Daily K-Scale 0566
よみたいときに よめば よゐ
鉢植えの白い手。
「殺すのは誰でもよかった」「そばにいたので母親を殺した」と母親を殺して生首を持ち歩いていた会津の高校3年生の少年は供述しているそうですが、ほんとうにそうなのでしょうか。ぼくは、母親に対して異常な心理が働いていたのではないかな、と想像しています。たとえば、誰でもよかたのなら、わざわざ死体を刻む必要はないし、生首をカバンに詰め込んで持ち歩くなんてことはありえない話でしょう。捨て場所を求めて持ち歩いていたわけでもなさそうです。ぼくは、これを「愛着」じゃないかと思っています。究極の「所有」は、「死」による「自己同一化」ではないだろうか。彼は「母」を殺すことで、永遠の自分だけの所有物にしたのでは、と。かなり倒錯した愛情表現ですが、過去にもこういった例は見ることができますね。
偏執的な愛情表現は、右手の処理にも見て取れます。少年は、母親の右手を切断し、白いペンキだかなんだかを塗って、植木鉢に挿していたようです。犯罪心理学の先生方は、「人をオブジェのようなモノとして捉えた冷酷極まりない心理が働いている」と分析されていましたが、ぼくは違うと思います。
少年は、ゆがんだ心理ながら「母親の再生」を願っていたのではないかと思うのです。右手は、深層心理的にいっても神聖な存在です。穢れた左手に対して右手は清浄なるものです。それはインドでも実践されていますね。その聖なる右手をこれまた神聖さを象徴する白い色で塗る。これは、まさに「儀式」なのですが、その儀式の舞台が「植木鉢」というところがミソです。花瓶ではなく植木鉢なのです。花瓶は切花、植木鉢には生きた植物が入れられています。イメージとしては、聖なる母親の右手を植木鉢に植えることで、やがて根が出て、成長し、いつしか母親が再生される、復活する…そんな観念があったのではないでしょうか。
エディプスコンプレックスという父子の葛藤はよく議論されますが、最近は、ゆがんだ母子関係が事件を起しているように感じます。もう一度、母と子の関係を見つめなおす時が来ているのでしょうか。
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