通』のは、こうも記されています。“天の命ずるところであるから、人為の及ばないところをすべて命といい、君子は命を知るべきものとされた”と。

 「命」とは、天からの授かりものであって、人為で操作できるものではないのです。他人の「命」を奪うことはもちろん、自分で自分の「命」を奪うことも決してしてはならないことなのです。その寿命というものは、“天のみぞ知る”ことなのです。

 では、赤ちゃんが生まれるときのことを思い浮かべてみましょう。ぶじに生まれてほしい、元気で出てきてほしい…などど親たちは、神様に祈りながら、新しい命の誕生を待っています。そして、与えられるかのようにして、赤ちゃんはこの世にやってきます。まさに「令+口=命」なのです。

 それほど、大切な授かりものが、今年は特に粗末にされました。虐待によって幼い命が奪われたり、いじめなどによって自らの命を絶つ人が急増したり、命の重さを再認識する必要に迫られているように感じます。「命」を「授かり物」と思うことで、「それは自分だけのものではなく、大切に守っていかなければならないもの」という意識が芽生えるのではないでしょうか。

 今年で12年目を迎える「今年の漢字」は、この「命」でした。発表会場である京都の清水寺では、森清範貫主が一気に墨書しました。貫主いわく“「命」が選ばれたのは人々に深い苦しみが潜んでいる表れ。いのちを敬い、尊重しあうことに心して、きょうの字を書いた”と。

 「命」は、授かり物、天からの預かり物です。他人のも、自分のもどちらも粗末にしてはなりません。天が返せと申されるまでは、大切に育み守らねばなりません。どうぞ、慈しんでください。

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2006年12月26日 (火)

Daily K-Scale 0420

よみたいときに よめば よゐ

とにかく動こう。

 近ごろ、思うことがあります。それは、「失敗ってなんなのだろう?」ということなのです。人が緊張したり、プレッシャーを感じたり、ストレスを溜めたりするのは、「失敗」を怖れるからでしょう。では、その「失敗」ってどんな状態なんだろうと思ったのです。

 というのも、失敗って主観的なことかもしれないなぁと思うのです。例えば、大阪府の茨木市に「光の教会」という安藤忠雄氏設計の建物があります。その天井あたりには、実は汚れがあって、安藤氏はすごく「失敗」したな、と感じていたらしいのですが、この天井を観た巨匠のソール・バス氏が「幻想的ですばらしい」と絶賛したと言います(実際、見学に行った際、神父さんがおっしゃっていました)。安藤氏にとっては「失敗」だった汚れが、バス氏にとっては「賞賛」に値するものだったのです。

 人はすぐに「結果」を「成功」か「失敗」かに分類したがります。そして負の結果である「失敗」がないように努力します。でも、どうでしょう。大切なのは「結果」を出すことなのではないでしょうか。「失敗」を恐れて、「結果」を出すための行動が起せないのでは、まったく本末転倒だと思うのです。そして、「失敗」を怖がって、精神的にダメージを受けるのも悲しいことだと思います。

 先の安藤氏の例もあるように、「結果」に対する評価は後からやってきます。しかも、それは、とても主観的な評価だったりします。もし、その評価が「失敗」とされても、それがどれほどの問題なのでしょうか。大抵の場合、誰にも迷惑をかけないことが多いのではないでしょうか。そして、自分で勝手に「失敗」という判を下していることも多いのではないでしょうか。

 こういう風に考えていくと、「失敗」は畏れるようなものではないように思えてきませんか。大事なのは、何度も言うように「結果」を出すことです。そのために「行動」を起すことです。動く前にいろいろ考えすぎると、ストレスが生まれます。頭で考えすぎずに、からだで体験すればいいのです。経験値こそが、智となり血となるのです。来年は、そんな「行動」の年にしたいものです。

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2006年12月24日 (日)

Daily K-Scale 0419

よみたいときに よめば よゐ

メリークリスマス2006

 イヴです。つまりは、前夜祭。宵宮であります。なんだかんだ言って、前の夜の方が盛り上がるのです。というより、やっぱり夜がキモなのかもしれませんね。

 ぼくは、いま、これを「M-1グランプリ」を観ながら書いているのですが、みなさんは、これをいつどこでお読みなのでしょうか。幸せな気分で読んでいただいているとうれしいのですが。

 ということで、今日は、少し重くなりますが、ぼくからのほんの些細なプレゼントを贈らせていただきます。

 2006年も残り1週間。わずかの日々をとことん楽しみましょう。

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2006年12月23日 (土)

Daily K-Scale 0418

よみたいときに よめば よゐ

自分の言葉を持とう。

 「単独者」であり続けなさい。――作家・辺見庸さんは、近ごろ行った『個体と状況』と題する緊急講演で、こう訴えました。

 辺見さんは言います。「自衛隊の海外出兵も、教育基本法も憲法も、少し前には考えられなかったことが平気で行われていく。ダメージを被ったのは言葉であり、言葉と分かち難く結び付いている記憶だ」と。記憶が変形させられ忘却されていると言うのです。

 そして続けます。「テレビや新聞言語にしてもそうで、内奥の力を失い単なる手段と化した、雑草のようなクソのような言葉がまん延するのに、恐怖と戦慄を感じる」とも。その代表が『美しい国』なる空虚な言葉だと断じます。

 結局は、「記憶」から生まれる「恥辱」の感覚を、日本人は日常のルーティンな生活を繰り返すうちに忘却してしまっているのではないだろうか、と彼は考えます。「戦後60年の節目で戦後にグッドバイとさらりと言えてしまう感覚がこの国の言説の根っこにある」と危惧しているのです。きっと彼が言いたいのは、「正も負も、どちらの記憶をも後世に受け渡していかなければならない」ということなのでしょう。そのバランス感覚こそが、「個人」を形づくっていくのではないか、と示唆しているようです。

 このような状況を個々が乗り越えるにはどうすればいいのか。彼は提案します。「単独者であり続けなさい」と。

 「単独者」とは、「自分の言葉に身体をかけて責任を持つ者だ。にせ金の言葉と対極にある自分の言葉を、へどもどしながらでも話す存在。その人が放つ光は、かすかな微光のようなものかもしれないが、それが単独者の崇高さだ」と辺見さんは言います。

 自分自身の心のうちに潜むほんとうの声に耳を澄まし、結晶体のような真の言葉を紡ぎだす人になること。そういう個人が集まれば変化する時代の方向を見間違うことはないでしょう。誰かの言葉に惑わされることなく、はりぼての言葉を鵜呑みすることなく、自分の言葉で語れるようになりたい。そのためにも、もっともっと自分を厳しく見つめていきたい、と思います。

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Daily K-Scale 0417

よみたいときに よめば よゐ

プリプナという契約。

 みなさん、「プリプナ」ってご存知ですか?いま、ニューヨークで話題の言葉なのだそうです。これは正式には「プリナプティアル・アグリーメント」と言い、日本語にすると「婚前同意」になります。

 “離婚時、慰謝料は誰がいくら払うか”とか“財産はどう分けるのか”だとか“子どもの親権、養育費はどうするのか”といった離婚時の条件を結婚前に話し合い、新郎新婦間で契約を取り交わしておくのが、この「プリプナ」。キャリア志向の女性の多いニューヨークでは日常茶飯事で話題にのぼっているそうです。

 アメリカ政府の統計によると、全米の世帯のうち結婚している割合は年々低下し、2005年は49.7%にまで下がっているといいます。カップルに対して助言をしている市民団体「結婚の平等」によると「プリプナ」に関する照会は最近3年で3倍以上に増え、昨年は約5000件に達したと言います。

 特に米芸能界にはこの「プリプナ」の嵐が吹きまくっているようです。歌手ではブリトニー・スピアーズやホイットニー・ヒューストンが、女優ではケイト・ハドソンやリース・ウィザースプーンが「プリプナ」を交わしていて、現在、離婚を申し立てているといいます。特に、エレン・バーキンに至っては、「プリプナ」のおかげでレブロン会長から2000万~6000万ドル(約23億~70億円)の慰謝料を受け取ったとウワサされています。

 アメリカでは初婚カップルの半数が離婚すると言われています。そんな状況なら、「プリプナ」を交わして現実を直視しようとしてしまうのもわからないでもありません。でも、こんなシステムが日本で浸透すると、ますます結婚を望む人が減るのではないでしょうか。ひとつ間違えば、「結婚すること」自体が「ビジネス」になってしまうのではないか、と不安です。「離婚」することでお金持ちになれる…そんな風潮が生まれないでしょうか。

 いずれにしてもアメリカを追いかけると、なんとも世知辛い世情になっちまうような気がしてなりません。なんでもかんでも契約で済ますような世間にだけはなってほしくないものです。

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Daily K-Scale 0416

よみたいときに よめば よゐ

サンタはどこ行った。

 クリスマスといえば、サンタさんが寝ている間に、枕元に置いたくつしたの中にプレゼントを入れてくれる…というので、ワクワクしながらふとんに潜りこんだものでした。きっと、小学校の低学年くらいまでは信じていたように記憶しています。

 広告会社のアサツーディ・ケイが小学生の子どもを持つ首都圏の母親480人にインターネットで「子どもがサンタクロースを信じているか」という調査を実施したそうです。「信じている」のは平均で49.9%。ほぼ半分が信じているということになりますね。

 でも、結果を細かく見ていくと学年が上るにつれて割合が下がっていくそうです。特に男子の場合、二年生では74.4%も信じていますが三年生になると急落して48.7%に。女子も三年生の64.1%に対して四年生は35%になります。

 一方、東急エージェンシーなどが全国の中・高生約1500人に実施したネット調査では、サンタクロースを「以前は信じていた」との回答は55.2%、「(以前は)半信半疑」は20.8%、「今も信じている」は15.2%、「まったく信じていなかった」は8.9%だったそうです。今だに信じている人はいかがなものか、とも思いますが、7割以上の人がなんとなく「信じていた」ことになるのですね。

 周りを見ていると、サンタクロースを信じてもらうために涙ぐましい努力をしている人がいます。ぼくもその一人でしたが、サンタの赤い衣装を身につけて、登場し子どもたちにプレゼントを手渡す。ちょうど上の子が幼稚園の大きい組さんのころでしたから、真ん中は幼稚園入園前、一番下はまだ生まれていませんでした。結果は、一番上には「お父さん」だということがバレていたようで…。彼は気を使ったのか、一切「お父さんだ」と口にしませんでしたが。

 近ごろは、ご近所で組んで、各家庭をサンタさんが巡回するとかしてバレないようにしている人たちもいるとか。

 ネッシーもビッグフットもいなくなった現代、せめて子どもたちにサンタクロースの夢くらい残しておいてやりたいものです。「サンタってお父さんやんか!」なんて、ちょっと淋しいですもんね。

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2006年12月21日 (木)

Daily K-Scale 0415

よみたいときに よめば よゐ

今年の大晦日はどうしよう。

 大晦日といえば、やっぱり「紅白歌合戦」でしょう。こたつに入って、あと何時間かで今年も終わってしまうんやなぁ…なんて思いながら、見ているんだか見ていないんだかわからないような精神状態で見る「紅白」は格別です。ああ、日本に生まれてよかった…。

 で、今年の出場者が発表になりましたね。最多出場は北島三郎の43回。なんとぼくの年齢以上に出場しているのですね。スゴイことです。これに続くのは森進一の39回、そして五木ひろしの36回、細川たかしの32回です。出場回数では白組が圧倒的に強いようですね。ちなみに紅組の最多は和田アキ子の30回。次は石川さゆりの29回、小林幸子の28回が続きます。どうも紅組には大御所的な存在がいないようです。島倉千代子とか出てませんものね。

 リストを見ててちょっと驚いたのが、SMAPの出場回数。14回を数えるのです。意外でしょう。だって、前川清が16回なんですよ。2回しか違わない。これは、もうベテランと呼んでもいい域でしょうね。こっそりTOKIOも13回出場を誇っています。ジャニーズ強し!という感じでしょうか。そういえば、今年は違いましたが、しばらく大河ドラマの主人公はジャニーズでしたもんね。NHKとジャニーズ事務所のつながりの深さがよくわかりますね。

 目新しいところでは、紅組のBONNIE PINK。かつては『ライライライ』のテーマソングを担当したり、大昔FM802のヘビーローテーションに取り上げられていたりして注目していたのですが、今年ブレイクしてついに「紅白」登場。ちなみに彼女は、ぼくの住んでいる亀岡市の隣町、八木町(現在南丹市)出身です。今年限りの出場だとは思いますが、ついつい応援してしまいますね。

 毎年、視聴率を下げ続けている「紅白」。さてさて、今年は歯止めがかかるのでしょうか。出場者と曲目のリストを見ている限りは、どうも他局の格闘技系に押され気味の情勢に変化はなさそうですね。いっそのことリングの上で歌ったりすれば、チャンネルを奪えるかもしれないのでしょうが…。歳末の風物詩の健闘を祈るばかりです。

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2006年12月20日 (水)

Daily K-Scale 0414

よみたいときに よめば よゐ

10年続いて一人前。

 禁煙をして丸2年が経ちました。ずい分と肺がキレイになったことだと思います。喫煙していたころにしていたヘンな咳もしなくなりました。呼吸器系が弱いと評判のぼくだけに、禁煙が続いているのは画期的なことなのです。2年前に禁煙できていなかったら、今ごろは雲の上の人になっていたかもしれません。

 考えてみると、この歳になって、やっと「長続きするもの」が増えてきたように思います。続けていることで、一番長いのは、システム手帳へのチェックでしょうか。日記とまではいきませんが、毎日の行動を記入し続けています。これは、就職したてのころから続けているので、かれこれ18年ほどになります。

 一度、10年前の行動を調べなければならないことがあって、ずい分重宝しました。「やっぱり書き留めておいてよかった」となったわけです。この経験で、続けることは素晴らしいことだ、ということを実感したものです。

 なにごとも10年続ければ本物になれる、と言います。好き嫌いとか、善悪を超えて、とにかく10年やり続けてみるのです。すると、なにかが見えてくる。確かなものを感じることができるようになる。『霊の発見』という本の中で宗教哲学者の鎌田東ニさんが「十年間ずっと、一つのことを、毎日毎日やっていったならば、何か基準になるものが、自分の中に育ちます。それだけ手間隙かけて育てていかないと、なかなか見えない」とおっしゃっています。

 そうなのです。「続けるということは育てるということ」なのですね。長い目で見て、失敗や間違いなんかもぜんぶ自分の中に取り込んで、なおかつ前に進んでいく。それが「継続」することなのでしょう。「育つ、育てる」という意識がなければ、行為は続けることができないと思います。

 禁煙はまだ2年、このコラムは1年余り。これから、まだまだ先の長いお話です。自分自身を育てる感覚で、この先も一歩一歩確実に進んでいきたいものです。そうすれば、必ず未来において、ぼくという新しい基準が生まれてくることでしょう。

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Daily K-Scale 0413

よみたいときに よめば よゐ

「空」を識る。

 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
 空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空想
 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽
 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想
 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪
 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦 羯諦 波羅羯諦
 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経

 もし あなたが
 目も見えず
 耳も聞えず
 味わうこともできず
 触覚もなかったら
 あなたは 自分の存在を
 どのように感じるでしょうか
 これが「空(くう)」の感覚です。

 これは、当代日本を代表する生命科学者にしてサイエンスライターで歌人である柳澤桂子さんの『生きて死ぬ智慧』のまえがき部分の抜粋です。

 要は、想像力。いかにイメージするか、なのです。イマジネーションがなくては、これから先には進めないのではないでしょうか。柳澤さんは、前述の般若心経を翻訳して次のように書かれています。

 お聞きなさい
 あなたも 宇宙のなかで
 粒子でできています
 宇宙のなかの
 ほかの粒子と一つづきです
 ですから宇宙も「空」です
 あなたという実体はないのです
 あなたと宇宙は一つです

 森羅万象、有情無情すべてのものに命があり、その存在を畏怖し、感謝することを忘れることなく、生きていきたいものです。

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Daily K-Scale 0412

よみたいときに よめば よゐ

○○に似てますね。

 突然ですが、デビット・ベッカムとデビッド・ボウイは似ていないでしょうか。久しぶりにテレビコマーシャルでベッカムの顔を見た素直な感想です。そう考えると、やっぱりイケメンなんですね。

 ○○に似ているね、というセリフは円滑なコミュニケーションのための常套手段として使われていますね。では、なぜ、このセリフが効果的なのでしょうか。心理学者に言わせると、例えば初対面の人となにかしらのコミュニケーションを取る際に、相手を既知の人物に喩えることで、よりスムーズな交流を図ろうとしているのだそうです。知り合いと同一化させることで親近感を涌かせようということだといいます。

 確かに初対面の人であっても、仲良しの誰かさんに似ている、と思うだけで、急に親しみを持って話しかけることができたりします。そこで肝心なのは、どう似ているところを掬い取るか、ということです。まるで似てねぇ~という喩えだったなら、だれも感情移入をすることができません。しっかり気持ちを入れられるような比喩が求められているのです。

 仕事柄、いろんな人に出会って話をしたりすることが多いのですが、中には、この「誰かに喩える能力」にすごく秀でた人がいます。そういう人は、なぜかそろって「ほめ上手」だったりします。

 思うに、そういう人って、「人間観察力」がきめ細かくて、相手の「長所を発見する力」に優れているんじゃないかと思います。だからこそ、似ているところ=共通点を発見し、そのいいところを表沙汰にすることができるのでしょう。その能力こそが、いいコミュニケーションを生み出し、そして、いいネットワークをつくりだすのだと思うのです。

 ぼくも「なぎら健壱に似ているなぁ」とか「やくみつるさんですか」とか、最近は「カンニングの竹山さんですね」なんて言われます。これも、ぼくと円滑なコミュニケーションを取りたいと思ってくれているみなさんの愛情表現のひとつなのかもしれません。これからは、ゆめゆめ嫌な顔などせず、笑顔で応えたいと思います。

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2006年12月19日 (火)

Daily K-Scale 0411

よみたいときに よめば よゐ

年末の忘れもの。

 暖冬である。信州では、雪が積もらないのでスキー場開きができないという。札幌では、降雪が記録的に遅れているらしい。今年も残すところ2週間ほど、というのに、まだコートを着ていないな、とつぶやく人も多いことだろうと思う。

 どうやら、これは地球温暖化の結果らしい。温室効果ガスの排出量が大幅に削減されない限り、2040年9月までに北極圏の海から氷の大部分が消失するとアメリカ国立大気研究センター(National Center for Atmospheric Research、NCAR)が発表している。

 こういう公的で組織的な報道だけでなく、草の根レベルでもいろんな温暖化を示す話を聞くことがある。先日は、こんな話を聞いた。知人の知人で農業をしている人の話である。

 その人によると、農作物の成長周期が早くなっているそうなのだ。それは、つまり、周期が早まって十分に成長できないまま花を咲かせ、実を付けるものだから、熟すことがなく栄養価的にみて、ぜんぜんよくない、しかもおいしくない作物になる可能性が高いのだという。確かに、公的な食品成分表も当てにならないというウワサを聞いたりもする。どこかで、時間の流れさえもおかしくなっているのだろうか。

 スイスでは、この先数年で、多数のスキー場が閉鎖に追い込まれると見込まれているそうだ。福岡の柳川では、足として使われている水路が海水の水位の上昇で機能しなくなるという。ここ数年で、確実に温暖化の結果が具体化されていくようなのだ。

 そんな切羽詰まった状況であるにもかかわらず、我ら人類は、やれライトアップだ、観光誘致だのと言いながら、せっせ、せっせと電気を浪費している。あいかわらず、都市は不夜城であり、テレビはほぼ24時間体制で、同じようなニュースを繰り返し何度も伝え続けている。

 年忘れを忘れてしまいそうな気候が続いているのだけれど、これが「温暖化の影響」であることまでは、忘れてはいけないような気がする。年忘れで、すべてを忘れてしまわないようにしたいものだ。

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2006年12月16日 (土)

Daily K-Scale 0410

よみたいときに よめば よゐ

あの戦いになにを見るのか。

 「硫黄島の戦いを映画で撮るからには、いま僕らには聞えていない“声なき声”に耳を澄ませなければならない、と思ったんです。兵士たちの無念の想いを伝えるのはもちろんですが、六十年前のあの時、あの島で何が起きたのか。そして、あの戦いがいま僕らの生きていく糧になり、支えになっているんだということをきちんと受け止めないといけない。僕ひとりが分っていても駄目で、日本人もアメリカ人も含めて、スタッフ全員が理解する必要がある。そう思うと、畏怖の念を覚えたのです。」

 これは、映画『硫黄島からの手紙』で栗林忠道中将を演じた俳優・渡辺謙さんの文芸春秋での対談からの抜粋です。彼は、今回の役づくりのために、撮影前の数ヶ月間、残っている資料のことごとくに目を通し、遺族や生き残り兵士の方々に会って、何を伝えるかを徹底的に検証したそうです。そして、それをレポートにまとめて、イーストウッド監督や脚本家に提出したと言います。

 彼の根底には「硫黄島戦を単なるエンターテインメントとして描いては絶対いけない」という信念があったと言います。戦争映画と言えば、スペクタル巨編として描かれたり、必要以上に感傷的になったりと、虚飾が多いようにも感じられます。等身大の人間が、戦場という極限の状況の下に置かれて、どう考え、どう行動するのか。それが、しっかり伝えられなければ…という想いがあったのです。

 靖国問題や9条を含めた憲法見直し議論など、最近は「美しい国」づくりをめざした議論が活発化しているようですが、60年前に何があって、それに関わった人たちがどんな想いで、どんな行動をしたのか…。それを想像し、疑似体験し、自分のうちに溶解させてから議論できたら、と想います。

 謙さんも語っているように「畏怖の念を覚えて」議論しなければ、ただの机上の空論を続けることになりかねない…。その空論にムリヤリ決着をつけるような愚行が実施されるのが、いちばん怖ろしいと思うのです。その悲劇は、これまでの歴史が証明してくれていることだと思います。この映画、心して観たいものです。

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2006年12月14日 (木)

Daily K-Scale 0409

よみたいときに よめば よゐ

さるかに合戦。

 最初に『さるかに合戦』を読んだのは、確か幼稚園のころでした。なぜ、それがわかるのかというと、今でもその本が残っているからです。タイトルは『かにむかし』。淡い水彩タッチの絵が印象的でした。ぼくは、この話が好きで、何回も繰り返して読んだおぼえがあります。

 とても好きだったのですが、ひとつだけ、いつも疑問というか、好きになれなかった部分がありました。そこを読むたびに「なぜ、そんなイケズ(いじわる)なことを言うのだろう?」と感じました。

 それは、サルからもらった柿の種をまいたカニが、種に向かって「早く芽を出せ、柿の種。出さぬと種をほじくるぞ!」と脅して芽を出させ、次々と脅しては急成長させるシーンでした。これじゃ、あまりにもカニさんは自分勝手じゃないか!と思ったのです。だって柿にも都合というものがあって、そんなに急に成長したいわけじゃないはずです。みんな仲良くしようと思ったら、そんな脅したりして言うことをきかせるなんてことしたらダメだと思ったのです。

 確かにサルさんはズルくて抜け目がなくてイヤなヤツかもしれませんが、正義の味方のようなカニさんだって結構イヤなことしてるんですよね。それに最後の仇討ちなんて、何十匹という兄弟総出のうえに、ハチやクリや牛のふんやウスにまで助太刀を頼んで、寄ってたかってサルをこらしめるわけです。これは、やっぱりちょっと卑怯なんじゃないか、と子どもながらに思ったものでした。

 舌先三寸で利益を横からかっさらうサルに、即戦力を求めるカニ、正義の名のもとに集団でひとりを槍玉にあげる助太刀集団。どれをみても、なんだかとっても現代っぽいのが『さるかに合戦』です。経済界や政界のお歴々のされている行動がまさに当てはまるような気がするのは、ぼくだけでしょうか。

 さしずめ、今なら、こんな暴力沙汰の仇討ちなどせずに裁判となるのでしょう。きっとカニさんたちは莫大な慰謝料を手に入れることができる代わりに、兄弟間の骨肉の争いを経験することになるのでしょうね。助太刀役の報奨金の分け率の闘争とともに…。

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Daily K-Scale 0408

よみたいときに よめば よゐ

熱意。

 先日から取り組んでいるコンペには、「熱意」という評価項目があるそうだ。クライアントがプレゼンテーションを採点する際に、こちらの「熱意」をチェックし、点数化するのである。

 では、いったい「熱意」とはなんなのだろう?これには、スタッフ全員、困ってしまった。明確に「これだ!」といえるものがないのだ。例えば、「伝達力」という項目なら、インパクトのあるビジュアルとかキャッチーなフレーズとか、客観的に評価することもできるだろう。でも「熱意」と言われると、とてもエモーショナルでかつ主観的な事柄である。表現するのも評価するのも、かなり困難な作業になることが想像される。

 そこで、ぼくは考えた。どうしたら「熱意」が伝えられるのか。それは、きっと「そこまで、やるか…」感覚なのではないか、と思うのだ。「なにも、そこまでやらんかってええやんか」と笑わせられたら、きっと「勝ち」なのだ。

 昔、ある電力会社の見学施設のプロモーション企画のコンペで、スタッフ一同、そろいのダークスーツに身を包み、オリジナルでこさえたロゴのバッジを襟で輝かせてプレゼンテーションをしたことがあった。その演出には、クライアントも拍手喝采、「そこまでしてくれますか」と大いにウケた。ただ、ウケすぎて、そこまでするパワーは当社には悲しいけれどございません…ということでボツになった。結果は、まったくもって本末転倒だった。

 でも、この一見バカげたことにこそ「熱意」が込められているのではないだろうか。ソニーの設立趣意書には、こんな行が認められていた。“一、真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設…”。つまり、自由闊達に
して愉快なることが理想なのである。

 ぜひ、次のコンペでは、そこに居合わせた人がみんな「!」してしまうような「自由闊達で愉快な」プレゼンテーションを展開できたら…と思う。こんなときこそ、編集学校やボイストレーニングで培ったテクニックやノウハウをとことん活かしたいものである。

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2006年12月13日 (水)

Daily K-Scale 0407

よみたいときに よめば よゐ

ミツバチでいたい。

 「このあいだね、天橋立へ行ってきました!」と友人の女性カメラマンから連絡がありました。なんでも、以前にぼくといっしょに天橋立のクラフトデザイナーユニットの取材に行ったのですが、彼女がすっかりユニットから惚れられて、ときどき仕事をいっしょにするようになったというのです。

 こんなとき、「ぼくになにも言わないで勝手にそんなことしたら困るよ」っていう人がいますね。「誰のおかげ」意識があるのだと思うのですが、そんな縛りがこの世界をヘンに狭くしているような気がします。

 ぼくは、よくミツバチを思い起こします。ミツバチは蜜を求めて花から花へと飛び交います。そのとき、いっしょに花粉を運んでいきます。それによって、受粉が行われ、新しい種ができ、芽が出る。つまりは、生命再生のお手伝いを知らず知らずのうちに担っているのです。ぼくは、こんなミツバチのような存在でありたい、と。

 たまたま、いっしょに取材に行ったカメラマンが取材相手と仲良くなって、取材をきっかけにコラボレーションがはじまる…なんてすばらしいことだろうと思うのです。出会いを演出できて、ほんとうに良かったと思います。

 ぼくをきっかけ(ちょっとおこがましいかもしれませんが…)にして、いろんな花たちが、いろんなところで咲きはじめる。うれしいことです。ぼくの存在が、そして、ぼくの行動が、なにかの役に立っていると思えるだけで光栄ですものね。

 そして、ミツバチ役は持ち回り。どこかの誰かが、ぼくにとってのミツバチってこともたくさんありますから。自分だけ、いつも花になろうなんてケチくさい根性を持たない限り、しあわせのお花畑のど真ん中にい続けることができるでしょう。大切なのは、誰かのミツバチになろうという心構えでしょうか。

 自分が関わることで咲いた花に種ができて、それが芽を出し、大地にしっかり根を張り、どんどん成長していくの眺めるのは、ほんとうに楽しいことです。あ、ちょっと爺さんくさいかな(笑)。

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Daily K-Scale 0406

よみたいときに よめば よゐ

からだでうたう。

 「もしかして、肩コリさん?」とルミコ先生が問いかけました。「もう、肩から肩甲骨から背筋までガチガチです」とぼく。あ、これは、整体院での会話ではありませんよ。実はボーカルレッスンでの会話なのです。

 先月からはじめたボーカルレッスンです。今の課題曲はスティービー・ワンダーの『心の愛(I just called to say I love you)』。課題曲に入る前の発声練習で指摘されました。「肩とかにヘンに力が入りすぎてて、全然響いていない。声が前に出てきていない」と言われてしまいました。

 しかし、すごいものです。声を聴いただけで、からだの状態までわかるのですね。まるでお医者さんのようです。もしかしたら東洋医学の根本って、こんなところにあるのかなぁ…などとも思ってしまいました。ドラムスを勉強している人は、楽曲を聴いていても太鼓の音ばかり聴こえてくるという話を聴いたことがありますが、声ばかりを聴いているボーカルの人は、それだけ声の状態や性質というものに対して神経が研ぎ澄まされていて、超敏感になっているのでしょうね。まったく感服です。

 ということで、ボーカルレッスンの教室は、突然、ジムに様変わりです。ぼくは、前屈やスクワット、ストレッチなどで、からだをほぐすことになりました。さらに腕を回したり、首をグルグルしたり、まるでエクササイズです。いっしょに通っている友人が「歌うことは運動ですね!」と妙に感心していました。

 ひととおり運動をこなす(ほんとうに少し汗をかきました)と、からだもほぐれたようで、声もすんなり出るようになりました。からだが共鳴装置になる、ということを実感しました。柔軟性がないと、やっぱり響かないのですね。

 レッスンに通い出して1ヵ月半。いつも、からだや気持ちの構えに関して、いろんな発見があります。姿勢を正すこと、声の出方をイメージすること。それらは、よくよく考えると発声法でありながら、処世法にほかならない。そんな気がしています。

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2006年12月11日 (月)

Daily K-Scale 0405

よみたいときに よめば よゐ

どうなる残業代。

 最初に就職した会社には、毎日、夜中まで残っている人がいました。別に何をするわけでもなく、机の整理とか、雑誌を読んでいるとか、仕事と全然関係ないことで残業されていたようです。

 なぜ、そんなことをしていたかというと「残業代」稼ぎだったのです。その会社はタイムカードシステムを導入していて、労働時間をカードの印字で管理していました。彼は、そのシステムをうまく利用して、賃金アップを図っていたのですね。

 これはバブル絶頂期、初めてNTTの株が出た頃の、夢のようなお話です。彼は、3株ほどを購入し、バブルを堪能していたようです。その後、彼がどうなったのかは知りませんが、きっとソツなく暮らしているんでしょうね。

 今なら、残業代はカットされ、いくら遅くまで仕事(!)で残っていようとタダ働きになってしまうことでしょう。また、就業スタイルも変化しています。年棒制や契約制の社員が現われたり、フレックスタイムや自由出勤が導入されたり…。「残業」という存在自体が変化し、その位置づけも変わってきています。

 そんな状況の中、厚生労働省が導入を検討している「ホワイトカラー・エグゼプション」という制度に対して、使用者側と労働者側が激しく対立しているようです。

 新制度は、「一定以上の収入のある労働者を対象に時間外労働の割増賃金の支払い義務を免除する」というもの。厚労省は“自由度の高い働き方にふさわしい制度”として来年の通常国会への法案提出をめざしているそうです。

 日本経団連などの使用者側は導入を歓迎し「年収400万円以上を対象者」にすることをもくろみ、連合などの労働者側は「過労死やサービス残業を助長する」として猛反発しているのです。

 前出の残業代稼ぎの先輩などを見ていると導入には賛同したいところですが、ほんとうに酷使されている方もいます。どちらの意見にもよく耳を傾け、とにかく、じっくり討議してから決議してほしいものです。最近、法案づくりがすごくせっかちに感じられて仕方ありません。美しい国は、そんな性急にはつくれないはずですから。

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Daily K-Scale 0404

よみたいときに よめば よゐ

繁昌亭でびゅー。

 9月15日のオープン以来、たくさんの人が訪れ、06年のヒット商品番付でも特別賞を受賞した『天満天神繁昌亭』。約60年ぶりに復活する上方落語の定席として、浪速文化を支える頼もしい存在です。

 などと言いながら、うちのギャラリーが目と鼻の先にあるという立地条件にもかかわらず、ぼくは3ヵ月も足を運ぶことなく過ごしてきました。ナマの落語は、縁あって2ヵ月に1度のペースで見に行っています。これは、大阪・北浜にある『チャクラ』というカフェ&アジアン雑貨ショップ&ライブハウスで定期的に開催されている「桂都丸はなしの会」があるからです。2年目に入っていますが、これまで1回行けなかったきりで、制覇しています。

 12月9日、都丸さんの独演会があるというので、ついに『天満天神繁昌亭』デビューと相成りました。先日の「はなしの会」でほぼ完売、立ち見が15席ほど残っているのみ、と聞いて、都丸さんにムリを言って、席を確保していただきました。

 当日は雨。孫娘との初対面があり、大阪に到着したのは午後6時を過ぎた頃でした。そう、ギリちょんです。あわてて『天満天神繁昌亭』へと向かい、ギリギリセーフで2階へ。「さ」「し」「す」の頭文字のついた椅子席の後ろの通路が立ち見席です。

 収容人数は200~250人くらいでしょうか。大きすぎず、小さすぎず、ちょうどいいサイズの見やすい小屋という印象です。白木の高座がとても綺麗でした。天井には、数え切れないほどの提灯。これは定席建設にあたって寄付をした人たちの名を入れてあるのです。

 お客さんは、思ったより若い人が多くて、寄席というよりもライブハウス的な印象さえありました。出演は、桂まん我さん、桂九雀さん、桂都丸さん。最後の演目「小間物屋政談」は1時間ほどの大作でした。これまでライブハウスや会議室とかの変化球の落語体験しかなかったので、本格的な寄席での落語は感動でした。たっぷりと古典芸能にひたることができました。最近、飛行機で東京行き、クラシックコンサート、孫…と初物が続きましたが、『繁昌亭』もちょっとクセになりそうなあんばいですね。

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2006年12月 9日 (土)

Daily K-Scale 0403

よみたいときに よめば よゐ

ライ麦でつかまえて。

 「でもとにかくさ、ただっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰がその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね」

 これは、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(J.D.サリンジャー、村上春樹訳)で、主人公ホールデン・コールフィールドはが、妹のフィービーに「好きなことをひとつあげて」と問われて答えたセリフです。

 1980年、4発の銃弾を発射したマーク・デイヴィッド・チャップマンは、犯行現場であるニューヨークのダコタ・アパートメントの前の舗道の敷石に座って、警官が到着するまで、この本を読んでいたと言います。彼が、ジョンの殺害を決心したのは、「ジョンが、コールフィールドのようにインチキで、不誠実で、見下げた人間に成り下がっているからで、彼を撃つことによって、そのイノセンスを護ろうとしたのだ」ということでした。

 ごくごく普通の少年が持つ「非日常的な狂気性」のようなものを感じさせるコールフィールドは、60年代アメリカのアンチヒーローとして、良くも悪くもアメリカの代表のひとりとしてまつり上げられました。崖っぷちからこぼれ落ちそうな子どもたちをつかまえる。そんな主人公の行動はまさに、ジョンの活動と重なるところを感じさせます。が、アメリカの保守層にとっては、これは“インチキ”にしか映らないのかもしれません。

 “愛と平和のキャッチャー”が凶弾に倒れて26年。世界は、新しいコールドフィールドを求めているのでしょうか。スターティング・オーバーのときなのかもしれませんね。

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2006年12月 8日 (金)

Daily K-Scale 0402

よみたいときに よめば よゐ

お別れの会。

 「ほんの2~3分で世界を魅了してしまうのと、90年かかっても世界をほんの少しも動かせへんのと…一字違いで、なんでこんなに違いますのんやろなぁ」と言いながら、愛犬の散歩の折に、少し背中を反らして“イナバウアー!”と高笑いする96歳。

 将棋が大好きだったのですが、人と対局する時間がなかなか取れないので、ニンテンドーさんと対戦して、いつも「なんで機械はこんな強いのかなぁ」と初心者モードで負かされて、嘆いていた。

 いずれも、あの大学者・白川静さんのおちゃめな一面を伝える微笑ましいエピソードです。

 これらのお話は、白川さんの長女である津崎史さんが、12月7日にホテルグランヴィア京都の源氏の間で行われた『白川静先生を送る会』(主催学校法人立命館)で披露されたものの一部です。親族の方だからこそ知る白川さんの実像でした。

 この会には、そぼふる雨の中、650名の人々が参加しました。ぼくの横に座られたご婦人は、白川さんが立命館中学校の教壇に立たれていた頃の教え子の関係の方のようで、生前にもいろんな交流をされていたとのことでした。そんな白川さんの香りのようなものが
色濃く会場内に漂っていました。

 「あの甲骨文字がよく見えんのやけどなぁ…」病院の壁を見ながらつぶやかれたのが、意識のあるときの最後の言葉だったそうです。「ぼくはぎょうさん書いてきたなぁ」というくらいだから満足感に包まれて逝ったのでしょう、と史さん。でも最後まで、あと2年で完成させる予定だった「金文」の本のことを気にされていたようです。それだけに「あと2年」にすごくこだわっておられた、と。

 白川さんは「老後の部屋」というのを持っておられて、すべての仕事を終わらせてから、ゆっくり読みたい全集などを置いていらっしゃったようです。“結局、生涯現役だったので、父には老後がありませんでした。”と、史さんは笑顔で語られました。

 意識のなくなる間際まで「文字」に意識を向けていた。でもイチローと荒川静香とニンテンドーが好きだった。おちゃめな面があったからこそ、あんな発想もできたのでしょうか。大学者・白川静さんのご冥福を後輩として改めてお祈り申し上げます。

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Daily K-Scale 0401

よみたいときに よめば よゐ

処女鑑賞。

 クラシックのコンサートへ、はじめて行きました。ライブには、最低でも月に一度は出かけるのですが、クラシックのコンサートだけは、いままで行ったことがありませんでした。ナマのオケを聴いたのは中学校のころの体験教室で「管弦楽の夕べ」みたいなのをワケもわからず聴かされた以来だと思います。

 きっかけは、いつもお世話になっているサックス奏者の山本公成さんの奥さんであるニョタこと星子さんが大阪アカデミー合唱団に所属されていて、その定期演奏会に招待していただいた、ということ。演奏曲はJ.S.バッハ『ヨハネ受難曲』。シンフォニーホールでの開催でした。

 午後5時30分。ホール前で、公成さんと書家の伊藤進さんと待ち合わせ。前から14列目の右端の席に3人そろって座りました。ぼくははじめての経験ということもあって、緊張し、公成さんにクラシックのことをあれこれと質問しては、気を落ち着けようとしていました(と、言いながら、演奏の第一部では少々白河夜船だったのですが…)。ニョタさんがソリストになることを期待されていたこと、指揮者の指揮棒の振り方…。一挙にクラシック通(?)になれそうな勢いでした。さすが、プロがそばにいると頼りになります。

 いざ、演奏がはじめると、最初の一瞬でノックアウトされました。コーラスがはじまりました。「Herr(主よ)」。圧倒的な声量、もう声の波が目の前に洪水のように押しよせてくる感じです。ただただその迫力に目を見開くしかありませんでした。PAなどの電気の力を一切借りずに、このパワー…。「これがクラシックなんだ」ともうウルウルが止まりませんでした。

 演奏は5人のソリストとコーラスのソロや掛け合いを繰り返しながら進んでいきます。コーラスはあるときは愚かな民衆としてイエスに罵声を浴びせたり、愛を感じる大衆となったりしながら、物語を綴っていきます。そして大団円…。

 音の波が、魂を洗い流してキレイにしてくれました。クラシックってよかったです。ニョタさん、ありがとうございました。

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Daily K-Scale 0400

よみたいときに よめば よゐ

処女航空。

 東京へ、はじめて飛行機で行きました。だって、京都人はだんぜん新幹線で行く方が便利なのですから。だいたい伊丹空港へ行く時間(京都からなら小一時間)があれば、名古屋くらいまでは余裕で行けてしまうのですよ。例え、フライト時間が一時間としても、伊丹空港までと羽田空港から都内エリアへの所要時間をプラマイすると、「やっぱり新幹線の方がいいや!」となるのですね。

 これまでは、自由意志で「新幹線」をチョイスしていたのですが、今回は、「飛行機を指定」されてしまい、半ば強制でフライト上京となったのです。仕事で、なおかつクライアントの指定だから仕方がなかったのです。コストとか必要時間とかいろいろ計算した結果、JRで新大阪まで出て、空港リムジンバスに乗って伊丹空港に向かうのがいちばん効率がいいことがわかりました。

 前日は、風邪引きさんなので早めに帰宅して、風呂に入って髭を剃って、からだを洗って、着ていく服をチョイスして準備を怠らずにはじめての仕事に立ち向かおうと強く決意していたのですが、いざ蓋を開けてみると、結局、泊まりというか完徹になって、朝一番のJR快速に乗って帰宅、とんぼ帰りで東京に向かうという最悪の結果となりました。

 家に戻るまでの快速で寝過ごして「長浜」まで行かないか、とビクビク…。ぶじ京都で降りられたものの、今度は寝過ごして「福知山」まで行ってしまわなかとドキドキ…。行く際には、寝過ごして新大阪で降りられないんじゃないかと不安で不安で…。とにかく眠たいのに全然目が冴えて寝られない不思議な一日でした。

 で、東京への処女航空ですが、脱線しそうなくらいの乱気流による揺れはさておき、着陸寸前で見た「空からの富士山」がとても印象的でした。年始に新幹線から見た富士山(今、携帯の待ち受け画面に使ってます)以来の、感動的な富士山(冠雪が見事!)でした。

 聞くところによると、夜の伊丹空港へのランディングはパイロットも喜ぶ感動モンとか。次はぜひ、鑑賞したいものです、みたいなクセになりそうな上洛物語でした。チャンチャン!

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2006年12月 5日 (火)

Daily K-Scale 0399

よみたいときに よめば よゐ

とうとう爺さんです。

 私事ではございますが、本日、とうとうお爺さんになってしまいました。長男に娘が出来たのです。早い話が、ぼくの孫娘が生まれたのです。2850グラムで出てきたというから、最近では健康優良児と呼んでもいいのでしょうか。

 まだ、電話で連絡をもらっただけで、本人を見ていないので、なんとも言えませんが、やはり子どもが生まれるのとは少し気分が違います。なんと言えばいいのでしょうか。親になるときは、なにか背筋がピンと伸びるような張りつめた気分が胃の奥から熱く突きあがってきたものですが、爺さんの気分というのは、どこか「のほほん」とした熱いというより「温い」感覚でしょうか。ほわぁとした空気に包まれたような感じです。

 父親18歳、母親17歳。はてさて、これから、どう生き抜いていくことやら。いくつになろうと、親は親、子は子です。父親になっても息子は息子。どこかで、しっかりつながっていかなければならないのでしょう。人生は持ち回りとも言います。ぼくが、親をはじめいろんな方々からもらってきたことを、今度は次の世代たちに受け渡していくことを意識しなければならないのでしょう。その、きっかけを、今、与えてもらったのだと思います。

 「お父さん、ちょっと話があるんやけど…」と、高校を一学期で卒業して働き出して2年余りの長男が神妙な顔をして家に帰って来たのは今年の夏のこと。週に一度ほどしか家に帰って来ない生活をしていた彼は、やおら「子どもが出来たんで結婚しようと思う」と打ち明けました。どうやら、反対されると思っていたようで、夫婦そろって「それは、めでたい」と言ったらあっけにとられていました。それから、相手の家族に会い、話は進んで、あっという間に今日を迎えました。これで、長男もいっぱしの大人です。

 明日は東京出張…。どうやら、孫娘と対面できるのは週末になりそうです。「信じられない…」という声があちらこちらから聞えてきそうです。が、これからも、堂々と自分たちの足で歩いていってほしいものです。これからは、3人4脚での旅になるのですから。

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2006年12月 3日 (日)

Daily K-Scale 0398

よみたいときに よめば よゐ

見せしめは、わかりやすく。

 プロレス界の秘密結社「虎の穴」を抜け出したタイガーマスクこと伊達直人は、常にその存在を脅かされていました。彼はいつも、線路を歩いていて「虎の穴」から差し向けられた特急列車に撥ね殺される夢を見てうなされます。

 いつもタイガーマスクの抹殺を叶えんとする「虎の穴」なのですが、そのやり方は、とってもわかりやすい。誰が見ても「こりゃ、虎の穴の仕業だな」とすぐわかるような手段を取るのです。

 なぜ、そんなに「わかりやすい手段」を選ぶのでしょうか。それは、「見せしめ」だからなのです。「裏切った者への制裁」であることを裏切り者とその予備軍たちに知らしめるため。そして、「もし裏切ったなら、こんな目に遭うぞ!」という戒めでもあるのです。

 ロシア連邦保安局(FSB)の元幹部リトビネンコ氏が謎の死を遂げ、どうやら、その原因が放射性物質「ポロニウム210」であることが、英警察の調べで明らかになってきました。さらに、ブリティッシュ・エアウェイズ(BA)とフィンランド航空の旅客機から「ポロニウム210」が検出されたと報道されています。

 「ポロニウム210」は、致死量はわずか1兆分の7グラムといわれていて、ウランの100億倍の比放射能を有するとされています。ただ、体内に取り込まない限りは被曝の危険性は少ないともいわれていますが、内部被曝(つまり飲み込んだり傷口から注入したりすること)は、その致死量からも判るとおり致命的となります。
※タバコの煙にも極微量に含まれています。出所はタバコ栽培に多用される化学肥料(リン酸肥料)の材料であるリンに不純物として含まれるウランだと考えられています。

 こんな性質の物質ですから、持っているのは核施設くらいのもの。到底、一般人が手に入れられる代物ではありません。人を暗殺するには、これほど「足のつきやすい物質」ないのです。

 「我々に盾突くとどうなるか、よく見ておけ」という呪いの言葉が「ポロニウム210」に込められているように感じます。このわかりやすこそに、とても怖いものを覚えるのはぼくだけでしょうか?

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2006年12月 2日 (土)

Daily K-Scale 0397

よみたいときに よめば よゐ

風邪ひいて休みます。

 どうやら風邪をひいたようです。背筋がゾクゾクっとして、ノドがなんだかこそば痒くて、眼球の奥がまったりと重苦しくて…。この症状って、やっぱり世間でいうところの「風邪」ですよね。

 フリーになって早10年になりますが、これまで病気といわれるような病気にもならず(あ、糖尿病は棚の上へ…)、ここまで来ることができました。年に一回ほど「風邪っぽい」症状には陥るのですが、たいてい土日とかの休日になることが多く、医者にも行けず、家で寝込んでいると、不思議と月曜日には「全快」になっている、というラッキーさでした。

 会社勤めしているときは、けっこう風邪をひいて休んだりしていました。あるときなんか、扁桃腺に炎症が起こって、2週間にわたって毎日点滴を打って、自宅療養したことがありました。月のうち、2週間も休むと、半分は出勤していない、ということになります。それでも、いつも通り給料を払ってくれた会社に、今では、ただただ感謝ですね。

 フリーになった今は、こんなことしていたら、おまんま食い上げです。2週間も休んでしまうと、社会復帰した日にゃ、浦島太郎状態で、誰が誰なのかわからない、「ここはどこ、わたしは誰?」になるでしょう。時間の流れも速く、激しくなっていますから。

 「フリーはからだが資本」。確かに身に沁みて実感しています。でも、そんな自己脅迫観念が、いま問題視だれている「うつ」などの原因となっているようです。「自分がいないとなんともならない」「ここで休むと食っていけない」など、自分に対して必要以上の責任感を負うことで、ストレスが生み出され、心がそのストレスに耐え切れなくなって、「うつ」を引き起こすのだそうです。健全に生きていくには、自分を追い込みすぎてはいけないのです。

 たかが「風邪」、されど「風邪」。「これは、きっと神さまが与えてくださった休息の時間」と感謝して休ませていただく。それくらいの余裕を持って生きていきたいものです。この土日は、風邪をひいて、床に伏せる予定です(笑)。みなさんもごゆるりと。

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2006年12月 1日 (金)

Daily K-Scale 0396

よみたいときに よめば よゐ

器を磨こう。

 今日からギャラリーのトイレ掃除をすることにしました。「運勢がよくなるよ」という友人の助言をそのまま受け入れて、実行することにしたのです。

 最初は、やり方さえよくわかりませんでした。思い起こせば、トイレ掃除なんて、中学生のころ以来、していないような気がします。あのころは、ホースでドバーッと水を撒いて、ブラシでゴシゴシ擦るだけで終わらせていたように思います。便器を丁寧に磨くなんてこと、したことなかったように憶えています。そんな40男が、柄付タワシと雑巾を使って、トイレの床や壁、そして便器まで掃除しようというのですから、いろいろ学ばなければならないことがいっぱいありました。

 ギャラリーのトイレは和式なので、掃除にも洋式とは違う方法が求められます。水の出口部分や縁には水垢がつきやすいので、特に念入りに磨かなければなりません。やたら水を掛ければいいものでもなく、適度に洗剤をつけて、丁寧に磨いてやらなければなりません。つまりは、便器に愛情を注がなければキレイにならないのです。

 初日ですが、掃除をしているうちに、ひとつ気がつきました。感謝の気持ちです。いつも、こいつは、ぼくの汚いものを受け止めてくれていたんだ。文句も言わずに、引き受けてくれていたのです。そう思うと、感謝の念とともに、とてもいとおしい気持ちが湧いてきました。「キレイにしてあげたい」と素直に思えたのです。 

 もともと「運勢がよくなる」と言われて、欲望を実現するためにはじめたトイレ掃除でしたが、いきなり初日から想いが変わりました。素直にキレイにしたい、という気持ちが芽生えたのです。これってスゴイと思いました。欲がなくなったんですよ。別に運が、どうのこうのは、どうでもいい、と思えるようになったんです。

 どうやら、長く続けることができそうです。便器を磨いているとなぜか、自分の心を磨いているような清清しい気持ちになれます。なにかを美しくすることって、心に作用するなにかがあるのですね。それに気づいただけでも、はじめた意義があるというものです

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Daily K-Scale 0395

よみたいときに よめば よゐ

終わりは、はじまり。

 11月30日。ふたつの「コト」が終わりを告げました。ひとつは、JAGDA大阪主催の「BODY WORK」展。いつもは、コピーライター&プランナーという肩書きでビジネスさせていただいているのですが、ときどきデザイナーとなって創造&想像の翼を広げさせてもらってます。その一環というか流れの中で、今回は参加させていただきました。巨匠の方々といっしょ、ということで、たいへん緊張しましたが、「ま、悪くなかったな」というのが感想です。

 もうひとつ終わったのが「ISIS編集学校の14期・破コースの師範代」。これは、昨年4月からはじまった「ISIS編集学校」との関係が一区切りした、ということです。思い起こせば、2年前の4月にムリを言って「編集学校」に入学して、「守」「破」「花伝所」と約1年間の学衆(編集学校では生徒のことをこう呼びます)を経て、今年は「守」「破」の師範代(講師のことです)を勤めさせていただきました。あっと言う間の2年間でした。「編集学校」で、しっかり厄年の厄払いさせていただいた、という感じです。

 先の「BODY WORK」展は、こじんまりとしたイベントながら、今後のぼくの活動に大きな意味を与えてくれるんじゃないか、となんとなくですが予測しています。これをきっかけにして、来年は世界が大きく拡がりそうな“予感”がするのです。デザインというか「イメージ」や「イマジネーション」で、世界と「コミュニケーション」していく。そんな動きができそうな気がします。

 そして、「ISIS編集学校」の方は、次の章に突入という感じでしょうか。学衆と師範代という両極のポジションを体験して、一応「編集術」の基礎は身に着いたように思います。次は、この基本の上に応用を重ねていくのです。「編集学校」には「離」という、松岡正剛直伝の究極のコースがあります。限定30名の謎の稽古場です。来年度は、ぼくの「編集稽古」の集大成として、「離」に身を投じようと考えています。

 終わりは、はじまり。11月30日は、ぼくにとってはゴールであり、かつスタートとなる「大切な日」となりました。

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