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2007年2月28日 (水)

Daily K-Scale 0484

よみたいときに よめば よゐ

チチかえる。

 14年ぶりの快挙なのだそうであります。あ、なんの話かというとチチ松村氏のソロアルバムなのであります。

 なんと「全編歌モノ」です。全12曲、みんなチチさんが、ゆるゆると歌ってます。1曲目は『僕は見た』。チチさん謹製の特製ハガキにも描かれていた軍艦の上にいた物体のことが切々と歌い込まれています。なんか、夢に出てきそうな不思議な楽曲です。

 4曲目の『眉毛を描かれた犬』は、わがギターの師匠・長田“taco”和承師もラップスチールで参加の出色の楽曲。詩も抜群にいい。ついつい涙がこばれそうな世界観を持っています。

 8曲目の『ペルシアのじゅうたん』にいたっては、もうゲゲゲの鬼太郎にも匹敵する妖艶な世界が描かれておりまする。一度聴くともう耳を離れない。そんな呪術のような麻薬のような甘美で妖しい音がゆらめいておるのです。

 10曲目から12曲目までは、ある人間関係をさまざまな視点から見つめた、いわば兄弟曲。壮大で切ない物語が紡がれているのです。ここでも詩はとても大事なファクターとなっています。

 ゴンチチといえば、インスツルメンタルが主ですから、ゴンチチが好きという方には、かなりビックリ仰天かもしれません。が、さすがイカ好きのチチさんだけあって、聴けば聴くほど味が出るというか、歌声に引きこまれるというか、行ってはいけない禁断の園に連れて行かれるような感覚になるのです。そうそう、アン・サリーのコーラスも実にゆるり快感をかもし出してくれています。

 こんな摩訶不思議な音を、今ならうちの「Gallery HAY-ON-WYE」で堪能することができます。本リリースは4月4日(水)赤口ですが、その前にクセになる音をぜひ聴いてみたい、という方はお立ち寄りください。ゆるりとしたチチワールドにひたっていただけます。ちょっとお天気のいい日の昼下がりなんかがぴったりかもしれませんね。まどろみながら聴く、っていうのがキモチよさそうですから。

 ま、4月4日になれば、みなさん、こぞってお買い上げくださいね。「チチ、買える」ですから。あ、では、お後がよろしいようで。

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2007年2月27日 (火)

Daily K-Scale 0483

よみたいときに よめば よゐ

体系づけて考えよう。

 わけあって、今さらながら「物理学」を勉強しなければならなくなりました。アインシュタインの「相対性理論」や「量子力学」なんという、なんとも脳が液化して顔中の穴という穴から流れ出しそうな勢いでシノプスが振動しています。

 アインシュタインが『特殊相対性理論』を発表したのは1905年のこと。今からはるか102年も前のことなのです。勉強してみてはじめて知りました。なんとなく戦前、それも1940年代くらいの印象がありましたから、えー、そんなに歴史があったんだ、と感嘆したものでした。いやはや無知は悲しいものです。

 『相対論』には前述の『特殊相対性理論』と、これに重力を導入した『一般相対性理論』の2種類があることも知りました。重力によって光が曲がるという論です。

 いつも使わない脳を使うので、ほんとうにいい思考訓練になりますね。それと体系的に捉えることができるので、点で学習するより理解度が深く、記憶の時間も長いように感じられます。

 この学習をしている際に、昔、ロッキングオン(今でもありますね)に載っていたインタビューを思い出しました。それは当時ポリスのリーダーだったスティングへのロングインタビューでした。

 聞き手は、彼にピアノの訓練について尋ねました。それに答えてスティングは「ピアノに限らず楽器のレッスンに当てはまることなんだけど、まず初期の段階の曲からはじめることだよ。最初はすごくプレーンなテクしか使っていないからね。そこから、どんどん技を積み上げていく。時間を短縮して経験していくんだ。すると意外と難なく技術が修得できるんだ」みたいなことを言っていたと記憶しています。

 物理学も楽器演奏術も同じなのです。体系的に捉まえれば、それほど難しくない。いや、難しさの程度は和らぐはずです。点よりも線、線よりも面、そしてより立体的なイメージで体系づけられたらもっと理解は広く、深くなることでしょう。また、今年の大きな目標を見つけた爽快感です。なかなか気分上々ですね。感謝。

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2007年2月26日 (月)

Daily K-Scale 0482

よみたいときに よめば よゐ

「学」をつけていこう!

 「学」という言葉は、とても便利なワードだと思うのですが、いかがなものでしょう。例えば、「湯治」なる言葉が目の前にあるとしますね。これは、レジャーであり、趣味であり、遊びであります。そして具体的行動でありますが、思想ではないし、教義でもないわけですね。

 でも、この「湯治」に「学」を組み合わせて「湯治学」としたとたんに、とても高尚な世界が目の前に現れます。日本はおろか世界中に知のアンテナを張り巡らせ、情報を収集し、分析し、体系づけて、湯治に関する知を統合する。そんな半端じゃない活動が見えて来ると思いませんか。

 同じようなことが「道」にも言えそうです。「茶」「花」「香」などなど、ある単語と結びつくことで、まったく新しい観念やシステム、世界観をつくりだしてしまうのは、まったく同じですね。

 まだ、うまく説明できないのですが、この「学」とか「道」という「言葉の存在」が、最近とても気になるのです。それを足すことで、世界観が鮮明に立ち上がってくるような、料理でいうところのひと塩みたいなもの、あるいは隠し味のようなもの…でしょうか。あるいは、「道」「学」は、対象となる言葉とぼくたちになんらかの「関係性」を生み出す触媒になっているのでしょうか。その結果、新しいつながりが生まれ、それを継続することで体系化が起こり、新しい世界観が生まれてくるのかもしれませんね。

 難しいことは、ちょっと置いておいて、今年は、ぼくのまわりにあるものになんでもかんでも「学」をつけて取り組んでみようと思っているのです。それも、できるだけミニマムで、あまりスポットの当たっていないものやことにです。例えば、PCのスイッチ学とか、壊れたファスナーの修理学とか、正しいおしりの拭き方学なんていうのもいいかもしれませんね。

 こんな風に、いろんな事物に「学」をつけて、実際に学んでみようと思うのです。研究成果は、また、この場を使ってレポートしてみたいと思います。どこまでやれるかな?ま、乞うご期待。

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2007年2月25日 (日)

Daily K-Scale 0481

よみたいときに よめば よゐ

涙そうそう。

 今日は、久しぶりにギャラリーにクルマで出勤しました。ひとつは荷物が多くて重かったのと、最終電車が出るころに仕事が終われるかどうか不安だったのですが、明日の朝はどうしても地元にいなければならない、という理由でクルマ出勤を選んだのです。

 3月31日に北浜のライブハウス・チャクラで、恒例のギター教室発表会、人呼んで「フォーク・ジャンボリー」が開催され、それに参加することもあって、クルマには課題にしようとしている楽曲の入ったCDが積んであります。その中の1枚に「ビギン」のベスト
アルバムが入っています。

 今日は気合を入れて「涙そうそう」でも練習しながら出勤しようか!なんて意気込んで、15曲目の「涙そうそう」をチェックしたまではよかったのですが…。曲がスタートしたら、急に涙があふれてきて止まらなくなったのです。日ごろから、あまりウルウルするタイプではありません(ただし高校生のころ、エレファントマンを読んで泣いたことはありましたが…)。だのに、涙が止め処もなく出てきて歌うことができませんでした。

 そう言えば、昔、レコード大賞を獲った歌手が、泣いてしまって歌えなかったことを思い出し、「あ、こんな感じだったのか」と妙に納得してしまいました。

 でも、なぜ、涙があふれてしまったのでしょうか?ぼくにもまるっきり見当がつきませんでした。ただ、しばらくして、ぼくが幼稚園のころに天国に逝ってしまった父方の祖母の顔が浮かんできました。「もしかしたら、おばあちゃんが泣かせてくれたんかなぁ」とも思われました。

 昨日、次男坊と大ゲンカしました。胸ぐらをつかみ合い、殴り合いました。孫を持つ人間のやることじゃない、と思いつつも感情を抑えることができませんでした。その戒めのために、おばあちゃんが泣かせたんかもしれんなぁ。親として大きく包んでやることを忘れていたな。笑顔で接してやれなかったな。いろいろ反省するところがいっぱい。こう思わせてくれた、おばあちゃんに感謝です。

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2007年2月24日 (土)

Daily K-Scale 0480

よみたいときに よめば よゐ

逃げの手を使わぬように。

 近ごろ、コマーシャルのボリュームが大きいと思いませんか。たとえば、映画を見ていて、CMタイムになると急に音が大きくなってビックリさせられることがあります。そこでボリュームを絞ると本編に戻ったときに小さくて聞き取れない…なんてことが、このところ何度も何度もあるのです。

 20年ほど前に聞いたことがあるのですが、CMをつくって放送局へ納品する際に、わからないくらいわずかに音量を上げておくことがあるのだそうです(真偽のほどはわかりません。広告畑に居ながら電波はほとんど経験がないからです)。その積み上げによって、どんどんCMの音量が大きくなってしまうのだそうです。

 ちょっとでも目立つように、他と差別化したい…そのキモチは、なんとなくわかります。ぼくも広告畑の人間ですから。根本的な部分すなわちインフラの部分で優位に立てれば、願ったり叶ったりなのですね。それはテレビで言えば、絶対的に音量が大きい…ということにつながるのです。一番手っ取り早い方法でしょう、これが。

 でも、「それは、やっちゃぁいけないだろうよ」とも思うのです。プロレスで言えば、反則技なわけです。禁じ手なのです。同じ音量の中で勝負してこそ、試合なのですから。あくまでもルールがあってこそゲームは成り立っているはずです。反則技を使っては、ゲームになりません。CMだってゲームの一種なのですから。

 20年前に聞いた話では、業界内で自粛が行われ、ボリュームが下げられたといいます。コマーシャルって、やっぱりムダだと思われているのですね。確かに、ビデオなんかの機能でも「CMカット」といわれるものが搭載されていたりします。カットされて当たり前なのですね。だからこそ、つくり手はあれこれ考えて、カットされないものをつくろうとする。そこに工夫が生まれ、いいものが生まれるのです。これがいい循環です。

 ただ、その方向が音量アップにシフトしてしまうとクオリティは一向にアップしないでしょう。それは、卑怯な手だと思います。頭と心を駆使するクリエイティブを求めていきたいものですね。

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2007年2月23日 (金)

Daily K-Scale 0479

よみたいときに よめば よゐ

やっぱり濡れ手に粟がお好き?

 マルチ商法に引っかかる学生が増えているそうです。「新規会員を集めれば、その数に合わせて高い報酬がもらえる」「さあ、濡れ手に粟で大儲けして勝ち組になろう」という甘い言葉に誘われて、ついつい手を染めてしまうのだそうです。

 これは、国民生活センターの最近の調査の結果です。同センターによると、2005年度のマルチ商法に関する相談は2万1544件に上り、1996年の統計調査開始以来、最多の件数となったそうです。相談者は20代が43.6%で最も多く、大学生や専門学校生などの、いわゆる学生は全体の8.4%を占めているようです。この8.4%には、01年度の5.3%と比べて、急速に増加していることがうかがえます。

 また、同センター相談調査部は「誘い文句通りに利益を得られていることはほとんどない。友人から誘われて被害を受けるだけでなく、別の友人を勧誘して加害者になることもある」としています。

 この問題の根底にあるのは「濡れ手で粟感覚」だと思うのです。そこには「楽して儲けよう」とか「一攫千金」とかの欲が見え隠れしています。お金って、そんなに簡単に手に入るものじゃないのだけれど…とため息が出てしまいます。

 先日、バブル再来について書きましたが、ほんとうに来そうで、恐いです。実際、東証が終値で6年9カ月ぶりに1万8000円台を回復したり、徐々にではありますが、世間は好景気に向かっているのかな、という雰囲気に包まれつつあります。好景気=バブルというわけではないですが、やはり「株」とかの証券というか、ペーパー上の好景気は、なんとなく「濡れ手に粟感覚」を醸成しかねないような危うさを孕んでいるような気がするのです。

 隣の人がいい思いをしていると、ついつい羨ましくて、自分も同じ目に会いたい、と思うのが人情というものかもしれません。でも、自分の思うところと異なるなら、断固手を出さない、という態度を取ることが「品性」というものでしょう。それが「誇り」なんだと思います。目の前に、おいしいニンジンをぶら下げられたら、果たしてぼくは「誇り」を捨てずに生きていけるでしょうか。

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2007年2月22日 (木)

Daily K-Scale 0478

よみたいときに よめば よゐ

座右の銘、の本。

 一度読んで、のちのちまで強く影響を与える本ってありますよね。ぼくにとっての一冊は、ディール・カーネギー著の『人を動かす』でした。これは、確か、高校1年生の国語の教科書に掲載されていて近所の本屋さんで単行本を見つけて読んだのだと記憶しています。

 「説得の方法」みたいなタイトルで、シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』のアントニーの演説とともに『人を動かす』の一節が教科書に載っていたはず。どちらにも共通することが「強制したり理詰めで攻めても人は心を動かさない」ということでした。

 論破して無理矢理従わせたとしてもそれは人を動かしたことにはならない、ということを得々と説いていた本でした。そして、ほんとうに相手が自ら動きたくなるにはどうしたらよいかが、言い方を変え、表現を変えて、たくさん例示されていたのです。

 ぼくは、むしゃぶりついて読んだのを憶えています。これさえ読めば、ありとあらゆる人の心を動かせるような気分になれました。友人も恋人もいっぱいできるに違いない。モテモテかよぉ、なんて。でも、結局は、世の中そんなに甘くなかったのですが…。

 いずれにしても、カーネギーの教えは、25年ほど経った今でも、しっかりぼくの血肉となってからだの中に生きています。脈々と流れているのです。それは「人を動かすには、自らが動くこと」というリアルな声として、今なお響いているのです。

 こんな基礎があったから「人と人の間にあるもの」を知りたくなり、その「距離感」を常に測るようになりました。そこからコピーライターという職業を選んだり、編集工学研究所との関係が生まれたりしたのだと思います。

 これから何年生きるかわかりません。これまでの倍、生きていくもかしれないし、明日突然さよならするかもしれません。どっちにしても、「関係性」「間にあるもの」というものを見据えて、歩き続けていくことは確かなことです。

 この胸に刻まれた、何年経っても色褪せないカーネギーの言葉とともに、これからもずっとずっとこの足で歩き続けていきます。

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Daily K-Scale 0477

よみたいときに よめば よゐ

答えを知っているのは時間だけ。

 進化の方向性を「巨大化」へと進めた恐竜は、その戦略ゆえ滅んだ、という説があるそうです。確かに、マンモスだって巨大化して絶滅しましたね。人類が食い尽くした、という説もあるそうですが。

 小回りが利かない、とか、危機の際に対処できない、とか、いろいろ理由は上げられますが、「大きいこと」の弊害っていうものは存在します。ま、逆にメリットも多々あるのですが。

 いま、世界中の産業が再編の時期を迎えているようです。かつてのクライスラーとベンツの合併など枚挙に暇がありません。日本国内を見ても、石油業界、金融業界などなど、メガ企業でないと生き残っていけないような状況ですね。

 最近では、大丸と松坂屋の合併話やアサヒとサッポロの合併によるビール業界再編成などなど…。まったく、経済界はメガ化への道をまっしぐら!という感じですね。スケールメリットで勝負しようということなのでしょう。めざせ、業界ナンバーワン!ですか。

 ある意味、垣根がなくなって、世界標準のモノが気軽に手に入るような世の中になることは、便利でうれしいことです。でも、その結果、失うもの・ことがいっぱいあると思うのです。

 グローバル化(巨大化)を見越して、熱心に英語教育を進める初等教育機関があります。3歳までに外国語と接すると修得力が断然違う、高くなるといいます。でも、英語でものを考える日本人ってありえるのでしょうか?これって言語&文化的にいって、日本人を捨てていることにはならないのでしょうか?

 ちょっと巨大化の話から逸れてしまったように感じられるかもしれませんが、実際、巨大化あるいはグローバル化するということは、こういうことだと思います。こういうこと、というのは、捨てるものが必ず出てくるということ。それは日本らしさとかの固有のもの、あるいは非効率なもの、遊びの部分などでしょうか。これまでも、日本人は、いろいろ大切な物を捨ててきたのかもしれません。だから、それらを失うことがイイことなのか、将来に陰を落とすことになるのか…。その答えは、時間だけが知っているのですね。

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2007年2月20日 (火)

Daily K-Scale 0476

よみたいときに よめば よゐ

弱い者を叩くなかれ。

 先日、京都の伏見署が79歳の男性を現行犯逮捕しました。理由は「鉄道営業法違反」の中でも「信号機改ざん」の疑いだそうです。

 1月の下旬から、京都市伏見区深草のJR奈良線の踏切で、異常がないのに緊急時に電車を停車させるボタンが押される被害が6件あり、伏見署と京都府警鉄道警察隊員が警戒していたそうです。

 2月13日午前10時過ぎ、男性がボタンを押しているところを警戒中の同署署員と警察隊員が目撃し、現行犯逮捕したといいます。男性は住所不定。つえをついていたそうです。

 調べに対して男性は、「踏切を渡り終える前に遮断機が下りないようにボタンを押した」と供述しているそうです。それに対して、伏見署は余罪を追及するとしています。

 天満橋の交差点は、歩車分離式の信号で、交差点内を斜めに渡ることができます。ただし「青」の時間が短い。だから、お年寄りは渡っている途中で「赤」になってしまう可能性が充分にあるのです。実際、お年寄りが3/4渡ったところで赤になっていしまったのを見たことがあります。その方は悠々として渡っておられましたが。

 話は、逮捕された男性に戻ります。確かに、彼のしたことは罰を受けるようなことです。停止装置の作動で上下線2本が最寄の駅などで数分停止したといいますから。でも、彼はどうしてもその踏切を渡らなければならなかった。でも、渡りきる自信がなかったに違いないのです。決して面白半分じゃなかったのだと思います。切実な問題だったのでしょう。

 今、世間は弱者にとっても辛く当たる風潮になっています。いつかは自分たちも同じ境遇になるはずの高齢者には特に風当たりがキツイように感じます。老人だけでなく住所不定に対する偏見もあったかもしれません。とにかく迷惑をかけることが悪い、という決め付けもあったかもしれません。

 ただ、この報道を見て思ったのは、ぼくたちが「彼がボタンを押さなくてもよい社会」をつくっていく努力をしなければならないんじゃないか、ということ。それを気づかせてくれた一件でした。

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2007年2月19日 (月)

Daily K-Scale 0475

よみたいときに よめば よゐ

得した一日でした。

 今年は、まだ雪を見ていなません。なんだか、季節をひとつ損したような気分です。長い晩秋の果てに、春がやってくるような…。

 それでも春は訪れます。今日は、京都の北野天満宮に参ってきました。そろそろ「梅は咲いたか…桜はまだかいな…」といった想いで出かけてみたのでした。空模様はあいにくの曇りときどき雨。でも雷神様の天神さん詣でにふさわしいお天気かもしれません。

 西陣界隈の町屋風景を楽しみながら、一路「天神さん」をめざします。歩いて15分ほどですから、だいたい1キロくらいでしょうか。その間、五番町夕霧楼で名高い地所や京都の方位の守り神「大将軍八神社」のそばを通りながらの行程です。京都の人たちは、みんな
緑がお好きなようで、庭先には必ずと言っていいくらに何かの鉢植えが置かれています。歩きながら、ほっとした気分になれるのは、この緑の贈り物のおかげなのでしょう。

 と、清清しい気分を味わいながら、いよいよ天神さんに到着です。意外と人が多かったのは、受験期なのと京都の観光ブームがまだ続いているからなのでしょう。標準語を話す人が多かったのもそう思わせた理由のひとつです。

 たくさんの牛たちに歓迎されながら、参道を進んでいきます。斜めに立った巨大な松が両脇を固めています。本殿に近づくにつれて梅の芳香が強まっていきます。梅は暖冬だけれど、まだ五分咲き。きっと来週くらいが見時でしょうか。来週また来ようか、とも思いましたが、来週は確定申告でどっぷり数字と格闘でしょう。…残念。ということで、五分ながら「天神さんの梅」を堪能させていただきました。紅梅、白梅、若いもの、齢を重ねたもの…。一本一本が個性を見せています。タイミングよく鶯もやってきました。梅に鶯…。こいつは春から縁起がいいや!

 あと、あの有名な「北野天満宮縁起絵巻」を展示している宝物殿では、酒天童子を退治したという「鬼切丸」という妖刀を見ることもできました。とにかく出かけてみる。好奇心に任せて動いてみる。アクティブになると、やっぱりなにか発見があるものですね。

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2007年2月18日 (日)

Daily K-Scale 0474

よみたいときに よめば よゐ

さすがファーストフードの国。

 制限時間8分!―今、アメリカでスピード合コンというかスピードお見合いが流行しているそうです。なかなか出会いのチャンスがない現代人にとって、このイベントは効率のよさが大人気なのだそうです。ある主催者は、一回のイベントで8分間のお見合いを8回提供することを保証しているそうです。

 会場はバーなどが選ばれることが多く、参加費は40ドル(約5千円)くらいで、店での飲食費は自己負担というのがスタンダード。人種や趣味を限定して参加者を募集することもあるのですが、たいていは参加フリーで募集することが多いとか。恋は年の差を超えて、を地でいくことも多々あるそうです。

 たいていの参加者が、「8分あれば相性はチェックできる」といいます。その結果は、「採点表」にチェックされます。ここが、なんともアメリカっぽいところなのですが、しっかり数値化して客観化して相性を確認するわけです。それは、一面、お見合いをゲーム化しているということでもあるようです。

 参加者によると「ナンパするよりストレスがなくていい。内気な男性には適したシステムだ」とか「ちょっと疲れた。でも来週は、制限時間4分のもっと効率的なお見合いに参加する」という猛者の女性もいたそうです。とにかく、参加者は、「効率」と「安全」をこのシステムに求めているようなのです。

 この報道を見て思ったのが、モダンタイムスで自動食事マシンで食事を摂る実験台にされるチャップリンです。時間制限の中で次々に料理を無理矢理詰め込まれていく…。8分を制限にして次々と相手を換えてお見合いを繰り返す姿は、一種「オートマティック」というイメージがありますよね。

 ハンバーガーよりも筑前煮の方が好きなぼくとしては、なにか味気ないな、と思うのです。極論してしまえば、プロフィールの書かれたパネルを並べて相手を選ぶのと大差ないのじゃないか。効率を突き詰めるとそんな方向に進んでいってしまいそうな危うさを孕んでいる…。そんな恐怖感をふと感じてしまいました。

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Daily K-Scale 0473

よみたいときに よめば よゐ

バブル再来か。

 近ごろ世間に流行るもの―バブル―です。やたらテレビで見かけると思ったら、フジテレビ系列つまりポニーキャニオンになるのでしょうか、もうすぐ映画が封切りされるからなのですね。

 なにかと宣伝上手のフジサンケイグループです。朝、『目覚ましテレビ』を見ていても、「これって、ほとんど番宣やないの?」と思わされる番組づくりをしています。

 そんなフジサンケイグループが総力を挙げている『バブルへGO!』ですから、出演者を起用した特別枠のクイズ番組やワイドショーでのコーナー設定などなど、あらゆる機会での露出が計画されているようです。その結果、ぼくたちの目には「バブル」が焼きついてしまうわけです。

 今様バブルの風潮を見ていると「伝説の復活」のような気がしないでもないです。バブルを知らない子どもたちは「えっー、信じられない」という反応がほとんど。しかし「えっー」の裏側には、そんなおいしい想いを自分も体験したい…という意図が見て取れます。

 かつても書きましたが、確かに、経済学者たちの中には「2010年まではバブルのような拡大基調の経済状況になる」と予言している人もいます。ここ2~3年ほどは「浮かれた社会」が到来するのかもしれません。そこは目ざといフジサンケイグループです。先を見越して、今、手を打っている感がします。

 ただ、番宣のごとく電波を使って「バブル」を喧伝するのはいかがなものでしょう。ま、一種の販促活動といえばそれまでですが。資本主義社会です。モノは売れてなんぼ、マスコミは視聴率が取れてなんぼですから。なんとかして、映画を見てもらおうとするのはわからないでもないのですが…。

 結局は、そのような数字を追いかける体質や公共性の高い電波を個人的感覚で扱ってしまうという錯覚によって、例の「あるある事件」なんかが起こるんじゃないでしょうか。ま、踊る者がいなければ、踊らせる方だってひとり芝居になってしまいます。結局、ぼくたちが踊らされないことを心がけるしかないのですね。

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2007年2月15日 (木)

Daily K-Scale 0472

よみたいときに よめば よゐ

鰯の頭も信心から、です。

 九星によると今年は「二黒土星」で、「温故知新」の年だといいます。この年は、懐かしいものが復活したり、これまで疎遠だった人と急につながったりすることが多くなるのだそうです。

 当たるも八卦…ですから、すべてを盲信してはならない、と思うのですが、節分以降、なんとなく「当たっているかも…」と思わずにいられないことが多々ありました。

 しばらく疎遠になっていた人から突然に電話が入ったり、偶然に道で出くわしたり、ギャラリーを訪ねて来られたり…。そう思って見るから、そう感じるのかもしれませんが、なんとも不思議な気分を味わっているのは確かです。

 信じる者は救われる、と言います。ときには、救われるんやなくて掬われてるんやで!なんて嫌味を言ったりもしますが、信じているとなにかいいことが起こりそうな気がするから不思議です。

 ただ、この九星によると、九紫火星のぼくは、今年はどこの方向もよくないので旅行はあまり勧められないといいます。でも、今年はぜひタンザニアに出かけたいものです。あの広大な大陸にこの足で立って、ティンガティンガを描く修行ができたらなんて素敵なんだろうと思います。さてさて、どうしたものか…。

 と、本日は高島暦を片手にコラム書きをしているのですが、この本ってなかなか見るどころいっぱいです。

 例えば、最後の方にそれぞれの干支の守本尊が載っているのですが、辰年のぼくの本尊は普賢菩薩だそうです。その他、関東基準ですが、「種まき」の時期や「園芸メモ」、「季節のことば」なんかも掲載されていて、なかなか役に立ちそうです。

 完成を慌てず、最初の一歩から堅実に出発しなさい。手ごたえのある前進が期待できます。厄が明け意欲がわきますが、無計画に新しいことに手を出すと見込み違いの大失敗となるので用心しなさい。そんな2007年だそうです。中でも2月は明るい日差しが当たるが、問題にも光が当たるので整理整頓を、ということらしいです。

 成功を信じて、心して前進していこうと思います。

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2007年2月14日 (水)

Daily K-Scale 0471

よみたいときに よめば よゐ

人並みのモノサシを持とう。

 普通ってなんだろう?とふと疑問に感じたので、角川書店の類語国語辞典を引いてみました。すると…

 一般・普遍・通常・尋常・通有・通例・平常・常・世の常・常並み・並み・並み並み・並み大抵・世間並み・世の習い・並み一通り・一通り・通り一遍・一応・大抵・本来・当たり前、という言葉が並んでいました。これらは【特に他と異なる性質を持っていないこと】という項目で探したものです。

 また、【普通一般・上等でも下等でもないこと】で探してみると、尋常・並・人並み・十人並み・人間並み・月並み・只・平・有り触れた・凡・平凡・平平凡凡・凡庸・類型・変哲も無い・芸が無い・可も無く不可も無し、といった言葉がそろいました。

 まだ、よく掴めないので新解さんにも尋ねることにしました。すると彼が言うには、「その類のものとしてごく平均的な水準を保っていて、取り立てて問題とする点が無い(良くも悪くもない)こと」と。また例文では「普通の〔並みの〕品ですよ」とありました。

 思うのですが、「ごく平均的な水準」とは誰がどのようにして決める水準なのでしょう?みんながそれそれに「これくらいかな?」と線引きしているのでしょうね。きっと、隣の人やちょっと向こうの方にいる人の様子をチラチラと伺いながら、自分ならこんなものかな…と判断している。ぼくだってその一人です。

 この線引きが、ある日突然、大きく動くことがあります。例えば、太平洋戦争のころ、あるいは最近ならバブルのころ。普通が普通でなくなっているのに、普通とされていた。線が大きくズレたのですね。その原因を今風に言うなら、マインドコントロールされていた、ということになるのでしょうか。

 普通って、とても相対的なものだと思います。常に比較し、修正を加えて尋常な状態に保つものだと思います。だから、「ぼくの普通は、あの人の普通なのだろうか?」って、いつも、心の片隅にそんな意識を持っていたいものです。あ、そうか、「普通」って、ひとつのモノサシだったんですね、きっと。

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2007年2月13日 (火)

Daily K-Scale 0470

よみたいときに よめば よゐ

ナフタリンの香り。

 ギャラリーの関係で、休日に出勤することがときどきあります。休みの日の電車は、同じ時間帯でも乗っている人のカテゴリーがいつもと全然違います。めったにまちの外に出かけないような人たちが大勢乗り込んできたりするのです。時には、月に一度のお出かけ
モードで、はしゃぎまわっているおばさまの大きな笑い声が車内中に響きわたることもあります。

 先日、休日出勤した際は、運よく座ることができて(ウィークデーに立つことはないのです。休日の方が電車が混んでいるのです)、ぼーっとしていたのですが、次の駅で初老のおじさんが乗ってきて、ぼくの横に座られました。

 あ、ぼくは思わずおじさんの方を向きました。ほんのりとナフタリンの香りがしてきたからです。彼は、同窓会にでも主席されるのでしょうか、こざっぱりとしたライトグレーのジャケットにダークグレーのズボンをコーディネートされていました。衣替えの季節ではありませんので、きっと、彼はとっておきの衣装をタンスから引っ張り出してこられたのでしょう。

 昔は、よくこの香りを嗅いだものでした。衣替えの季節だとかに、そんなことが多かったので、パブロフの犬ではありませんが、ついつい新鮮な気分が湧いてきます。「あ、これから気分一新だ!」みたいな思いに包まれるのです。

 今はすっかりスマートな世の中になってしまって、ナフタリン臭い服なんか着ようものなら、いろんな人からすぐにチェックが入ってしまいます。でも、この香りには、人間の実直さだとか素朴さだとかが、溶け込んでいるような気がするのです。ちょっと照れながら、「今日は一張羅で気張ってみました…」なんて真っ赤な顔で言うような、なんかかわいらしさがあると思いませんか。

 ぼくがチラっと見ると、おじさんはちょっと緊張したような、恥ずかしがっているような顔をして天井の方をじっと眺めていらっしゃいます。これから、彼はどこで楽しいひとときを過ごすのだろう?ぼくも、なぜか、とってもワクワクしてきました。ありがとう。

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2007年2月12日 (月)

Daily K-Scale 0469

よみたいときに よめば よゐ

対岸の火事じゃないのです。

 「金髪、目は青か緑」―こんな条件をつけた求人ポスターを甲府市の英会話学校が製作し、山梨県国際交流センターに半年にわたって掲示していたそうです。このポスターは、幼稚園に派遣する外国人教師の求人用のもので、市内の複数の幼稚園からの依頼によるものだったそうなのですが、依頼の際に上記のような条件がつけられたのだといいます。同校は、「古い差別的な考え方だと思ったが、客のニーズには逆らえなかった」のだとか。

 こういう報道の場合、たいていポスターをつくった学校へ非難が集中します。誰もが、審判員のようにジャッジするでしょう。「悪いとわかっていながらなぜ実行した!」と。しかし、どうでしょう?まず、発注した幼稚園の人たちに外国人=金髪&青い目という偏見があったのではないでしょうか?そして、その背景には保護者たちの偏見が見え隠れします。これは、決して、特別な人たちが犯した特別な事件ではないのです。ごく普通の人々が生み出し、膨らませることで起こった事件、原因は私たち自身にあるのです。でも、ついつい私たちは、マスコミに載ってしまうと自分のことであるのに他人事にしてしまう傾向があるように思えるのです。

 私たちは、やはり「迷える子羊」なのかもしれません。この消費社会の中で、いつの間にか大衆は「神」に祭り上げられてしまっているのかもしれません。その結果、気分的に舞い上がっているようにも思えるのです。ついつい自分のことを棚に上げて、あるいは、自分の姿を見ないで、他人の行為を非難してしまう。そんな愚行を防ぐには、自分の実像をしっかりと見据えることが大切でしょう。

 記事を読んで、非難する前に、「自分が同じようなことをしていないか、同じような考えをしていないか」を確かめてみようと思いました。私は決して「神」でもなければ「審判員」でもありませんから、良いこととか悪いことだとかと断じることはできません。ただ、この事実を参考にして、自分の進むべき方向を修正したりすることはできます。できるだけ、世の中の悪しきことを自分を映す鏡であると考えて、自らを省みたいものです。

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2007年2月11日 (日)

Daily K-Scale 0468

よみたいときに よめば よゐ

星占いは国にも当てはまるのか?

 今日は建国記念の日(建国記念日ではありませんよ、“の”をお忘れなきよう)。そう、日本国は2月11日生れのみずがめ座さんなのです。では、星座占いでは、みずがめ座はどんな性格かというと。

 まず、頭の回転が早い。知的で合理的な考え方を持ち、自由で独創的に思考することができる。気分や感情に流されることなくクールに判断する。芸術的センスなど天才的な能力を持つ。先見の明を持っている。一般では思いつかないような破天荒な行動をとることがある。誰とでもすぐに仲良くなれる。自分の考えに自信を持っているので主張を貫く。周囲の意見を聞くことが得意でありながら、周りを説得することにもたけている面を持っている。いつもグループのまとめ役的な存在になる。

 さあ、いかがでしょう。日本という国の特性にどれくらい当てはまっているでしょうか。あんまりマッチしていないように思えますね。ま、個人と人の集合体である国というとても大きな違いがありますから、キャラクター分析がマッチしないのは仕方がないといえば、仕方がないのですが…。

 ただ、このみずがめ座のキャラクターを見ていてふと思ったのですが、これからの日本が目指さなければならない方向性が、ここに隠されているんじゃないか、と。

 後手後手にまわる内政、自分の意見を明確に伝えることのできない外交…。俗説ではあるけれど、日本が、もう少しみずがめ座的なキャラクターを持ったなら、日本人はもっとすばらしい民となれるのではないでしょうか。

 ま、そんなキャラクターづけを誰がするんだ?とか、国に星占いを結びつけるな!あるいは、星座占いなんてナンセンス…などなど、といったご意見もあるかとは存じますが、現在の漠然とした「美しい国」づくりに、なにかしらのキャラクターづけという「方法」が加われば、もう少しだけこの国の進むべき具体像、リアルな姿、着地点というものが見えてくるんじゃなかろうか、と思った次第なのであります。祝日の戯れごととお赦しくださいませ。

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Daily K-Scale 0467

よみたいときに よめば よゐ

それでも4位なのだ。

 気象庁の発表によると世界の1月の平均気温は平年(1971~2000年の平均)を0.45度上回り、1月としては統計を開始した1891年以降、最高だったといいます。

 これは気象庁の速報値として発表されたのですが、世界の平均気温は昨年12月も過去最高を更新していて、2ヵ月連続で最高値を記録しているのです。やはり、地球は温暖化という坂道を転げ落ちているのでしょうか。

 日本も平年より1.44度も高い気温となり、1898年以降で4番目の暖かさでした。確かに、今年の冬は暖かい日が続いています。とても「冬」と呼べないような日ばかりで、このままでは冬を経験せぬまま春になりそうな勢いだ、と思っていたくらいですから「4番目の暖かさ」といわれると、逆に「1位じゃないの?」と首を傾げてしまいそうです。これだけ暖かくても4位なのです。

 では、これまで一番に暖かかった1月はいつだったかと言うと、今から18年前の1989年の平年比プラス2.09度だったそうです。バブル真っ只中で、冬さえも熱く盛り上がっていたのかもしれませんね。

 気象庁では、この高温の原因をいろいろ分析もしています。原因は3つ想定されているのですが、まず、ひとつ目が「地球温暖化」。二つ目が「北極圏が寒気を周期的に放出したり蓄積したりする“北極振動”が蓄積期で、寒気が南下しにくかった。三つ目が「秋頃か
ら進行中とみられるエルニーニョ現象。この3つが挙げられていました。結局は、異常気象が基本にあるということらしいのです。

 過去百年で世界の年平均気温は0.67度、日本はこれを上回る1.07度の割合で上昇しているそうです。「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」という団体が、地球の今世紀末の平均気温は最悪の場合、20世紀末に比べて6.4度上昇する可能性があるとの報告書をまとめています。

 4位を「まだ上がある」と考えるか「後がない」と捉えるか。それによって人類の未来が決まるような気がします。今すぐ使っていないライトや見ていないテレビを消して、平均気温の上昇を止めなければ…。このままでは取り返しのつかないことになりそうです。

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2007年2月10日 (土)

Daily K-Scale 0466

よみたいときに よめば よゐ

妻には、頭が上らない。

 なんともイタリアなのであります。すべてがラテン的なのです。で、なんの話かというと、前首相のベルルスコーニ氏(70歳)のことであります。これが、また面白いのです。

 ANSA通信が伝えるところによると、新聞紙上に妻のベロニカさん(50歳)にしたためられたベルルスコーニ氏の手紙が全文掲載されたそうです。これは、ベロニカさんの謝罪要求に応えたものでした。では、なぜ彼は妻から謝罪を求められたのでしょう。

 前首相は、複数の女性に「もし結婚していなかったら、あなたといっしょになれたのに」などと声をかけていたそうです。それが妻の知るところとなったのですが、彼はきちんと謝らなかったそうです。そこで、妻は謝罪要求に踏み切ったとか。

 ここには、ふたつの大きなイタリア的ポイントが隠されています。ひとつは、前首相は「もし結婚していなかったら…」と自分のポジションを偽らずに女性に接近したこと。そしてふたつ目が、ベロニカさんが謝罪要求した理由が、夫が女性を口説いたことではなく、彼女に謝らなかったことだということ。

 これらは、いいことでもあり悪いことでもあるのですが、なんともドライな感覚だと思うのです。日本なら刃傷沙汰になったり、賠償金や慰謝料と言った金銭闘争になったり、とてもウエットな事態になるような気がします。なんともカラリとした印象が、なんともイタリア的だと感じさせてくれます。ま、よし悪しではありますが。

 謝罪の手紙の中で、ベルルスコーニ前首相は、「ぼくはいたずら好きで、高慢なところがある」を反省し、「ばかな冗談だった。許して」と訴えています。ま、いたずら好きと自らを表現するところが、なんともイタリア男っぽい、つまり“ちょいワル”風なのですが。そして究極は、「初めて会って恋に落ちたときから、君がすべて」と最大限の言葉で20歳も年下の娘のような妻を持ち上げたのです。きっとこれを読んだイタリア人妻は、彼を許したのでしょう。日本人ならきっと、「同じことを、どこかの女に言ってるんでしょう!チクショー!」となるような気がします(笑)。

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Daily K-Scale 0465

よみたいときに よめば よゐ

ときには闇もいいものです。

 ずい分と前に一度書いたけれど、日本の各地の観光都市と呼ばれるまちでは、観光客を引きこむために、いわゆる「ライトアップ作戦」なる夜間照明策が導入されています。国際観光都市である京都も例外ではなく、つねにどこかの社寺仏閣が本堂や塔やなんやらを夜まで煌々と照らしています。

 先日、2月1日のことです。京都と姉妹都市関係にあるパリで、ある実験が実行されました。「エッフェル塔の照明を消してみよう」というもので、環境保護団体などの呼びかけに応じるかたちで実施されたそうです。

 午後7時55分、エッフェル塔が5分間、闇の中に沈みました。エッフェル塔のほか、フランス各地の観光名所でも照明が消されました。この日、フランスは、たった5分間ではありましたが、贅沢な闇に包まれたのです。

 これは、もともと地球温暖化への関心を市民に高めてもらおうと企画されたものでした。でも、実質的な成果もありました。フランス公共ラジオによると、この5分間のおかげで国内電力消費が1%以上減ったそうです。意識とともに実利もあったわけです。

 日本でも、年に一度、「照明を消そう」という全国的なイベントが開かれていますね。確かに、六甲山とか生駒山とかの夜景スポットへ出かけて景色を眺めていて思うのは、「現代の夜景は空と地が逆転している」ということです。地面には人造の星であるネオンやライトの照明が輝き、天にあるほんものの星たちは、それら人造星の光のために姿を見せられない…。地上の星たちに天上の星たちが駆逐されているのです。

 地球を蝕みながら輝く地上の星たち。それは、さながら自らを縮めて燃える蝋燭のようです。光を発するためのエネルギーは、いつか無くなります。光は燃え尽きまるのです。今ほんの少し、エネルギーを節約することで、光の強さを抑えることで、この輝きがもっと寿命を長くすることができるのです。これから先のことを考える。私たちもフランスの快挙に続きたいものです。

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2007年2月 9日 (金)

Daily K-Scale 0464

よみたいときに よめば よゐ

売りモノは殺人マシンなのですよ。

 モーターショーやギフトショー、キャラクターショーに建材資材ショー…、世の中、いろんな見本市がありますが、先日、経済成長著しいインドで、戦闘機の見本市が開かれ、米ロがしのぎを削ったという報道がありました。

 インド南部のバンガロール空軍基地を会場にして、国際航空ショー「エアロインディア2007」が開催されました。もともとインドは冷戦時代から伝統的に当時のソ連(現ロシア)と軍備面で協力関係にあり、航空戦力の拡充をサポートしてもらっていたという経緯がありました。しかし、今回は、米国の航空メーカーが米軍の主力戦闘機を携えて初めて参加。ロシアなどと激しい販売合戦を繰り広げているようです。

 インドは現在、老朽化したロシア製ミグ機の後継機として126機の多目的戦闘機の購入を検討しているといいます。これは総額50億ドル(約6千億円)の予算規模とされていて、この枠をゲットしようと防衛・軍事産業大国が虎視眈々と狙っているのです。

 米国からはロッキード・マーチン社のF16戦闘機とボーイング社のFA18戦闘攻撃機が参加。実際に飛行してポテンシャルの高さを強く印象づけました。米政府担当者は「防衛産業での重大な進展があることを期待する」と語ったといいます。

 一方、ロシアはプーチン大統領が訪印。それにタイミングを合わせて最新鋭のミグ35戦闘機の売却に向け攻勢をかけたと言います。さらにはミグ35の展示をはじめ、インドの航空機メーカーへの技術移転やライセンス生産も認めるなど背水の陣を敷いています。

 道に落ちたクッキーに群がるアリのように、経済的急成長の真っ只中にいるインドに軍事大国が寄ってたかって、武器を売っているわけです。6千億円のマネーが動くビッグビジネスではありますが、結局、インドが手に入れることになる戦闘機がいったいどれだけの命を奪うのでしょう。殺人マシンをめぐって、巨額のマネーが動く。なんともやるせない気分がつきまといます。いわゆる「死の商人」たちは、どんな神経を持ってしてセールスしているのでしょうね。

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Daily K-Scale 0463

よみたいときに よめば よゐ

頭を冷やして、聞き直そうよ。

 「女性は産む機械」と発言して物議をかもした柳沢伯夫厚生労働大臣ですが、今度は「子二人以上が健全」と発言して、またまた一斉反発の声を受けています。野党の意見、マスコミの取り上げ方、ちょっと違うような気がするんですが、いかがなものでしょう。

 柳沢厚労大臣の発言を正確に記すと「若い人たちは結婚したい、子どもを二人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる。若者の健全な希望にフィットした政策を出していくことが非常に大事だ」となります。

 さて、ここで問題になのは「子二人以上が健全」と彼が言っているかどうかです。確かに、「子どもを二人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる」と言っています。でも、これって「子どもを持ちたい」という希望を持っていることが「健全である」と言っているんですよね。しっかり読むと「子どもを二人以上持つのが健全」とは言っていないことは明白でしょう。

 「産む機械」発言以来、柳沢厚労大臣の言葉はいろんな人が耳を欹てています。そんな時にこの発言ですから、「そら、みたことか」とばかりに、みんな言葉尻を捉えてかかります。一度坂道を転げ落ちると加速がついて止めようがない、という感じですね。

 これはあくまでも、ぼくの個人的な感慨なのですが、柳沢大臣をめぐる一連の出来事は、「いじめ」に通じるものがあるんじゃないか、と。とっても好々爺のような様相の柳沢さんが困り果てた顔をしているのを見るのは、どうも辛い。自業自得と言えばそれまでですが、それでも、みんなで寄ってたかっての感があるのです。言葉だけが一人歩きして、政治の駆引きの道具にされているように思います。本質は他のところにあるはずなのに、それをはぐらかせるために、彼の発言が利用されているのではないか、と思えるのです。

 安倍首相は「言葉にいちいち反応するのではなく真意をくみ取るべきだ」と言い、柳沢大臣は「文脈をみてほしい」と言っています。二人の意見は正しいとぼくは思います。野党やマスコミの声は上げ足取りに見えます。みんな、もう少し冷静になってもいいのでは?

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2007年2月 7日 (水)

Daily K-Scale 0462

よみたいときに よめば よゐ

弱者が、さらに弱者を叩く。

 弱い者たちが、さらに弱い者たちを叩く―これは、ザ・ブルーハーツの『トレイン・トレイン』の歌詞の一部。個人競争をあおり、勝者をもてはやしてしまう、悪い上昇志向に汚染された世間のやるせなさをよく表わした詩ではないか、とぼくは思っています。

 今や、世にはびこるのは「勝者」です。弱い者たちが生きにくい世の中になってしまっています。そんな環境の下、“敗者が続出する格差社会で不遇な立場に苛立ち、暴力的に妻子を支配してしまう父親が増えつつある”といいます。弱い立場に追いやられた父親たちが、さらに弱い家族を叩いているのでしょうか。

 こんな父親の下で育った子どもたちはどんな大人になるのでしょうか。ここにひとつの説があります。あくまでも参考的な説ですが、こんな具合です。「暴力的な言動で反抗を抑圧された子どもは、頭の中で父親を殺して自立することができず、実際に殺して乗り越えるしかなくなる」というのです。

 フロイトの唱えた「エディプス・コンプレックス」をバーチャルではなくリアルな世界で実践しないと、精神的に辻褄が合わなくなってしまうのが現在の父子関係だというのです。実際に手を下して殺してしまわないと達成できないコンプレックスが黒々と父子の間に横たわっているのでしょう。

 その結果として、子どもが親を殺傷する事件が多発していると分析している専門家もいると聞きます。その背景には、やはり、他人を顧みず、自分の都合ばかりを優先する世相や授乳中でさえ携帯電話を手放さずメールに没頭する「いるのにいない」母親たち、「死ね」「殺すぞ」と叫ぶ子どもたちの増加といったことが大きく影響を与えているのでしょう。

 フロイトの「エディプス・コンプレックス」に戻りますが、子どもたちは頭の中で、父親を殺して大人へと成長していきます。ま、これも心理学の一説に過ぎないのですが、少なくとも「反抗」は、子どもたちには必要不可欠なものです。ただ、それが「暴走」にならないように、家族は気配りを意識したいものです。

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2007年2月 5日 (月)

Daily K-Scale 0461

よみたいときに よめば よゐ

厄年が明けました。

   ついに、ついに「厄年」が明けました。苦節(?)3年、大事故に遭うとか大病を患うとかの「厄」を被ることもなく、なんとなく低空飛行かな…と思うくらいのもので過ごせたのがなによりでした。

 とは言うものの、前厄の年には、愛犬チョコが生後3カ月わが家にやって来て1カ月で一円玉を飲み込んで開腹手術を受けるはめになったり、長男がさまざまな努力をしてやっと入学できた高校を1学期だけ行って退学したり…ということがありました。

 本厄の年には、糖尿病が発覚して投薬治療をはじめることになりました。でも、インシュリン注射をしなければならないような事態までには至っていません。ま、これも不幸中の幸いと考えられないこともないでしょうか。

 そして、後厄では、孫ができました。「え、それって厄じゃないでしょう」と言われそうですが、なぜピックアップしたかと言うと最高の「厄落し」だと思うからです。女性の場合もありますね。厄年つまり数えの33歳の時に赤ちゃんを産むと厄が落とせるって。きっと孫娘は、ぼくの厄を落としてくれたに違いないと思うのです。

 と、いろいろ振り返ってみると、この3年間はさまざまな人の引きたてや支えがあってのものだったな、と改めて実感させられます。人だけでなく犬までが、ぼくの「厄年」を支えてくれていたんだな、と思うと、なにやら目頭が熱くなってきます。ありがとうございました。思わず心の中でつぶやいてしまいました。

 正確には、今日の午後2時過ぎに旧暦の新年がはじまりました。そこで、5年ばかりの付き合いがあった財布と10年ほど世話になったシステム手帳を新調しました。それぞれに愛着はあったのですが、ここは心機一転、思い切って新しいものにすることに決心しました。

 破魔矢と旧い財布&システム手帳を携えて、氏神さまに御礼参りに行きました。財布&システム手帳を奉納し、氏神さまに3年間の御礼をし、これからの決意を誓いました。

 不思議なくらい新鮮で透明な気分です。すごく希望に満ちた前向きな心地です。ありがとうございました。よろしくお願いします。

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2007年2月 4日 (日)

Daily K-Scale 0460

よみたいときに よめば よゐ

犬たちよ、崖っぷちをめざせ。

 賢明なる野良犬および捨て犬の諸君、ただちに崖っぷちをめざせ。躊躇している場面ではない。我心を捨て、一目散に、ひたすらに、崖っぷちをめざすのだ。ためらってはならない。

 諸君は、先日の抽選会を見たか?そう、通称「崖っぷち犬」の引き取り手を決める抽選会だ。犬一匹に、なんと109通の問い合わせがあったそうだ。なかなか関心が高いと思われた…しかし、会場に実際に現われたのは、たった10人。その数倍の報道陣が詰め掛けていて、会場はさながら本末転倒の顛末。まったく…。

 ま、ここまでは、なにかと話題好きの「野次馬日本人」ということで笑って済ませることもできる。だが、諸君、ここからが大切だから、耳をかっぽじって、よくよく聴いてほしい。これは、諸君の人生に関わる大事な話である。ゆめゆめ軽く聴かぬように。

 通称「崖っぷち犬」といっしょに、きっと姉妹関係にあるとみられる通称「姉妹犬」なるものも抽選会場に連れて来られていた。見方によったら、「崖っぷち犬」よりもモダンな顔立ちをしているようにも見受けられた。でも、いかんせん、彼女は報道の対象にならなかった、無名の犬だった。「崖っぷち犬」には応募者がいたけれど、「姉妹犬」には誰も応募しなかった。抽選というチャンスを与えられることもなく、彼女は保健所に差し戻されたのだ。その後の彼女の身のほどは書くまでもないだろう。

 諸君、君たちは今や人間に加護されなければ生きてはいけない。しかし、人間はわがままでミーハーで冷たい。同じ姉妹の犬であっても、テレビで取り上げられた犬には関心を示し、そうでない犬には見向きもしない。しからば、諸君も自己顕示し、人間にアピールしなければ生きていけないのだ。今や尻尾を振る程度では人間の心に感動を生み出すことはできない。

 だから、犬たちよ、崖っぷちをめざせ。生きていくために第二、第三の「崖っぷち犬」をめざせ。決して「姉妹犬」になってはならない。生きるのだ。人に関心を持ってもらうのだ。ただ、そうしてもらい受けてくれた人間が必ずしも「いい人」とは限らないが…。

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2007年2月 2日 (金)

Daily K-Scale 0459

よみたいときに よめば よゐ

大目に見る。

 天宇受賣命(あまのうずめのみこと)、天の香山の天の日影を手次(たすき)に繋けて、天の眞拆(まさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草に結ひて、天の岩屋戸に槽(うけ)伏せて蹈み轟こし、神懸りして、胸乳をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき。ここに高天の原動(とよ)みて、八百萬の神共に哄(わら)ひき。

 これは『古事記』に記された「天の岩屋戸」で、天宇受賣命が踊って天照大御神を誘い出そうとしているシーンを描写したものです。いわゆる日本の芸能の始まりとされている場面です。

 これを今の文章にすると、結局、天宇受賣命は、まず上半身の諸肌を脱いで、最後には下もはだけちゃった!という大胆でエロチックな、つまり大人の踊りを披露するのです。これが、日本の芸能の第一弾だったのです。それは、きっと多くの人々(いや神話では神たちですね)の心をエモーショナルに捉えて放さなかったでしょう。それほど、この踊りは情動的だったに違いありません。

 一説によると、このダンスは男女和合の象徴である、とする考えもあるそうです。夫と妻の心根を合わすための前準備としての踊りが、天宇受賣命のダンスだというのです。このダンスのあとに、夫婦の気持ちがグッと親密になり、そして、天の岩屋戸が開かれ…。あとは想像におまかせします。

 もう一ヵ月以上前のことになってしまいましたが、紅白歌合戦でのDJ OZMAのパフォーマンスが物議を醸しましたね。NHKが事前に知っていただの知らなかっただので、ずい分紛糾していました。その辺りの真偽のほどは置いておいて、彼の勇気あるパフォーマンスに、ぼくは拍手を贈りたいと思います。神に捧げるものとして捉えた場合、芸能にとって裸や性に関することは、とても神聖で大切なものです。あんな取り上げ方は…という意見もあるでしょうが、取り上げることが大切では?という考え方もあるのでは。

 そして、もう少し見る側に「寛容性」があれば、こんなに大問題にならなかったでしょう。笑って済ますことも大切かも…。

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2007年2月 1日 (木)

Daily K-Scale 0458

よみたいときに よめば よゐ

命をお金で換算できるのか。

 損害賠償請求額が、なんと7億2千7百万円。これは、某大手家電流通会社の社長の長女が乗用車にはねられ、死亡したことに関する訴訟でのこと。長女は当時、社長室長で、将来的には社長になることになっており、50歳で社長に就任すると想定して、給与や逸失利益、慰謝料などをトータルに算出して賠償額を決めたといいます。その結果が前述の7億2千7百万円なのです。

 被告側は「短大を卒業した人の平均的給与を基準にするべきだ」と主張。結局、判決は「全労働者平均の年収を基礎に、逸失利益を算出するのが相当」と、約6千7百万円を支払うよう命じました。それを受けて、原告代理人は「判決は一般論に終始したが、会社の特殊性があるはず」として控訴すると言っています。

 なんだか、亡くなった長女が可哀相に感じます。若い身空で命を断たれたのも悲劇ですが、天国へ召された後も、この世では、彼女を主役にして、お金のことが泥仕合的に取り沙汰されているのです。

 勝手な判断をしてはならないのでしょうが、彼女の死をほんとうに悲しんでいるひ人がどれほどいるのでしょう。ご両親にしてもそうです。確かに彼女は、将来、社長になって多くの利益を上げたかもしれません。そして、それは企業にとっても大きな損失だったかもしれません。でも、彼女は、もうこの世にはいないのです。

 天国に召された人の価値をお金で量ることはできません。もちろんこの世にいる人も同じですが。いつも、こういった類の訴訟を見ていると、「なぜ、金銭に換算して人の価値を規定しようとするのか」と疑問に思います。何億積もうが、故人は還ってきません。だからこそ、金銭に換算することは、とても空しく感じるのです。

 長女をはねた25歳の男性は、赤信号を無視して交差点に進入し、横断歩道を渡っていた長女をはねて死亡させました。刑事罰は、業務上過失致死罪で禁固刑2年が確定しています。

 控訴になれば、ほんとうに金銭まみれの泥試合です。誰がそんな状況を望んでいるのだろうか。きっと天国で長女は泣いていることでしょう。ぼくは、ひたすら、彼女の冥福を祈りたいと思います。

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