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2007年1月31日 (水)

Daily K-Scale 0457

よみたいときに よめば よゐ

学校給食甲子園。

 世間では、「○○○甲子園」などと銘打ったいろんなコンテストが開催されています。先日は、東京都豊島区の女子栄養大を会場に「第1回全国学校給食甲子園」が開かれたそうです。

 これは、学校で給食を作っている栄養職員らを対象に、味と技術の日本一を決定するというイベント。全国の小・中学校と給食センター計1514施設が応募し、書類選考で残った12施設24名が決勝に臨みました。主催はNPO法人の「21世紀構想研究会」(東京都中央区)。郷土の味を競いあい食育を啓発していくのが狙いだそうです。

 ルールは、2人1組で1時間以内に5人分を調理するというもの。そこで、調理技術や地場産品の活用はもちろん、チームワークや子どもの好きな味をきちんと把握しているか、そして衛生管理なども審査されます。そんなプレッシャーを撥ね退けて選手たちは、次々と献立を仕上げていきます。北海道チームは名物の「サケの混ぜご飯」、愛知県勢は地場の八丁味噌で大豆を煮た八丁豆、鹿児島県チームは得意の黒豚汁…。会場には、各チーム自慢の郷土色豊かな献立がズラリと並びました。

激戦を制して優勝したのは長野県伊那市の長谷学校給食共同調理場の2人。献立は、クリや古代米などを混ぜた五穀ごはんにニジマスの香味ソースを合わせ、昔の樵たちが好んで食していたという野菜たっぷりのみそ汁・そま人汁、野菜のエゴマみそマヨ和え、すりおろしリンゴゼリーと牛乳という取り合わせでした。参加施設の中で最も多い種類の食材を使い、栄養に気を配った地場産品を使い、味のバランスも絶妙だった点が高く評価されたと言います。

 優勝した長谷学校給食共同調理場職員の方のコメントは「子どもたちが将来自分でご飯を作るとき、『給食で出たものを作ってみよう』と思ってもらえるように心がけている」そうです。食育への関心が高まっている昨今、学校給食は大切な食育の場です。給食費を払わないような困った保護者も増えてきた世相ですが、こんなイベントを通じて、もっとおいしい給食をつくっていただいて、食育のレベル向上に努めてほしいものです。

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2007年1月30日 (火)

Daily K-Scale 0456

よみたいときに よめば よゐ

耳を貸しても左右されないこと。

 荷をかついでロバをひいていた親子は、村人に「ロバに荷を乗せないとはもったいない」と言われてそのとおりにしました。

 ロバに荷を乗せた親子は次の村で「荷を乗せていたらロバが持たないよ。乗せるなら子どもだろう。まったく知恵がないね」と言われて、また、そのとおりにしました。

 子どもをロバに乗せていると次の村では「普通は親をロバに乗せて子どもは歩くだろうに。まったく親不孝者だ」と言われました。そこで、親はロバに乗り、子どもを歩かせました。

 次の村では「ひどい親もいたもんだ。あんな小さな子を歩かせて自分はロバに乗っているよ」と非難されてしまいました。

 致し方なく、ふたりは荷を背負ったままロバに乗りました。すると「ロバになんてことをする、動物虐待だ」と動物愛護の人から大いに叱られてしまいました。

 途方に暮れた親子はついに決心して、ふたりでロバをかつぎました。それを見た村人たちは「あいつらは頭がおかしいんじゃないか、近づいたらダメだ」とウワサしました。

 これは、「ろばをかついだ親子」というイソップ物語のひとつです。他人の意見に左右されてばかりいると、結局、自分を見失うということを伝えている、と言われています。逆に言うと、自分の考えがしっかりしていれば、迷いは起こらないということなのです。

 世間にはいろんな人がいます。十人十色というほどに、その意見もさまざまです。その意見のひとつひとつに応えていたら、とても統一したことはできないでしょう。常に取捨選択することを考えなければならないのです。「和」を以て尊しとするのが日本人ですが、すべてに「いい人」になることはできません。

 「同じ考え」なのか「違う考え」なのか。それを認識することが大切なことなのです。それを認識しないで、ケンカを避けるためだけに同化を図ることこそ「どうかしている」ことなのです。

 確固たる自分の考えを持ち、どんな意見を浴びようと、きちんと説明し納得してもらう。それが、自立することなのですね。

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2007年1月29日 (月)

Daily K-Scale 0455

よみたいときに よめば よゐ

罪を憎んで、納豆を憎まず。

 納豆が品切れで手に入らない!という意見が噴出していると思っていたら、あっという間に売れなくなったとお店のナゲキの声を聞くようになってしまいました。

 そう、あの「あるある事件」です。データの捏造つまり“やらせ”をして番組を作っていたとして大問題になってしまいましたね。実験にかけた時間を水増ししたり、識者が実際に言ってないことをさも発言していたかのように伝えたり…。

 ま、このような事態がどこから発覚したのか、ということもあるのですが、往々にして、確認を怠ったり、個人の思い込みをそのまま採用にしたりした結果、取り返しのつかないことになっていまったということがあります。ただ、今回のは、そういう事故ではなく、意図的に捏造が行われた「事件」だということです。悪意が働いているのです。ウワサレベルですが、タイアップがあったとかも囁かれています。オレたちが流行をコントロールしている…みたいな思い上がりがあったのかもしれませんね。想像のレベルですが…。

 一連のこの事件を眺めていて、ふと「はだかの王様」の話を思い浮かべました。服を着てもいない王様の姿を見て、多くの国民が彼の衣装を称賛するという話ですね。子どもだけが事実を正しく認識して「王様ははだかだ!」と宣言します。そこではじめて国民たちも「そうだ」と気がつくわけです。

 「納豆」は「見えない衣装」だったのかもしれません。みんなが「ダイエットに効果がある」と信じ込まされていた。それをどこかの子どもが「みんなヤラセだ!」とスッパ抜いちゃった。バラしてしまったのです。その結果、「見えないけれど価値があった服が無価値になった」ように、納豆も「価値ないもの」となってしまったのです。納豆には、なんの罪もないのにです。

 国民たちは「騙された」と怒るでしょう。でも、まんまと口車に乗せられていたのは誰なのでしょう。いつも思いますが、国民たちは自分を棚に上げすぎです(もちろんぼくも含めてです)。そして、「納豆」までも罪人扱いですね。でも、それは、少し理不尽かも…。

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2007年1月28日 (日)

Daily K-Scale 0454

よみたいときに よめば よゐ

先人に、感謝を。

 「やがて、あなたも結婚をし、子を産む時がくる。子どもに、自分の昔を語り、『すばらしい青年に会ってあなたを産んだんだよ…』と言えるような、新しい人生をつくり出すということが、あなたの輝かしい人生の責任ではないですか。それが言えたら、今辛いと思っている両親に『産んでくださっただけでありがとう!』と言えると思いますよ」

 ちょっと長い引用になりましたが、これは托鉢者・石川洋氏が、「自分のからだは自分のものでしょ」と開き直るイレズミ少女に対して掛けた言葉なのです。彼女に対して、氏はこうも語りました。

 「あなたを構成している細胞にしてもあなたの造ったものではない。また、両親が造ったものでもない。何千年という気の遠くなる久遠の昔からあなたを大切に造って来た多くの先祖と、数知れない先人によって、あなたは生まれて来たのですよ。もし、途中でその懸命な努力を怠る先人がいたら、今のあなたはこの世に存在しない。それだけでも、私のからだは私の勝手でしょうとは言えないことだと思います」と。

 これらの話を聞いて、件のイレズミ少女は涙を流し、「これからどうして生きていったらいいのか」と問い続けたと言います。

 人を殺めることになんの意識も働かない。それはガタガタに緩んだ人間関係に原因があるようです。石川氏によると、それは「経験の伝承」という永い歴史の中で培われてきた「前意識」のようなものが崩壊への坂道を転げ落ちているのではないか、取りかえしのつかないものなっているのではないか、と指摘されているのです。

 人はその内面に「人を殺してしまうかもしれない」という宿業を潜ませているといいます。しかし、それと同時に、その衝動を自制する賢明さも持っているのです。だからこそ人間関係を維持していくことができるわけです。でも、このタガが、さまざまな要因のためにズタズタにされています。

 この思念を再びからだの中に注入しない限り、日本はまだまだ、精神の坂道を転がり落ち続けるしかないのでしょうね。

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2007年1月27日 (土)

Daily K-Scale 0453

よみたいときに よめば よゐ

21世紀の怪物。

 ぼくらを育ててくれたクジラは、今や高級食材を超えて、食べることが罪のような存在になってしまっています。それを追うかのように、現在、マグロが手に入りにくくなっています。

 マグロ品薄の原因は、上海の刺身&寿司ブームだという説があります。とにかく莫大な人口を持つ中国です。ブームが起こると他国のそれと比べものにならないほどの巨大な規模になります。記憶に新しいところでは「チーズ価格の急騰」などがありましたね。中国がクシャミをすると世界中が風邪をひいてしまうわけですね。

 ところで、このマグロに続いて、普遍的な生物食材が品薄の危機を迎えているといいます。特に、日本の文化とも言える食材がクライシスに瀕しているのです。

 まず、ウナギです。これは、急激に漁獲量が低下しているヨーロッパウナギをワシントン条約の対象として国際取引を規制しようとEUが提案していることに端を発しています。EUは、ヨーロッパウナギの稚魚が大量に漁獲され、中国など養殖され日本に輸出されていることが個体数減少の原因と指摘しています。

 日本はヨーロッパから直接ウナギを輸入しているわけではありませんが、もしワシントン条約対象となると中国経由の輸入が激減することが予想されています。蒲焼の味が、また遠い存在になってしまうのです。平賀源内さんもゲンナリ…という感じでしょうか。

 いずれにしても、今、食材に関わることで、変化が起こるとすれば、たいがいの場合、中国が関係しているようです。とにかく人口が多いのです。数の論理ではないですが、関わる人が多いと事態の規模も大きくなるものです。

 大量発生したイナゴの群れが田畑を食い尽くして大地を渡っていく姿を記録したドキュメンタリー映画を見たことがありますが、まさに現在の中国は、そのイナゴの群れそのものかもしれません。すべてを根絶やしにして増殖を続けていく運命を背負った怪物。もしかすると、そんなモンスターが21世紀、とうとう目覚めたのかもしれません。この化け物をいったい誰が退治してくれるのでしょうか。

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2007年1月26日 (金)

Daily K-Scale 0452

よみたいときに よめば よゐ

生物兵器。

 源平合戦のころ、倶利伽羅峠の戦いおいて、木曾義仲は角に松明をつけた数百頭の牛を平氏の軍勢へと夜間に放ち打ち破ったという話が残っています。

 第二次大戦時代には、旧ソビエト連邦が独ソ戦においてドイツ軍の戦車などを爆破するために、地雷犬というのを開発しました。これは、車両の下にえさを仕込んで、車両下に潜りこむことを条件反射で憶えさせられた犬の背中に信管を取りつけた爆薬を背負わせたもの。これらの犬たちは、実際に戦場に投入されたそうです。

 しかし、結果は惨憺たるものだったようです。地雷犬たちは、敵戦車の轟音に怯え、中には自陣に逃げて自爆したりしたといいます。また、ドイツ軍も火炎放射器などで犬たちを焼き払うという対抗策を実施。犬たちをパニックに陥れたそうです。記録によると300輌ほどのソ連軍戦車を破壊したとされていますが、1942年の戦闘では自軍部隊に大損害を与え、部隊撤退を余儀なくさせるという、まるでオウンゴールのような結果を出し、実戦の場から姿を消しました。

 最近では、2005年にはハリケーン・カトリーナによって引き起こされた洪水によって、テロリスト相手に毒矢を射るように訓練を受けていた軍用イルカが逃亡したと報道されました。政府はまったくのデマだと否定していて、真偽のほどはよくわかりません。

 動物愛護を声高に叫びながら、その一方で人類は、動物さえも兵器として使ってしまうという暴挙を犯しています。なにも知らず、おなかを減らした地雷犬のことを考えると、人間の傲慢さに情けなくなってきます。どこまで思い上がれば気が済むのだろう…と。

 ところで、今、イスラエルでは「人造スズメバチ」のような小型ロボット兵器が開発中だとか。リアルな生物では飽き足らず、人はアンドロイド的な武器まで開発しようとしているのです。こんなことがどんどん進んでいくと、いつしか殺人アンドロイドなんてのが現われるかもしれません。まったくターミネーターの世界が到来する可能性を孕んでいるのですね。そんな愚かなことをしでかさないようにしてほしいもの。人類はそんなにバカじゃないでしょうから。

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2007年1月25日 (木)

Daily K-Scale 0451

よみたいときに よめば よゐ

まずは、きものデビューを。

 ちょっと憧れていて、今年ぜひ実現したいことがあります。それは「きもの」です。18年ほど前にいただいた「きもの」があるのですが、まだ一度も袖を通したことがありません。「今年こそ、今年こそ…」と思いながら、またまた、今年こそ正月の間に着てみようと密かに、かつ強力に決意していたのですが、結局、袖を通すことはありませんでした。なんとも残念な限りです。

 パーティや式などで、きりりと「きもの」を着こなす人を見ていると、ほんとうにうっとりしてしまいます。でも、見る人を魅了するくらいに着こなすためには、かなり回数を重ねて「きもの」を着なければならないでしょう。慣れてこそ見栄えもするわけですね。となると、すきがあれば袖を通すようにしないといけない。「きもの」に着られているうちは、ハンガー並みだということなのです。

 でも、いつから着はじめましょうか。なんとなく長縄跳びの列に入るような気分です。回る縄の動きを見ているだけで、なかなか入ることができないような気がします。縄の動きに合わせてただただ首を上下に動かしているだけ…みたいな。どこかで、踏ん切りをつけないと、このまま一生、きものの世界には足を踏み入れることができないのではないか…ちょっと心配です。

 きものの世界は深いと聞きます。染め、刺繍、素材、織り、色、模様、仕立て…。考えてみると、これは和の世界の総合芸術と言ってもいいと思います。着こなすとなると、やはり、これらの要素のひとつひとつに深い造詣を持たなければならないでしょう。そうすればこそ、心で着ることができるようになるのだと思うのです。そのレベルにまでなろうすれば、まだまだ勉強が足りません。知らなければならないこと、身につけなければならないことが、まだまだいっぱいあるはずです。

 チャンスは、2月4日の節分でしょうか。太陰暦での新年です。旧暦の元日はちょうど日曜日。この日に袖を通してみましょうか。和への知識は、袖を通してから、きものデビューしてからでもいいでしょう。まずは、第一歩を踏み出すことが大切かもしれませんね。

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2007年1月24日 (水)

Daily K-Scale 0450

よみたいときに よめば よゐ

グローバル教という一神教。

 砂漠の民は、一瞬一瞬の判断が死生を決めてしまいます。砂漠か、オアシスかを選ばなければならないのです。判断を躊躇しているヒマはありません。短時間で的確な答えを出さなければなりません。そんな時に、合議や相談などしている余裕はありませんね。だから、一人のリーダーが瞬時に結論を出して、みんなを導くことになります。このようにして、砂漠で、唯一絶対的な一神教が確立し、二者択一的で二分法的な文化が生まれたといいます。

 一方、森の民には、前後左右上下、東西南北、さまざまな方向に気象や地形、動植物などなど多様な情報が渦巻いています。このような環境の下では、人間はゆっくり思考し、さまざまな選択肢について想像の翼を広げることになります。多岐にわたる専門知識をマンダラ的に取り入れて、調和しながら生きていこうとします。その結果、八百万の神々が存在する多神教が生まれ、多様な価値観を調和させながら生き方を模索する文化が生まれたのです。

 まさに、日本の文化は、ふたつ目の「森の民」の文化だったと思うのです。山や川、海…森羅万象に魂が宿り、そして人とともに、イキイキと暮らしてきた歴史を持っていました。あえて過去形で書いていますが、それが近ごろ変わってきたように思えるからです。

 今、グローバルスタンダードという教義が地球を席巻しようとしています。統一基準をもうけることで、世界の価値観をひとつに統一していこうということです。この体制が確立されると判断基準はグローバルスタンダードに則っているかどうかの二者択一的で二分法的になってしまいます。これって、世界の価値基準が「砂漠の一神教」になってしまう、ということですね。

 以前に書きましたが、ローマ帝国が滅んだ原因のひとつにキリスト教の浸透があったという説があります。一神教の二者択一的な価値基準が、それまで寛容性を持っていた帝国の性質を膠着したものに一変させたというのです。グローバルスタンダードもいいでしょうが、人心が砂漠化しないように、そして、寛容性や多様性が犠牲にならないような社会システムづくりをしていきたいものです。

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2007年1月23日 (火)

Daily K-Scale 0449

よみたいときに よめば よゐ

見えないものを見る。

 「海のほかに何も見えないときに、陸地がないと考えるのは、けっしてすぐれた探検家ではない」―これは、ベーコンが『学問の進歩』という著作で語った名言です。

 「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋のゆふぐれ」こちらは新古今を代表する歌人の藤原定家の有名な歌。わざわざ、そこにあるはずのない花や紅葉を「ない」と表現することで、存在しないものを鮮やかに出現させているのです。

 見えないから存在しない―それは、どうやら、かなり乱暴な判断のようですね。それは、すなわち「可能性を否定」することに他ならないのです。そのような発想の下では、新しい発見をすることはできないでしょう。それは、決して科学の世界だけの話ではなく、私たちの日常生活においても同じことなのではないでしょうか。

 見えないものを想像してみること。もし、ここに○○があったなら…と考えてみること。ないものをあえて○○がない、と言ってみること。ときに、ないものを描き出すことによって、リアルに存在する以上に、そのもの自体の存在感が際立つことがあります。それは、言うなれば「想像力の伝播」と表現してもいいでしょうか。

 自分がイメージしたことを、自分以外の人に受け渡す。それを、コミュニケーションと呼ぶのですが、それにはイメージをマネージメントしなければなりません。渡す相手に合わせて加工しなければ伝えたいことは伝わりません。懸命に日本語でアメリカ人に説明しても理解してもらえませんね。説明内容が情報とすれば、それを英語に翻訳するという加工をしなければアメリカ人には理解できないのです。これを「編集」と呼ぶのです。

 ないものをあえて「○○がない」と表現してみる。先の例ならば、「海ばかり」と言わないで「陸がない」と言ってみる。すると、ほら、「陸」という概念が明確に現れるでしょう。これも「編集」なのです。つまり、ないものを探してみる。足りないことを見つけ出す。それが、新しい発想や発見をするためのポイントになるのです。さぁ、さっそく、ないもの、足りないものを見つけに行きましょう。

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2007年1月22日 (月)

Daily K-Scale 0448

よみたいときに よめば よゐ

リアルにあるアンサー。

 ネットが普及してから、ほんとうに便利になった。例えば、資料探し。これまでなら、図書館にこもり、あちこちの官庁に足を運び、実際に現地に出かけて集めるのが普通でした。それが、今やPCを前にしてマウスとキーボードを操るだけで古今東西あらゆるカテゴリーの情報があっという間に目の前に掲示されてしまうのです。

 こんな状況ですから、知的引きこもりの人が増えるのもわからないでもありません。バーチャルとはいうものの、かなり臨場感のあるワールドツアーしかもタイムトリップ的な要素さえも兼ね備えた旅が楽しめるのですから。PCの前から離れられなくなるのも十分に理解できるし、同感することもできます。

 ただ、「これらの楽しさは、“きっかけ”である」という意識だけは忘れずにいたい、と思います。PCで体験できることはすべてのうちのごく一部なんだ、と。これを入口にして知的冒険の旅に出ることは素敵なことなのですが、PCで得られる世界がすべてだと思ったら、大きな勘違いを起すと思うのです。

 昔、F1マニアの友人がいました。とにかく彼の知識といったら歩くF1エンサイクロペディアという感じで、知らないことはない、と自他ともに認めていたくらいです。ただ、哀しいことに、彼は、F1のナマのエグゾーストノートを聴いたことがありませんでした。あの、焦げたようなオイルの匂いも嗅いだことがありませんでした。そう、彼の知識はバーチャルだったのです。リアルな実体験による情報はなにもありませんでした。

 これって、今のネット情報に似ていると思うのです。どんな情報だって知っている。でも、知っているだけで、体験したことがない。これってどうなんだろうと思います。ダメなんじゃないか…と。

 コピーは足で書け、と新人のころ、先輩からよく言われました。現場にこそ答えがある、とも。だから、足を使って駆け回りました。その経験こそが、今では「宝物」だと感じています。確かにネットは便利です。でも、その便利に押し流されないように、なによりも経験することを大切にしながら書き物をしていきたいと思います。

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2007年1月21日 (日)

Daily K-Scale 0447

よみたいときに よめば よゐ

実感ないのも仕方がない?

 好景気は、いざなぎを超えた!とあちらこちらで語られています。それと平行して、好景気の実感のなさに対する意見も同じくらい頻繁に耳にします。景気がいいのやら、悪いやら…どっちでしょう。

 確かに今、企業は利益を上げているようです。早い話が、儲かっているのです。でも、その儲けはどうなっているのでしょう。かつてなら、儲けた分は従業員に賃金として還元されてきました。賃金アップとか臨時ボーナスとかに変換されていたのです。

 しかし、現在は企業を取り巻く競争環境がガラリと変わりました。それが中国やインドなどいわゆるBRICs諸国の台頭です。それは、低賃金による労働力の提供によるコスト削減でした。今や経済大国となった日本は高い労働コストゆえ国際的な競争力を低下させていたのです。だから、BRICs諸国に対向するためには、労働コストを下げる、つまりは、賃金を固定しコスト削減につなげたのです。「欲しがりません、勝つまでは…」ではないですが、「この苦しい時節を乗り越えれば…」的発想で、みんなが我慢をしていたのです。

 それに加えて、正社員数も減っているようです。浮動労働者=パートやアルバイト、派遣社員、契約社員を増やすことで、保険などの福利厚生関係の費用を抑え、労働コストを削減しました。

 これらの企業努力(マイナスの努力となりますが…)に追い風が吹きました。一時期IT寵児たちがよく口にしていた「株主利益の保護」です。「株式会社」の概念では、企業はあくまでも出資した株主のものです。彼らに配当金などの利益を提供できなければ、企業は健全な経営をしていないと見なされます。その結果、企業は、従業員への還元より株主への還元を重視するようになりました。

 一生懸命に働いて会社を大きくしてきた従業員、日々の売買でたまたまその企業の株式を所有した投資家。いったいどちらが本当の企業の主か、という議論もあると思いますが、とにかく企業の利益は、働かずに利を上げる投資家にシフトしています。持てる者には益々利益が集まり、一般庶民には届かないという格差。これが、庶民が好景気の実感を持てない理由のひとつだと思います。

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2007年1月20日 (土)

Daily K-Scale 0446

よみたいときに よめば よゐ

ありがとう、といってもらえる仕事。

 マネーゲームと労働の違いってなんだろう、ということを考えてみました。どちらも「お金を儲ける」ことに違いないのですが、似て非なるもの。では、どういう違いがあるのでしょうか。

 先日、こんなことがありました。江戸時代に書かれた百科事典で『俚言集覧』という書物があります。1960年代に復刻されて3巻の本として世間に出されたのですが、ぼくはその本を探していました。アマゾンで検索したのですが、在庫切れ状態。そこで、1巻あたり上限2万円で予約しました。するとどうでしょう、ものの5分もしないうちに出品されました。しかも、アマゾンの規定らしいのですが、出品されたとたんに自動的に購入になるのだそうです。

 先によく調べておけばよかったのですが、市場相場では1巻あたり8千円ほどでした。つまり3倍近い値段で購入したことになるわけです。そりゃ、売る側はよろこんで売りますよね。上限2万円なんて書いてあったら、「こいつ2万円出せる余力があるんだ」と思いますよね。それが当然のことだと思います。

 でも、でも、なのです。これこそがマネーゲームだと思うのです。投資チックと言ってもいいかもしれません。

 かつて、ある経営者の方から聞いた話です。以前に書いたかもしれません。彼は鉄鋼関係の部材メーカーなのですが、一時期鉄鋼市場が急騰して、鉄鋼価格がとんでもなく跳ね上がりました。当然、鉄鋼メーカーとしたら、値上がりした分、利ざやがかせげるのですが、彼はあえて旧価格で関係企業に売りました。投機的な利益を上げることは本意ではないと、信念を通したそうです。関係企業から「ありがとう」と心から感謝されたそうです。

 お客様に「ありがとう」と言われること。それが、マネーゲームと仕事の違いでしょうか。本業ではないところで利ざやを稼ぐようなことをしないこと。ぼくは、それを心に、ビジネスをしていこうと決めました。相手の足元を見るような商売をしてはいけません。人の弱みに付け込むようなことをすればいつか自分に還ってくるに違いないから…。いいものが戻ってくるようにしたいものですね。

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2007年1月19日 (金)

Daily K-Scale 0445

よみたいときに よめば よゐ

「勝ち」より「価値」。

 プロメテウスがゼウスから火を盗んで人間に与えたばっかりに、人間は生命の糧を隠されてしまい、辛い農作業によって命をすり減らしながら大地を耕し、食べ物を手に入れなければ生きていけなくなりました。これが、ギリシア神話での労働観。

 アダムとイブが蛇にそそのかされて、禁断の木の実を食べてしまったので、怒った神は、「土に帰ること=死の運命」と「苦しんで地から食物を取る=労働の運命」とを与えて、エデンの園から追放したといいます。これが旧約聖書での労働観。

 アマテラスの弟ツクヨミに殺された地上の食物の神ウケモチ。彼の頭から馬と牛、ひたいの上から粟、眉毛の上から蚕、目の中から稗、腹から稲、陰部からは麦と大豆と小豆が生まれました。これらを献上されたアマテラスは、自らこれらの食物を育てたそうです。これが日本の神話での労働観。

 人間の労働は、まず農業にはじまったのですが。日本と欧米での労働観は、これほどに異なります。つまり、欧米では「罰として労働が課せられた」のに、日本では「神の行為として労働があった」のです。欧米人は、辛い労働を課せられることで神との区別を認識させられ、反対に日本人は、労働することで神の尊さに近づこうとした。そんな、神に対する決定的な態度の違いがあるのです。

 では、現代の日本の労働観はいかがなものでしょう。やはり、一種の苦痛であることは確かです。時給換算すると悲惨な給料、サービス残業の山…できれば働かずして儲けられないか、と思っている人も多いはずですね。その象徴が、投資市場などのトレーディング。濡れ手で粟をもくろむ人が渦巻いています。が、あれはゲームであって、労働ではないと思います。神聖なる神の行為でないからです。

 働くことは神に近づくこと。その想いが胸にあれば、毎日が、もっと輝きに満ちたものになるのではないでしょうか。罰への対価を得るために働くのではなく、神に近づこうと努力した結果、報酬が与えられる。そう考えれば、労働自体がとても価値あるものとなるはずです。「勝ち組」より「価値組み」を意識したいものですね。

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2007年1月18日 (木)

Daily K-Scale 0444

よみたいときに よめば よゐ

頼まない、誓うのだ。

 先日、自治会活動で役員をごいっしょした方が、地元の市会議員選挙に立候補されました。ご縁もあることなので、事務所開きの集会に伺いました。

 こちらがドギマギするくらい厚かましさのない男だ、と応援に駆けつけた同じ党の国会議員さんなんかも言ってましたが、ほんとうに真面目で律儀な方で、いわゆる政治家的なあざとさのない人なのです。その点、人望の篤い人だと思います。

 集会の最後に、彼のあいさつがあったのですが、ちょっといい言葉があったので紹介したいと思います。

 「今朝、氏神さんにお参りして、必勝の誓いをしてまいりました」彼はこう言いました。ぼくは思います。普通なら「必勝の祈願をしてまいりました」となるのではないでしょうか。人は、たいてい神頼みをするものですから、その点、彼の神への態度に潔いものを感じてしまったのです。

 年始の初詣をはじめ、人は神さまにいろんなことをお願いします。お金持ちになれますように、とか、健康なれますように、とか、出世できますように、とか。いずれにしても、神さまの力でなんとかしてくださいよ、と念じにいくわけです。

 でも、どうでしょう。神さまだって、一方的に頼まれたってどうしようもないよ、自分で努力しなさいよ、と言いたいのではないでしょうか。中には、「あの神さまは、ちっとも願い事を叶えてくれない…」なんて、グチをこぼす人もいるようです。神さまからすれば、「なにを勝手なことうを!!」とキレてもおかしくない状態だと思うのですが、いかがでしょう。

 その点、彼は「必勝の誓い」を神前でしてきたと言います。勝利は自分で手に入れる、それをどうか見守ってほしい。そんな彼の清らかな姿勢に、ぼくは感銘を受けました。ぼくも毎月朔日に氏神さまにお参りしています。これからは、その際に「おねだり」するのではなく「誓いを立てる」ようにしようと思います。決して、神さまにおんぶにだっこにならないように。

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Daily K-Scale 0443

よみたいときに よめば よゐ

咀嚼してから吐き出そう。

 維新以降、西周(にしあまね)という人が、さまざまな西洋思想に関わる言葉を日本語に翻訳しました。それは「藝術」「理性」「科學」「技術」など多岐にわたっています。西周は、啓蒙家で教育者であり、江戸幕府では将軍・徳川慶喜の政治顧問で、後に貴族院議員になりました。男爵にして、獨逸学協会学校の初代校長でもありました。

 開国以来、急激な西欧化で、思想的にも生活様式においても、大きな変革が迫れていた明治初期において、彼の翻訳作業の成果はどれほど大きかったことでしょう。海のものとも山のものともわからない未知の「思考様式」を等身大(と言っては大げさでしょうか)の日本語に変換して日本人に提示できたことで、日本人の文明化はどんなにスムーズに進行していったことでしょう。

 思想的なことは上記のごとく「日本化」されましたが、一般的な生活レベルでは西欧はどう「日本化」されたのでしょう。それも、ネーミングが教えてくれます。例えば「アイロン」。もともとの意味を追いかけると「鉄」ですが、日本では「衣服のシワを伸ばす道具」を意味します。また、「ミシン」もその類ですね。「機械」が「自動縫い物機」を表現しているのです。

 「アイロン」も「ミシン」も、日本人が一度、自分の臓腑に入れて消化したうえで、再度具現化したような印象があります。神仏習合という言葉がありますが東西習合といってもいいような、モード変換が行われていたのです。考えてみると、今やこんな変換の例はほとんどないような気がしませんか。「そのままやんか!」とツッコミたくなるような変換例が多すぎます。外来語をそのまま使うことが多いのです。だから、言葉を聞いただけでは、何のことかよくわからないのです。国語審議会が指針を出すのもわかります。

 モノが浸透するのに要する時間が極端に短くなっていることに原因があるのかもしれません。咀嚼している余裕がないのです。でも、時間がないといっても、決して鵜呑みにせず、手を加えたいものです。というのも、文化は自国のモードに変換してこそ文化たりえるのでは?咀嚼してから吐き出す…それこそ文化創造だと思います。

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2007年1月17日 (水)

Daily K-Scale 0442

よみたいときに よめば よゐ

出産格差社会。

 ビックリしました。日本産婦人科学会というのがあって、その組織が2003年に調査したところ、体外受精による出生数は約1万7400人に上ったといいます。これは、新生児の65人に1人が体外受精児だということらしいのです。

 体外受精で出産するということは、不妊治療を受けていると考えてほぼ間違いないと思います。体外受精での妊娠率は100%とはならないでしょう。そう考えると、体外受精での出産数をはるかに超える体外受精措置が実行されているわけです。

 考えてみれば、それほど女性は妊娠しにくくなっているのでしょうか。あるいは、男性は妊娠させにくくなっているのでしょうか。さまざまな環境ホルモンの影響や残留有機物、大気汚染、放射能など、有害物質がじわじわと人類に影響を及ぼしているのかもしれません。イルカが突然、群れで砂浜に自殺的突撃をするのも、彼らのからだの中に蓄積された有害物質による狂気の凶行だという説があります。現代人の親子殺し、いじめなども、そんな有害物質の影響だという説があることを以前に紹介したこともありましたね。

 科学が発達し、これまでなら諦めなければならなかったことが実現できるようになったことは、とても喜ばしいことです。子宝がほしいと切に考えていた人たちにとって、排卵誘発剤の開発や体外受精の実施は、なによりの朗報だったはずです。科学は、やはり人類の幸福のために発展し応用されなければならないのです。

 でも、でもなのです。何事にもにはと陰、凹には凸、正には負があるものなのです。というのは、現在、この不妊治療は健康保険が適用されないので、とても高額な医療費が必要となるのです。つまり、お金持ちにしか施行できない治療なのです。

 かつては「貧乏人の子だくさん」なんて言って、貧乏な人は子づくりくらいしか楽しみがないから、ついつい子だくさんになるもんだ、とされていましたが、この少子化の時代、ほんとうに子宝を授けてもらえるのはお金持ちだけになっていくのかもしれません。出産にまで、格差社会が到来しつつある、ということなのでしょうか。

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2007年1月16日 (火)

Daily K-Scale 0441

よみたいときに よめば よゐ

寛容性と溶解。

 『ローマ人の物語』を完結させた塩野七生さんが「文芸春秋」で興味深いお話をされていたので紹介したいと思います。それは、同時代に権勢をふるった帝国であるローマと秦との比較です。どちらも長大な国境線を持ち、同じ水準の技術力を誇っていました。

 秦の始皇帝は、万里の長城を築いて蛮族との間に壁を設け、「閉鎖された帝国」を築きました。つまり「分別」をもって国を維持していこうとしたのです。一方、ローマはどうしたのか。それは「すべての道はローマに通ず」という諺が著すように、道路網をはり巡らせたのです。つまり、「開かれた帝国」を築き上げたのでした。

 このコンセプトがあったからこそ、ローマはあれほどまでの広大な帝国を維持することができたのです。それは、敵対した異民族にさえも「ローマ市民権」を与えたという史実にも表われています。だからこそ、ガリア(今のフランス)やヒスパニア(スペイン)、ブリタニア(イギリス)の人たちも自分たちを「ローマ人」として誇りに思っていたと伝えられているのです。

 この寛容性がローマの特長である、と塩野さんは語っています。その根本にあったのが、ギリシアから連綿と継承されてきた「人間中心主義」にあったと。それが、キリスト教という「神の支配に服する人間集団が増加していくこと」で内側から変質し溶解していったのがローマの歴史であると語られています。

 よく似たことが、1500年の歳月を隔てた日本でも起こりつつあるのではないでしょうか。日本は「八百万の神々の国」でした。その点では、オリンポスの神々に守られたローマとよく似ています。つまりは「寛容」がポイントだったのです。「寛容」は「溶解」を導き、「共存共生」を育てます。そうして日本は発展してきました。それが今、「利益」をご神体とする一神教が蔓延し、「寛容」を疎外しています。「勝ち組」だけしか認めない社会が生まれようとしているのです。一神教に支配されたローマは衰退の一途を辿りました。日本がそういう轍を踏まないように、私たちは「多様性」を常に意識して「開かれた国」をつくっていきたいものですね。

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2007年1月15日 (月)

Daily K-Scale 0440

よみたいときに よめば よゐ

背負うもの。

 ぼくが高校時代在籍していた「陸上部」は、先輩方がなかなかに立派な方が多くて、全日本級の選手がいらっしゃったりしました。そんなクラブで、ぼくは鍛えられたのです。

 高校2年生の夏の強化合宿でのことでした。顧問の先生の紹介でアジア大会優勝だったかの800メートルの女子選手の方(失礼ながらお名前を失念してしまいました)が講演してくださいました。彼女は、日の丸を背負って走ることの歓喜、緊張感を熱く語ってくださいました。ぼくたちは、その話に自分の姿を重ね合わせて夢見たものでした。結局、日の丸を背負って競技するなんて、夢のまた夢となってしまいましたが…。

 先日、ふと、この話を思い出しました。今年一年、どんな活動をしていくか、を考えているときに起こりました。「ぼくはなにを背負って生きてきたのか」という反省がベースにあったと思います。

 たとえば、コピーライターとしてのロールではどうでしょう。業界を牽引するような活動ができていたでしょうか。それは、あくまでも「利益を上げる」ための行為に過ぎなかったのではないか。とても周囲を十分に視野に入れて動いていたとはいえないでしょう。業界に連れ回されていた、あるいは時代に流されてここまで来た、という感じです。甘いな、と言われても仕方がないと思います。

 背負うものがあるとき、人は強くなれるのだと思います。自分だけでは出すことの出来ない力が発揮されるのです。火事場のくそ力といえば味気ないのですが、神がかり的なパワーが生み出せるのはこの「背負うもの」があるからこそなのです。

 さて、これから、ぼくはなにを背負って歩いていきましょうか。業界なのか、家族なのか、それとも日本なのか…。背負ったときにぼくは変わると思います。きっとさなぎから抜け出すことができることでしょう。そして、ぼくの瞳はキラキラと輝くはずです。20年以上前にぼくが魅せられた、800メートルの選手の瞳のように。まぶしい光を次の世代の人たちに放つことができるんでしょう。そんな夢を新しい世代に受け渡すことができる人になりたいものです。

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2007年1月14日 (日)

Daily K-Scale 0439

よみたいときに よめば よゐ

初ゴンチチ。

 「ゴンチチ」のコンサートに行った。チチさんのソロ・コンサートは何度か行ったことがあった。そこで、死んでしまうことをテーマにしたチチさんの歌を聴いた。なんか哀しいコンサートだったが、なんともいえない味のあるコンサートだった。

 今回は、いろいろあって、厚かましくもチチさんご本人の手を煩わせてチケットを手配していただいた。ご本人からも「真剣に音楽しているところを見てください」とメッセージをいただいた。期待をいっぱいに、ぼくら一行5名は会場のNHKホールに集合した。

 ホールの定員は4千名と聴いていた。4千名といえば大人数である。そう簡単に集められる人数ではない。何度か音楽プロモーターの真似事をしたからわかるのだが、それはとてもタイヘンなことである。普段着のチチさんしか見ていなかったので、「ほんまにホールはいっぱいになるんかいな?」とハラハラしていた。

 でも、杞憂だった。なんせ「ゴンチチ」である。知名度は全国区、いやインターナショナルなのだ。ぼくふぜいがハラハラすることなどなかったのである。続々と人々が集まってきて、あれよあれよという間に会場はいっぱいに。4千人を集めるなんて簡単なんだ。

 いい音楽を提供すればたくさん人を集められるか、というとそういうものでもなさそうだ。素晴らしい音楽を提供しながら、人を集めることもできず、楽曲が売れることもなく、不遇を味わっている人もたくさんいる。いい音楽をしながら売れている―ゴンチチは、そんな類希なミュージシャンのひとつなのである。

 そんな、素晴らしいミュージシャンあるいはアーチストの演奏を心ゆくまで堪能させてもらった。新春早々、こんな幸せはないと思う。ハコもちょうどよい大きさでよかった。ゲストのオーボエ奏者である宮本さんもよかった。間もなく引退だということで聞き納め。こんなに贅沢なコンサートは久しぶりだった。
 
 ひとつ驚いたことは、ゴンザレス三上さんのキャラ。あれほど天然だとは知らなかった。もっと物静かな方だと想像していたのだが。これも新たな発見で、ますます「ゴンチチファン」になった次第だ。

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Daily K-Scale 0438

よみたいときに よめば よゐ

ばらばら、はらはら。

 ぼくが子どものころ、クジラの解体ショーなるものがありました。巨大なステージを組んで、そこに3メートルくらいのクジラを置いて解体し、小分けして肉として売るのです。ま、今のマグロの解体ショーのようなものです。まだ、クジラを獲ってもよかった時代のおおらかなお話でした。

 そんなクジラの解体ショーで憶えているのが、クジラを切り刻むのが、とても重労働のように見えたことです。筋肉隆々のおじさんが、額に玉のような汗を噴出しながら、歯を食いしばって巨大な包丁もどきを駆使してクジラをバラバラにしていきます。それは、もうスペクタルというほかありませんでした。「…」ぼくは、呆然として見つめていたものでした。

 ところで、あのおじさんは、どんな思いでクジラを解体していたのでしょうか?きっと、クジラという生きものとして捉えていたらとても尋常な精神状態でバラすことはできなかったのではないでしょうか。食べるための肉のかたまり…くらいに思わなきゃ解体なんてできないと思います。そう、ひとつのモノとして見なければならないわけなのです。

 高校時代の友人で、縁日で買ってきたひよこをニワトリに育てて最終的にすき焼きにして食べた、という人物がいました。今なら、「なんて惨酷な…」という声が聞えてきそうですが、ぼくたちの親の世代ではごく当たり前のことでした。「鶏をつぶす」経験をした人はいっぱいいました。それが「惨酷」となり、いつしか、魚さえおろせない人が増えてきました。中には、魚は切り身の状態で海を泳いでいると思っている、奇蹟のような人もいるそうです。

 年末年始、キーワードは「バラバラ」でしたね。兄が妹を切り刻み、妻が夫を解体し、そしてまだ誰かわかっていない人物がバラバラにされました。解体した人たちは、自分と関わりの深かった相手をどう思ってバラしたのでしょう。かわいさ余って憎さ…でしょうか?いずれにしても尋常な精神状態でできることではありません。人間のねじが、どこかではずれてしまっているのかもしれませんね。

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2007年1月12日 (金)

Daily K-Scale 0437

よみたいときに よめば よゐ

せっけんは、食べるべからず。

 子どもの心は疑うことを知りません。それほどまでに純真なのです。ぼくも、かつては、そんなピュアな心を持つ子どもでした。

 それは、幼稚園の大きい組さんの時代のある土曜日のことだったと思います。きっと初冬のころだったような気がします。

 その日は、幼稚園は半ドンで、お昼ご飯は家で食べることになっていました。当時のぼくの家は幼稚園から歩いて2分くらいのところにあって、走ってあっという間に家にたどり着いていました。もちろん、その日も、一目散に走って(子どもなので意味もなく笑いながら走って帰るのです。それがうれしいのです)帰宅しました。

 その日の昼食には、千枚漬けが並んでいました。薄切りにされた白いかぶらに紅色の鷹の爪の輪切りがなんとも鮮やかでした。ぼくの目は、この紅色の輪っかに釘付けになりました。なんとも食欲をそそる色に感じられたのです。そう思ったとたん、ぼくの右手の筋肉は電撃を受けたがごとく、すっとその紅に伸び、箸でその一片をはさむやいなや、口の中に放り込んだのです。

 「あ゛!」口の中で何かが炸裂しました。火を噴きそうな勢いで辛さがアタマの中を駆け巡ります。そんな朦朧とした状態ながら、ぼくは、あるコマーシャルを思い出したのです。ある女性が辛いものを食べてしまって、思わずせっけんを口に入れて辛さをしのぐ、というものでした。その映像を見たため、ぼくは「なるほど、もし辛いものを食べたらせっけんを口に入れたら直るのだ」と思い込んでいました。だから、結論はひとつ。ぼくは、洗面所に走って勢いよくせっけんを口に放り込みました。

 「あ゛!」再びです。今度は口の中が、なにか「カラカラ」になっていきます。たとえようのないイヤな感覚が口の中に広がりました。当然です。せっけんが口の中の脂質やたんぱく質を分解したのですから…。口の生物的組織は悲鳴を上げざるを得なかったのです。

 コマーシャルにやられた気分。ま、映像を恨んでも仕方がありませんが…。今どき、こんな風に信じ込む子どもっているのですかね。

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2007年1月11日 (木)

Daily K-Scale 0436

よみたいときに よめば よゐ

お風呂の思い出。

 小学校2年生まで住んでいた家は、薪で焚く五右衛門風呂でした。まず釜に薪を突っ込んで、その上に火をつけた新聞紙を置いて火を焚きます。しばらくして炎が上ったら、ころあいをみて薪を足して湯を沸かします。なかなか時間を要した記憶があります。

 入浴する際には、ゲス板というものを風呂桶に沈めて、足をヤケドしないようにします。あ、そうそう風呂桶はきれいな円形でした。お風呂が沸いたらゲス板を沈めておく…それが子どもであるぼくの仕事でした。もちろん、薪入れも手伝っていました。

 ぼくがお風呂に入っていると、母が「お湯冷めてへんか」と窓越しによく尋ねたものでした。子どものことですから、渋く熱めのお湯が好きっていうこともないので「ぜんぜん大丈夫やで」と答えたものでした。でも、「ちょっと冷めてるで」なんて答えると、すぐに薪を足して、お湯を沸かしてくれるのです。

 引っ越した先のお風呂はガスでした。浴槽には2つの穴があり、コックをひねると下の穴から湯船のお湯が吸い込まれ、上の穴から沸かされた熱いお湯が出てきます。子どもにとっては、このガス風呂は薪のお風呂に比べて、とってもスマートに思えました。都市生活あるいは近未来ライフを謳歌している気分でした。

 でも、ガス風呂になってからは、母の「お湯冷めてへんか」という声を聞くことはなくなりました。冷たいな、と思ったら自分でコックをひねればいい…いや、自分でしなければならなくなったのです。ひとつコミュニケーションの機会が減ってしまった、ということに気がついたのは、ずい分と時間が経ってからのことでした。

 今や、温度が下がると勝手に追い焚きしてくれて湯温を一定に保ってくれたり、半身浴ができる腰掛スペースがあったり…。お風呂はとても機能的になっています。便利さを追い求めるあまり、どこかでなにか大切なものをも洗い流してしまったような気がします。

 背中、流しましょうか…。そんな声が聞える、ちょっとサザエさん的ワールドですが、そんな世界も温かくていいな、と寒い夜に少し遠い日の記憶を手繰ってみました。

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Daily K-Scale 0435

よみたいときに よめば よゐ

ものさし。

 セクハラの先進国といえばアメリカ。かつては、大統領までが、セクハラに手を染めたことは、記憶に新しいところです。そんなアメリカで、近ごろ、とんでもないセクハラ事件が起こったそうです。

 ひとつは、メリーランド州で5歳の幼稚園男児が園内で女児のお尻をつねったそうです。それが、セクハラと認定され、彼の罪の記録は中学校を卒業するまでついて回ることになるそうです。もうひとつは、テキサス州で、女性教師に抱きついた4歳の男児が通園停止処分を受けたのだそうです。

 4~5歳といえば、まだまだお母さんにだっこしてもらっている歳ごろです。中には、まだおっぱいを吸っている子もいるくらいですから。そんな子どもたちが、幼稚園で先生に抱きつくこともあるでしょう。お母さんと間違えてしまうことだってあると思います。

 法律や規律は、ある種の「ものさし」です。その「ものさし」を使って、社会は、行動を「是」と「非」、「正」と「誤」、「善」
と「悪」などにジャッジメントします。でも、思いませんか、この「ものさし」は、ステージやシーンなど環境によって、その目盛りが変化すると。いろんな場面に合わせて、適宜、「ものさし」を持ち換えないといけないのではないでしょうか。

 女性のおしりをみだりに触ることはセクハラですし、抱きつくこともやはりよくないことです。でも、それは、成人の世界のお話。セクハラの「ものさし」をそっくそのまま幼稚園に当てはめるのはどうか…と思います。女の子のお尻をつねったばかりに、5歳から性的変質者のレッテルを貼られてしまう、女性教師に抱きついて通園停止処分になる。彼らは、さまざまな心の傷を背負って生きていかなければならない。これって、理不尽じゃないでしょうか。

 ルールは大切なもので、守っていかなければならないものです。しかし、使い方を間違えると、正義の押売りになってしまいます。人を守るためのルールが、ルールを守るために人を縛りつけるという矛盾が起こらないように、心したいものです。ルールは使うもので、決して使われるものではないのですから。

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2007年1月 8日 (月)

Daily K-Scale 0434

よみたいときに よめば よゐ

成人の日。

 今年の新成人は139万人だそうです。彼らが総人口に占める割合は1.09%で、過去最低を記録しています。最も多かった団塊世代の頃は270万人でした。あの時代と比べて、ほぼ半数にまで減ってしまったことになります。まさに少子化時代と言えるでしょうか。

 新成人の生まれたのは1987年、昭和62年。NTT株が上場され、いわゆる「財テクブーム」に沸いた年でした。また、安田火災が印象派の巨匠ゴッホの「ひまわり」を53億円で落札したり、東京都の1年間の地価上昇が85.7% を記録したり、バブル絶頂期でした。

 国鉄が分割・民営化され、JRグループ7社が発足。金賢姫による大韓航空機爆破事件が発生。朝日新聞社阪神支局襲撃事件(赤報隊事件)。世界の人口が50億人突破。などなど、今見直してみると、彼らの生まれた年は、まさに現在のさまざまな状況のタネを蒔いていた年といってもいいのではないでしょうか。

 ちなみにベストセラーは、俵万智『サラダ記念日』村上春樹『ノルウェイの森』安部譲二『塀の中の懲りない面々』宮本輝『優駿』など。ヒットソングは、瀬川瑛子「命くれない」、中森明菜「TANGO NOIR」、光GENJI「ガラスの十代」 、尾形大作「無錫旅情」 、桑田佳祐「悲しい気持ち」、 長渕剛「ろくなもんじゃねぇ」 、徳永英明「輝きながら…」、 小泉今日子「木枯しに抱かれて」など。

 バブルの申し子として生を受けた彼らも、はや成人。この20年間で日本も大きく変化しました。いつの間にか、効率や利潤ばかりが追い求められるようになり、多くの人が「勝ち組」を目標にしてしまっています。社会の格差が拡がり、夢と欲が混同されてしまっています。精神的な荒波が押しよせて来ているのです。

 新成人は少数精鋭だと思います。数年前までニュースを賑わせていた荒れた成人式も少なくなって来ています。モラルの乱れも沈静化しているのだと思いたいものです。そんな中で、周りよりも自分に対して意識を働かせて、内なる旅=自分探しの旅をしてほしいものです。2度目の成人式を済ませた世代は、そんな若い世代の姿を見て、再び自己を奮い立たせたいものです。

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Daily K-Scale 0433

よみたいときに よめば よゐ

邦画バブル。

 邦画が元気だそうです。映画のヒットの目安は興行収入10億円だそうですが、2006年は50億円を超えるメガヒット作が6本も出ました。「ゲド戦記」の76億円を筆頭に「LIMIT OF LOVE 海猿」の71億円、そして「THE 有頂天ホテル」の60億円と続きます。このように2002年を底にして、邦画は右肩上がりに転じました。その背景にはテレビの強い影響があるらしいのです。

 最近のヒット作の製作を担っているのはテレビ局。かつて斜陽に追いやった張本人が、邦画界を救っている格好となっているのです。

 なぜ、テレビ局製作の映画がヒットしやすいのでしょう。キーは「ドラマ」なのです。まずテレビドラマで主人公のキャラクターに親近感を持ってもらって、その後に映画でスケール感のあるものを見せてもっと喜んでもらう。テレビ局は、そういう戦略が取るのです。ヒットしたドラマのスライドなら、だいたいの興行収入も計算でき、リスクも少なく、より安全に映画製作ができるのです。

 確かに邦画は元気なのですが、気になることもあります。それは、決して映画人口が増えたわけではない、ということ。洋画から邦画にシフトしただけなのです。さらに外部からの資金投入が熱を帯び、今年度の邦画公開本数は前年比15%以上になりそうなのです。一部からは「供給過剰」という指摘も出ていて、「映画バブル」だとも言われています。そういえば、10数年前の「ビリヤードブーム」を思い出します。ブームの影響で、いいプールバーが何軒も潰されてしまいました。映画館が潰れるということは少ないでしょうが、いい映画人が減ってしまいかねない…という懸念があります。

 テレビドラマを大きなスクリーンで見ている感じ…が、今の邦画の現状だという人もいます。大画面の液晶テレビがリビングに鎮座まします時代です。こんな感想が出てくるのもわからにでもないよな、と思います。ただ、儲かるとわかると、いろんなところから、いろんな人たちがムラがってきます。その人たちにむちゃくちゃにされないように、邦画の人たちにはムリせず、楽しい作品づくりに勤しんでほしいものです。

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2007年1月 7日 (日)

Daily K-Scale 0432

よみたいときに よめば よゐ

ほんの少しの想像力を。

 要は、「想像力」なのです。言い換えるならば、「他人のふり見てわがふり直せ」であります。なにが言いたいか、というと「自分の身に置き換えて考えてみよう」ということです。

 ときどき、他人の行動や思考を批判する文章に出会います。それを読んでいて思うのですが、「ぼくはいったいどうなんだろう」と。なるべく、批判されている人の立場になって考えることにしているのです。「こんな態度をとると、こんな風に思われるのか」と、あれこれ思惑をアタマの中に繰り広げながら読むわけです。

 こんな具合で読んでいると、自分のいろんな生活シーンを思い浮かべることになります。「あ、あの場面では、実は相手の人は怒っていたんじゃないだろうか」とか「あんなことを言ってしまったので、きっとあの人を傷つけてしまったに違いない」とか…。自分のことに置き換えることで、批評の文章から自分の真実の姿を発見することができるのです。

 昨年末のカウントダウンイベントで、江原啓之氏も語っていたそうですが、これからは「想像力」が大切なのだそうです。「こういうことを言うと相手はどう想うだろうか」とか「相手のこんな行動に対して腹が立ったが、同じようなことを自分自身がしていないだろうか」とか。ちょっとした「想像力」を働かすだけで、人はとてもやさしく包容力のある存在になれるような気がするのです。江原さんもそんなことを言っていたのではないでしょうか(想像ですが)。

 人に殴られると痛い。蹴飛ばされるとケガをする。これらのことって、実際に経験しないとわからないし、経験すればこそ想像もできるというものではないでしょうか。コントローラーのボタンを押したり、サウンドエフェクトを聞いているだけでは、想像すらできない世界のはずです。

 「経験」とそれに基づいた「想像力」。これらが相乗効果を発揮して、人は器を大きくすることができると思います。まずは、自分の器のサイズを見極めたいものです。嫌味に見える他人の姿こそ、鏡に写った自分自身なんだと、自ら戒めながら…。

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2007年1月 6日 (土)

Daily K-Scale 0431

よみたいときに よめば よゐ

脱時間給感覚。

 1月5日は、ギャラリーおよびオフィスの仕事始め。最初の作業は、エアコンのフィルター掃除でした。洗浄ランプが点灯していたのですが、年末のドサクサにまぎれて、洗うのを忘れていたのです。フィルターをきれいにしたら、あら不思議(いや、当たり前ですが)暖房の効きが抜群によくなりました。これでギャラリーの空調環境は完璧です。と、初日の仕事はこれくらいでした。

 こんな状況の下、なぜか気が落ち着きません。それは、やはり、仕事をしていないせいらしいのです。独立してこの方、仕事始めの日から、これでもかこれでもか、と仕事をしてきたように記憶しています。そんな状態が続いていたので、なにもない環境では落ち着くことができないのでしょう。

 よくよく考えてみると、これって「ワーカホリック」ですよね。仕事をしていないと焦ってしまう。ソワソワしてしまう。落ち着きを失ってしまいます。こんな精神状況では、仕事の本質や目的なんかを見失ってしまいかねません。働くことでなにを生み出すのか、を忘れて、働くこと自体が目的になってしまっているのでしょう。

 実際の作業がないときに、なにをしておくか。これからは、これが大事だと思います。アイディアのストックとか、アクションに対するアイドリングとか、あるいは、まったく関係のないことをしてアタマをやわらかくしておくとか…。今までは、時給感覚で自分の時間を計っていたように思うのです。とにかく時間を経済的価値で切り取って、無駄なく効率よく使おうと意識してきました。でも、今年は、その考えを捨てようと考えています。

 まだまだ「時間を切り売りして稼ぐ」という感覚が抜け切れていなかったのだと思います。それを捨てるために「フリー」になったのに、です。今年は「初心」に戻って、「アイディアを売って稼ぐ」あるいは「スキルやノウハウを売って稼ぐ」人になりたいと決意も新たにしています。そのためにも、のんべんだらりと手を動かしているだけで満足してしまうようなワーカホリック状態を脱して、集中力を高めて一所懸命に仕事をしたいものです。

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2007年1月 5日 (金)

Daily K-Scale 0430

よみたいときに よめば よゐ

英会話。

 英語が話せたらなぁ、と思っています。中学、高校、大学と合計10年ほど英語を学習してきたはずなのに、ぜんぜん身につかなかったのは、とても残念なことです。

 その原因はなんだったのだろう?と記憶をたぐったみたら、ひとつの出来事を思い出しました。

 それは、就職したてのころでした。京都のとあるレゲエバーで飲んでいたときのことです。当時、ぼくは、英語に対する意識も高く、バーとかで外国人がいたら、声をかけては会話をしていました。その場で友人になって、泊めてもらったりしたこともありました。その日も、その店である外国人に声をかけました。

 相手は、「?」という顔をしたあと、「あなたの英文は文法が間違っている」と日本語で指摘しました。そこで、ぼくは「どこが違うのですか?」と尋ねたのですが、彼は答えようともせず、ぼくから離れていきました。コミュニケーション・ブレイクダウンです。彼の表情には「もう、きみとはコミュニケーションしたくないんだ」という意思が見て取れました。それ以来、ぼくは基本的に外国人と会話できなくなりました。なにかしら「怖い」のです。

 そんなこんなで、英会話を放棄して20年ほどの年月が経ちました。今では、外国人と楽しそうに会話している人を見るとうらやましく思います。あんな風に会話を楽しむことができたら、いままで知らなかったこととか、いっぱい発見があると思うのです。英会話ができないことで、ずい分損しているなぁとつくづく思うのです。

 そこで、今年は、少し真面目に英会話に取り組んでみようかな、と考えています。まずはNHKの“英語でしゃべらナイト”でしょうか。必ずチェックして、耳を英語に慣れさせようと思います。そして、“朝起きてから寝るまでの英語”という本で、会話の基本形をからだで憶えようと思います。パブロフの犬がベルの音に反応して涎を垂らすように、条件反射で英語が出てくるようにするわけです。幸いギャラリーのご近所にはフォリナーが多数いらっしゃいます。ぜひ、英語力を彼らに交わることで磨きたいものです。

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2007年1月 3日 (水)

Daily K-Scale 0429

よみたいときに よめば よゐ

念頭所感。

 さて、今年はどんな年にしましょうか。そう、「どんな年になるでしょうか」ではなく「どんな年にしましょうか」気分なのです。それが「自分演出」。自らの人生を自らの手で設計するのです。

 そのためにも、まずは目標設定をしなければ。ということで、毎年恒例の「年始目標設定」をしたいと思います。昨年は残念ながら、20項目のうち3項目しか達成できませんでした。今年は、いったいいくつ成し遂げることができるのか。とても、楽しみですね。

□伝統工芸を受け継いでいる職人さんに取材して、その技や意思を記録し、後世に伝えるような活動をしたい。できれば隔月くらいのスパンで年間に6人ほどの記録が残せたら、と思います。

□タンザニアのカントリーアートである「ティンガ・ティンガ」の修得(できる範囲で。例えば実際のアーチストへの弟子入りなども含めて)し、それを応用したアートの開発をしたいと思います。

□日本各地、特に近畿から西日本に残っている「縄文的」あるいは山岳宗教的な祭や風習を追い求めて体験し、記録したい。天狗的なものも含めて、学習していきたいと思います。

□回文企画を発展させて展覧会を開催する。同時に、グッズ展開などの商品戦略も推し進める。できれば、秋くらいを目標にして作品をつくりだめしていきたい、と思います。

□言葉にこだわった創作をしたい。いわゆるコピーではなく、詩や俳諧、歌といったもの。「言粋主義」に徹して、言霊を込めて、感動をより多くの人たちに伝えていきたいと思います。

□ボーカル・レッスンを活用して、自作の言葉を定期的に朗読し、ストリートで伝えたい。声が波動となり、目的地点に確実に届くようなパワーを持つように修練していきたいと思います。

□テーマを決めて(例えば、大阪のダウンタウン2007春とか…)、定期的に写真を撮りたい。できれば、モノクロがいいように思う。さらに、それらの作品を使って展覧会を今年中に開きたい。

□編集傭兵をめざす。フリーランスというポジションを活かして、さまざまな雑誌や機関誌など定期刊行物の編集のアシストなどをしたい。修行のつもりで、ギャラは二の次で考えたいです。

□祭に関わるリアルな活動をしてみたい。神輿を担ぐとかでもいいから、祭を傍観者ではなく当事者として体験したい。それによって神的なものを自分の中に取り込みたいと思います。

□神祇的なもの、修験道的なもの、陰陽的なもの、密教的なものをからだの中に導き入れたい。そのためにも高野山、熊野古道、伊勢、出雲などを訪れたいと思います。

□いかに仕事をもらうか、ではなく、いかに仕事を与えることができるか、を念頭に活動していきたい。仕事の流れの最終地点になるのではなく、分岐点となりたいと思います。

□あいつのプレゼンテーションは楽しいね、と言われるようなプレゼン巧者になりたいと思う。そのためにも、笑いのセンス、話術、みだしなみ、小物など総動員して演出していきたいと思います。

□こちらから仕掛けられるビジネス展開をしていきたい。商品開発するとか、キャラクター開発をするとか…。受け身ではない、情報発信的でアクティブなビジネスを推し進めたいと思います。

□京都をキーワードにして活動できないものか、と思う。そのためにも足繁く京都に通い、基盤を築き、情報発信できるような体制を整えたい。これは特に長期ビジョンで考えています。

□京都に並んで、東京も視野に入れたいもの。そのためにも東京での情報収集を積極的に行い、また、日本を超えてワールドワイドなビジョンで活動に勤しんでいきたいものです。

□ペンネームを3つほどこさえたい。

□自分専用の原稿用紙をつくりたい。

□新しいビジネスを立ち上げたい。

□20キロ痩せてやる。

□「たいぞう」をもっと売り込む。

と、今年も20項目を用意してみました。はてさて、どうなるものか。ま、ぼくの意思の問題だと思いますが。全番クリアとなる楽しい年にできるように、遊び心いっぱいに、ポジティブに進めていきたい、かように思う年頭でござりまする。

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2007年1月 2日 (火)

Daily K-Scale 0428

よみたいときに よめば よゐ

集まって遊ぶ。

 幼いころ、お正月といえば、親せきの家に集まっていとこたちと遊んだものでした。長男であるおじさんの家つまり母屋に集まるのです。ぼくの家の場合は、母屋のことを「かみ」と呼んでいました。きっと「上」の意味だったのだと思います。

 父は4人兄弟の次男坊。四男のおじさんは若いころバイク事故で亡くなっていたので、3兄弟が集まるという具合でした。いとこはそれぞれの家に2人ずつで計6人。男5人女1人という構成でした。たいてい各家の長男坊3人が遊ぶことが多かったように憶えています。ときどき次男坊の2人を仲間に入れることもありました。

 坊主めくりに独楽まわし、花札など、当時(昭和40年代)の子どもたちの遊びを堪能していました。そんな遊びの中で、特に好きだったのは「モノ隠しゲーム」でした。それは、じゃんけんで負けた人がオニになり、オニ以外の人たちは任意のモノを部屋の中に隠し、それをオニが見つけるというシンプルなゲームです。入口の戸の上とか本棚の目の高さの棚とか見やすいのだけれど、ついつい見逃してしまう場所に隠すのが上等で、そんなところに置いているのに見つけられないときには大いに盛り上ったものでした。けっこうオリジナルで、このようなゲームを編み出して、楽しんでいました。

 ちょっと現代に戻って…。甥や姪を見ていて思うのですが、やっぱりゲームに没頭という感じがします。あまりいとこ同士でなにかの遊びをするわけでもなく、それぞれにテレビゲームを楽しんでいる姿が目につきます。それでも、ひとつの家に集まって、みんなで楽しもうというところには、いいものを感じます。これを続けていけたらなぁ、と思うのです。

 核家族化が進み、正月早々、家族で出かけるのは百貨店の初売りで、そこで手に入れる福袋がなによりの楽しみ…。それもいいでしょうが、やはり親せき縁者が集まって、わいわいがやがや交流するのっていいと思います。そこで、新しい遊びをつくったり、人間関係の機微を学んだり、人の道ってそんなところで知るものだと思うのですが。いかがなものでしょう。

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2007年1月 1日 (月)

Daily K-Scale 0427

よみたいときに よめば よゐ

本年もよろしくお願いします。

 みなさん、あけましておめでとうございます。少し肌寒いくらいですが、京都はいい天気です。この冴えた空気が、新年らしく感じさせてくれているようです。

 今年は、夜にしっかり睡眠をとって、朝7時30分に起床して、氏神さまである鍬山神社に初詣にでかけました。早朝ということで、参拝の方も少なく、本殿の前に行列することもなく参拝することができました。昨年は、少し寝坊して、年始参りに出かけるのが10時過ぎになったのですが、きっと、家族での新年のあいさつを済ませた人たちのラッシュ時間と重なって(ぼくもその仲間だったのですが…)、本殿前には長蛇の列ができていて、参拝するまでに半時間ほどかかったように憶えています。今年は、まさに「早起きは三文の得」を地でいくようなこととなりました。

 と、幸先のいいスタートができた2007年であります。お年玉宝くじも、なんと末等の300円が当たりました。上の方の賞には惜しくも2000番違いくらいでした。ま、来年は、この溝ももっと埋めることができるでしょう。とにかく、「縁起がいい」と思うことが大切なのですね。それと「感謝」です。末等が当たって「感謝」なのです。惜しかったことに「感謝」なのです。

 いつものようにやって来た新年ですが、今年は、いつも以上に、「感謝」の気持ちを一時たりとも忘れないようにしていけたらな、と思っています。この「感謝」をもとに「ポジティブシンキング」つまり「正のベクトルで自分に都合のよい解釈」をすれば、どんなことでも「縁起がいい」と感じられるはずです。そうすれば、個人的な怒りの感情も減らす(失くすとまた問題がありそうな気がするので…)ことができるのではないでしょうか。

 ということで、みなさま、2007年も「Daily K-Scale」をよろしくお願いします。なんだかんだ言いながら、もう足かけ3年目を迎えることができました。これもひとえにご愛読いただいているみなさんの賜物です。おなかを抱えて笑うこと、顔をしかめてしまうこと、思わず膝を打つこと、いろいろあると思いますが、今年もご愛顧のほど、よろしくお願いします。

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Daily K-Scale Happy New Year 2007

あけましておめでとうございます。
2007年もDaily K-Scaleをよろしくお願いします。
「亥」という字には浄霊の意も含んでいるそうです。
清らかなる御霊でよいお年をお過ごしになられますように。
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