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2007年5月30日 (水)

Daily K-Scale 0574

よみたいときに よめば よゐ

便利にかわりに失ったもの。

 先日は、トトのビッグがシステムダウンによって一時購入できなくなり、パニック寸前になりましたよね。それ以前にも、大量のアクセスが集中してシステムがダウンしたなんてニュースは日常茶飯事で起こっていて、ちょっとやそっとのことでは、みんな驚かなくなってきているのではないでしょうか。

 先日の日曜日に全日空にシステム障害が発生して予約や発券、搭乗手続きがしにくくなり、羽田発の国内線130便が欠航、306便が1時間以上の遅れを出し、約6万9千人に影響が出ました。合計436便に影響が出たということで、これは全日空の国内線818便の半数以上にあたります。

 システム障害の原因は、ホストと各空港にある端末とを結ぶ「ホスト用接続系」と呼ばれるシステムの更新にある可能性が示唆されていて、更新によって東京都大田区にある国内旅行係のホストコンピューターに古いデータが滞留し、処理速度を低下させたためではないかと考えられています。

 そこで全日空では、データを削除し、更新したシステム6台のうち3台を元に戻して午後3時半に復旧させることができました。が、このシステム障害で、全日空のシステムを利用しているスカイネットアジア航空やアイベックスエアラインズ、エア・ドゥのダイヤにも影響が出たといいます。

 かつて、すべてが手作業の頃は、このような大規模の障害は発生しなかったでしょう。その分、発券や搭乗などの手続きには時間がかかったことでしょうが、欠航するなどの最悪の事態はなかったと思われます。

 ぼく自身の仕事でも同じようなことがあって、昔のように原稿用紙に書いておくと家事で焼けるとか、誰かに切り刻まれることがない限り、原稿はほぼ永久に存続します。それが今やPCの時代。一瞬にしてデータが消えることも少なくありません。スピードアップや機能的な便利さが向上したかわりに、ぼくたちは確実性や安全性といった大切なことを犠牲にしてきたのかもしれませんね。

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2007年5月27日 (日)

Daily K-Scale 0573

よみたいときに よめば よゐ

何が大切なのかを見据えること。

 一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ。

 チャップリンは、『チャップリンの殺人狂』で、こんなセリフを語りました。まさに「戦争」とは何かを示唆した言葉だと思います。今や、ボタンを押すだけで、何百人、何千人、いわんや何万人もの人たちを一瞬にして殺戮することのできるテクノロジーが開発されています。もし、ボタンを押した側が勝利したとするならば、ボタンを押した者、押すように命令を下した者は「英雄」となるでしょう。決して犯罪者とは言われません。一方、ボタンを押した側が敗北したら、「大量殺戮者」「悪魔」のレッテルが貼られることでしょう。昔から「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉があるように、ホロコーストは犯罪で、原爆投下は作戦として認知されてしまうのです。どちらも「人類の大罪」に変わりないのに。

 憲法9条が危機に瀕しています。いや、「憲法9条」というものがどうだこうだ、ということではないのです。「戦争放棄」が危機に瀕しているのではないだろうか、と言いたいのです。みんな「憲法9条」という名称で呼びますが、ぼくは「戦争放棄」と言いたいです。「憲法9条」と呼んでしまうから、アメリカによって強制されたとか、の意見が出て、本当に大切にしなければならない「戦争放棄」の意味が薄れてしまうのではないでしょうか。問題にしなければならないのは、守らなければならないのは「戦争放棄」のはずなのですから。名称に惑わされて論点を見間違ってはいけません。

 「戦争放棄」と言われて、異論を唱える人はほとんどいないでしょう。誰がつくった憲法でもいいかもしれない。新しい憲法をつくってもいいし、このままの憲法を守り続けてもいいでしょう。大切なことは、「戦争を憎み、それを放棄し続けることを宣言しておくこと」だと思うのです。

 百万人を殺して生まれる英雄が、のうのうとのさばる世界なんてイヤです。ましてや、その英雄が戦争によって、なんらかの利権を得るなんて信じられません。でも、今、世界が、そんな方向に向かっているような気がして…とても心配です。大切なものは…。

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Daily K-Scale 0572

よみたいときに よめば よゐ

47万人が途方に暮れる。

 もしも、首都直下型の大地震が起きたとすると、東京都区部で約
 47万人もの人々が避難所に収容されずに路頭に迷うことになる。

 こんなショッキングな予測が、政府の中央防災会議の専門調査会によってまとめられました。これは、東京をはじめ埼玉、千葉、神奈川、茨城県南部の計247市区町村を対象に、東京湾北部を震源とするマグニチュード7.3、震度6強の地震が冬季の午後6時に発生したとの想定で実施したアンケートの結果です。

 詳細は、こうです。東京都区部の避難者は239万人で、避難所に指定されている公立小中学校など公共施設の収容人数は192万人しかないことが分りました。さらに、約3割の避難所が十分な耐震強度を備えていないかもしれず、地震で損壊する可能性も高く、避難所に収容しきれない人数はさらに増える恐れがあるといいます。

 さらに恐ろしいことには、自宅が遠距離にあるため帰宅が困難となる1都4県の約650万人に対して、ほとんどの自治体が2~3日間は水や食料の提供が難しくなると回答しているそうです。

 総務省消防庁では、東南海・南海地震の同時発生に備え、都道府県境を越えて消火や救助活動を支援する緊急消防援助隊の活動計画をまとめています。それによると、大きな被害が想定される静岡、愛知、三重、和歌山、徳島、高知の6県を派遣対象とし、最大応援人数は延べ2万3250人を見込んでいるそうです。

 このように、東日本では地震に対する意識も高く、さまざまな、もしもの場合への対策が講じられています。最近、このような記事が多いのでついつい「おいおい、間もなくに迫っているのか…」なんて深読みしてしまいますが、いかがなものなのでしょう。政府が発表していないだけで、かなり詳細なトップシークレット情報があるような気がします。これって勘ぐり過ぎでしょうか。

 東京直下や東南海・南海地震も恐ろしいですが、下馬評では、京都が危ない…なんてことも言われています。購読している「京都新聞」には、週に一度「地震情報」なるものが掲載されていますし、ガセではないような気も…。さて、どうなることやら。

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Daily K-Scale 0571

よみたいときに よめば よゐ

力と法の国。

 先日、バージニア工科大学での銃乱射事件があったばかりのアメリカでのお話です。

 イリノイ州シカゴに住むコラムニストのハワード・ルドウィグ氏の息子・ハワード・デービッド・ルドウィグちゃん(通称ババ)は生後10カ月の男児。ババちゃんのおじいちゃんは、将来、銃の手ほどきをしようと考え、初孫へのお祝いに散弾銃を購入したそうです。

 そこで、父であるハワード氏は、ババちゃんの銃所持を許可する証明書の発行をイリノイ州警察に申請したそうです。彼は、証明書が入手できるかどうか半信半疑でしたが、なんと州法には年齢制限がなく、5ドル(約600円)の申請料を支払うだけで入手できたそうなのです。許可証には、歯も生えていないババちゃんの写真と約70センチの身長、約9キロの体重が記載されているそうです。

 まず、初孫へのプレゼントに散弾銃を選ぶというセンスがよくわかりませんね。殺人の道具を、人生をスタートしたばかりの希望に満ちた子どもに与えなければならないお国柄。それを考えるとなんとも淋しい限りです。銃を介在させなければ人間関係が維持できないのですから、頭からハートツーハートの交流を諦めているとしか考えられないということですものね。

 そして、書類だけですべての処理が進んでいくという恐ろしさ。法律がそうなっているから、といって、なぜ10歳の男児に銃保持の許可が下りるのでしょう。法律の不備が一番の問題ですが、その欠陥をフォローするのが現場でしょう。きっとお役所仕事よろしく、立法が悪いだの、司法がドン臭いだの、行政がなっとらんだのの、責任のなすりつけ合いがあるのでしょうね。

 なんとも不思議なアメリカです。イギリスのピューリタンたちが新しい「約束の地」を求めてたどり着いた新天地。この人工の国をまとめ上げるには「力」と「掟」しかなかったのでしょう。それが「銃」と「法律」の国をつくり上げた。「暴力」と「裁判」の国をつくったのです。「情」で生きてきた日本人には、なんとも無味乾燥なシステムではないでしょうか。

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Daily K-Scale 0570

よみたいときに よめば よゐ

倍の値段なら止められますか。

 比較的、何の苦労もせずに「禁煙」というか「断煙」できたので書くわけではありませんが、煙草は止めたほうがいい。なぜか?そりゃ、空気のおいしさが実感できるという幸福感は「喫煙者」にはなかなか味わえませんから。「今日も元気だ。空気がうまい」ですよ。無味無臭の空気がおいしいなんて、いいでしょ。

 で、近ごろこんな調査結果が発表されました。「タバコの価格が2倍から3倍になれば、ニコチン依存度が比較的低い人々の多くが禁煙を考える」、一方で「ニコチン依存度の高いヘビースモーカーは、3倍近い800円になっても3人に1人は禁煙を考えない“頑固者”である」という結果が出たそうです。

 これは20歳以上の男女22人に対してインターネットを通じて喫煙の有無やニコチン依存度、禁煙を考えるきっかけとなる事項などについて調査し、行動解析したものです。調査は、京大グループが実施。行動経済学の手法で分析されています。

 高度のニコチン依存とは「朝起きて5分以内に喫煙する」などの特徴を持ち、「タバコの価格が現在の2倍の600円程度」になっても禁煙を考えるのは30.2%に過ぎず、「喫煙による死亡リスク」や「家族の肺ガンリスク」などは禁煙の判断材料にさえ上げられていませんでした。

 このような“頑固者”を除いて、ほとんどの人が「タバコの値上げ」によって、禁煙をはじめそうだ、ということを、この調査は証拠づけしてくれています。真に国民のことを考えるなら、消費税率の引き上げよりもタバコの値上げを優先すべきでしょう。喫煙者が減って税収は落ちるかもしれませんが、健康保険料の削減や生命保険支払額のダウンも見込める可能性があります。男性の長寿が世界第2位に転落したのを挽回することができるかもしれません。

 ぼくも、かつては1日80本ほどのセブンスター・スタンダードを愛飲していた人間です。喫煙者の気持ちもよくわかります。でも、ここは、世間の流れに身を任せ、禁煙への旅をはじめてみませんか。きっと、深呼吸したときの心地よさを体験したら、維持できますよ。

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Daily K-Scale 0569

よみたいときに よめば よゐ

スシは今やファーストフード?

 という記事を見つけました。アメリカで、かつてはエキゾチックな高級料理だったスシが、今ではスーパーやコンビニで気軽に買える当たり前のメニューになったそうです。さらには、外食だけでなく、家庭でも手軽に作ろうという人も増え、親子スシ教室が人気になっているのだとか。

 スシ教室の講師は言います。「スシは今の世代にとってはピザのようなもの。30歳以下の人たちにとってファーストフードなんだ」。

 スシ…特ににぎりスシに関しては、その発祥は江戸時代の屋台にあると言われています。手でつまんで食べられる手軽さ、気軽さが、気の短い江戸っ子にウケて大人気になったとか。いわば、スシは、お江戸のファーストフードとして生まれたのです。だから、昔ながらの「熟れ鮨」や「押し寿司」を作っている職人さんたちは「にぎりスシ」なんてファーストフードやで!とおっしゃいます。アメリカの人たちは、言わずもがなスシの本質を捉えていたのですね。

 全米レストラン協会が2000年に行った調査によるとスシを知っている人は全米の79%、一度は食べたことがある人は32%に上っているそうです。確実に普及、浸透し、普通の食事になってきているのです。その理由は、低脂肪・低カロリーという和食のイメージがアメリカ人の健康志向にマッチしているためと考えられています。

 アメリカで今、人気のスシは「にぎり」ではなく「巻き」だそうです。しかも、内側から「具」「海苔」「スシ飯」の順に巻いていく「インサイドアウト(裏巻き)」が通例だとか。スシ飯には、ごまやとびっこをまぶすことが多く、具は火を通した魚介類や野菜が使われます。鰻と胡瓜を芯にしてアボガドの薄切りで巻いた「ドラゴンロール」やマグロ・ハマチ・サケ・アボガドなどを七色にあしらった「レインボーロール」などのニューフェースも人気だとか。

 日本では、くるくる回るのが「スシ」と思われつつあります。アメリカではタコヤキにイチゴを入れるかのようなスシが人気を博し、伝統の味もどんどん様変わりをしています。これも時代の波というものなのでしょうか。でも、源流は忘れないでいたいものですね。

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Daily K-Scale 0568

よみたいときに よめば よゐ

有機フッ素化合物。

 パーフルオロオクタン酸(PFOA)という有機フッ素化合物をご存知ですか。調理器具や繊維製品などに焦げや汚れがつかないようにする加工や撥水剤などフッ素関連製品の製造過程から放出されると考えられている物質です。最近では、動物実験によって発ガンとの関連などの毒性が指摘されています。

 この危険な物質による水質汚染が大阪市とその周辺で広がっているという調査結果が京大の小泉昭夫教授(環境衛生学)らのグループから発表されました。その報告によると汚染は高濃度で、住民の血中濃度も高くなっているといいます。

 2003年に行われた調査によって、通常は水1リットル中にせいぜい数ナノグラムくらいだという有機フッ素の含有量が、大阪市の淀川で140ナノグラム、淀川の支流である安威川にある下水処理場周辺では6万7千~8万7千ナノグラムという世界最悪レベルの汚染が確認されています。また、全国の10地域の人たち(サンプル合計200人)の血中濃度を調べた結果、京都、大阪、西宮各市の濃度が目だって高いこともわかりました。

 大阪市の水道水中のPFOA濃度は仙台市など他地域の300倍にも達するそうで、人体汚染は飲料水が一因ではないか、とみられています。さらに、安威川周辺の2つの井戸の水を調査したところ、1リットル中にそれぞれ8300ナノグラムと5万7千ナノグラムのPFOAが検出され、地下水汚染が広がっている可能性もあることが分かってきました。

 PFOAの毒性は、まだまだよく分かっていないことが多いのですが、人体に蓄積されやすく、血中濃度が高くなる傾向があるといいます。最近では、世界各国で懸念が高まり、新たな汚染物質として注目されています。そんな中、米国では500ナノグラムを超えた時点で企業が飲料水の浄化などを行うことになっているそうです。

 次々に得体の知れない有害物質が登場しますが、ある程度、汚染が進まないと表面に出てこない…という問題があります。表面化した頃には手遅れ…そんな深刻な事態だけは避けたいものですね。

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2007年5月25日 (金)

Daily K-Scale 0567

よみたいときに よめば よゐ

夫婦喧嘩じゃん!

 よくよく考えてみよう。愛知県長久手町の立てこもり事件ですが、夫婦喧嘩じゃなかったのでしょうか。過激な夫婦喧嘩に巻き込まれて、犠牲者まで出てしまった、というのが、この事件の結論なのではないでしょうか。

 ぼくの幼い頃に住んでいたところには、しょっちゅう夫婦喧嘩している家があって、よくぼくの親が仲裁に行ったりしていたものですが、不謹慎かもしれませんが、今回の事件を見ていて、その頃の記憶が蘇ってきてしまいました。

 「そんなカッカしてても話にならへんやろ」「まぁ、落ち着いてもう一回よぉ考えてみいや」とかの説得の言葉が続きます。手にはフライパンとかが握られているときもありました。考えてみれば、これって充分に「凶器」ですよね。

 長久手の事件だって、夫婦の復縁の話をしているときに犯人の旦那がキレて、持っていた拳銃をぶっ放した、というのがきっかけですよね。これって第三者が介入できない「夫婦喧嘩」ですよね。拳銃が使われていなかったら、いや凶器が使われていなかったとしたら、「夫婦喧嘩は犬も食わん」と誰も相手をしなかったでしょう。拳銃が使われたものの、本質はやはり「夫婦喧嘩」だったはずです。

 そう考えたら、犠牲となった対テロ特殊部隊SATの若い隊員の方がほんとうに不憫でなりません。彼らは、「正義」を信じて活動しているはずです。社会に対して不義を働く者、残虐な者たちを殲滅するために彼らは存在しているはずです。そんな彼が、いわゆる「痴話喧嘩」の犠牲になってしまったのです。「犬も食わない」ようなもののいけにえになるなんて…。

 家族を人質に立てこもる、というのもかなり特殊だと思います。普通は、父親は家族を守るものです。それが、家族の敵に回る。そんな「壊れた家族」のために、若い命が失われる。なにか納得できない「しこり」が心に残ります。

 家族の喧嘩に警察が介入する。しかも、特殊部隊まで巻き込んで。いつから日本は、こんなにもややこしい国になったのでしょうか?

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2007年5月24日 (木)

Daily K-Scale 0566

よみたいときに よめば よゐ

鉢植えの白い手。

 「殺すのは誰でもよかった」「そばにいたので母親を殺した」と母親を殺して生首を持ち歩いていた会津の高校3年生の少年は供述しているそうですが、ほんとうにそうなのでしょうか。ぼくは、母親に対して異常な心理が働いていたのではないかな、と想像しています。たとえば、誰でもよかたのなら、わざわざ死体を刻む必要はないし、生首をカバンに詰め込んで持ち歩くなんてことはありえない話でしょう。捨て場所を求めて持ち歩いていたわけでもなさそうです。ぼくは、これを「愛着」じゃないかと思っています。究極の「所有」は、「死」による「自己同一化」ではないだろうか。彼は「母」を殺すことで、永遠の自分だけの所有物にしたのでは、と。かなり倒錯した愛情表現ですが、過去にもこういった例は見ることができますね。

 偏執的な愛情表現は、右手の処理にも見て取れます。少年は、母親の右手を切断し、白いペンキだかなんだかを塗って、植木鉢に挿していたようです。犯罪心理学の先生方は、「人をオブジェのようなモノとして捉えた冷酷極まりない心理が働いている」と分析されていましたが、ぼくは違うと思います。

 少年は、ゆがんだ心理ながら「母親の再生」を願っていたのではないかと思うのです。右手は、深層心理的にいっても神聖な存在です。穢れた左手に対して右手は清浄なるものです。それはインドでも実践されていますね。その聖なる右手をこれまた神聖さを象徴する白い色で塗る。これは、まさに「儀式」なのですが、その儀式の舞台が「植木鉢」というところがミソです。花瓶ではなく植木鉢なのです。花瓶は切花、植木鉢には生きた植物が入れられています。イメージとしては、聖なる母親の右手を植木鉢に植えることで、やがて根が出て、成長し、いつしか母親が再生される、復活する…そんな観念があったのではないでしょうか。

 エディプスコンプレックスという父子の葛藤はよく議論されますが、最近は、ゆがんだ母子関係が事件を起しているように感じます。もう一度、母と子の関係を見つめなおす時が来ているのでしょうか。

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2007年5月22日 (火)

Daily K-Scale 0565

よみたいときに よめば よゐ

モザイク国家はどうなるのか。

 いわゆるWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)なる言葉もあるくらいで、これまでアメリカは建国以来、ずっと白人社会でした。その一方で、メキシコや中米からの移民や欧州、アジアからのイミグラントを寛容に受け入れるなどした結果、人種の坩堝と譬えられるくらい、他民族の国家になっています。それでもやはりWASPが、かなりの利権を握っている(詳しくみるといろいろありますが、そのネタはいつか別の機会に)のに違いはありません。やはり白人の世界なのです。それを支えていたのは、白人がマジョリティーであるということ。

 その事態が変わろうとしています。アメリカでは近年、中南米諸国からのヒスパニック系やアジア系を中心に移民が急増して、早ければ今世紀半ばにも、彼ら移民がマイノリティーからマジョリティーになると推計されているのです。これは、アメリカ政府統計で判明したことなのですが、非白人人口が1億人を突破したというのです。アメリカの総人口が3億人と言いますから、非白人の比率は、3人に1人の割合となるのです。 

 昨年9800万人だった非白人人口でしたが、今や1億70万人に増加。そのうちヒスパニック系人口は4430万人、黒人は4020万人、アジア系1490万人と続きます。特にヒスパニック系は2005年から2006年の1年間で3.4%と、急速に伸びています。

 これまで、白人がマジョリティーだった社会では、移民系の大統領なんて考えようもありませんでした。しかし、これからの流れから考えると、黒人大統領も夢ではなくなってきているのです。黒人である民主党のオバマ上院議員やヒスパニック系のリチャードソン・ニューメキシコ州知事が来年秋の大統領選に出馬を表明しているのもこのような人口動態が影響しているといいます。

 いわゆる「アメリカン・ドリーム」と言いますが、人口構成の変化は、ますます「ドリーム」のスケールを大きくしてくれそうですね。少数派が多数派になるまでは、とりあえず「がんばれ!マイノリティー」とエールを贈りたいものです。

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2007年5月21日 (月)

Daily K-Scale 0564

よみたいときに よめば よゐ

新・狩猟民族。

 狩猟民族というのは、道具を使って、そこに存在するものを採取して生計を立てている民たちのことをいいます。つまりは、既存のものを取り込まないと生きていくことはできません。

 一方で、農耕民族は、種をまき、出てきた芽を育て、花を咲かせ、実をつけさせて、糧を得ます。ときにそれは実であり葉であり根であり…。とにかく農耕民は、既存のものではなく「育てる」という概念を携えて生計を立てている民たちなのです。

 上記のような視点で、いまのぼくたちを捉えてみると、きっと狩猟民に区分されるのではないかと思うのですがいかがでしょう。ぼくたちは、黒曜石の鏃などの道具のかわりに「貨幣」という道具を使って糧を採集していると考えることはできないでしょうか。その道具の能力は貨幣価値の高さに比例しています。早い話が、たくさんお金を持っているとたくさんのものが採集できるということです。

 この新・狩猟民は大きな問題点を抱えています。「育てる」という観念を持ち合わせていないのです。今や、お金さえ払えば、ありとあらゆるものが手に入ります。百年かけて大きくなってきた企業でさえ、それ相応の価格で売買されてしまうのです。新・狩猟民たちは、まるで趣味の品々を集めるかのごとく企業買収を行い、複合技で企業価値を見かけ上高めて、また別の新・狩猟民に高値で売り渡します。何度もいいますが、そこには「育てる」という発想は、皆無です。既製品の売買というスタンスしかないのです。

 この民族は、はじめ欧米に生まれましたが、今や続々と日本にも誕生しています。かつての狩猟民たちは、その施しを与えてくれる自然というものを畏怖し、そして感謝していたものでした。だからこそ、さまざまな祭が生まれ、禁忌ができ、ルールがつくられたのです。でも、今や、そんな畏怖も感謝もありません。人類は、貨幣価値というバベルの塔をつくり続けているのです。まったくおこがましい行為です。シッペ返しは、そのうち必ずやって来ることでしょう。できれば、「育てる」ことを知っている農耕民族になりたいものです。そんな人が増えたら、もっと世界は平和になるかも…。

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Daily K-Scale 0563

よみたいときに よめば よゐ

瀬戸内海に熱帯魚?

 へぇ、須磨海岸でトロピカルフィッシュが見られるんだ、と喜んでいる場合ではないのです。事態は深刻なのです。

 茨城県神栖市にある水産総合研究センター水産工学研究所の環境分析研究室の桑原久実室長によると、異常なペースで日本近海の水面温度が上昇していて、このまま上昇が続くと漁業への深刻な影響が出る可能性が高いのだそうです。

 日本の近海は、年間の最高水温29度を境にして温帯域と亜熱帯域に分かれているそうで、現在、その境は鹿児島県南部です。しかし、今後、水温が1度上がれば、この境が一気に北上して、四国や瀬戸内海までが亜熱帯域に含まれてしまうことになるのだそうです。

 ヒラメやウニ、アワビなど寿司でも人気高い魚介類は、環境への対応が遅く、水温上昇が深刻な影響を与えるかもしれないと懸念されています。また、アジやタイなども、これまで以上に北のほうに移動して、これまでの漁場では水温の低い時期にしか漁ができなくなるような恐れがあるといいます。ただ、深海底の魚介類への影響は少ないので、カニなどは安泰だといいます。いやいや、カニが安泰だから、どうなんだ。ヒラメやアワビの問題ではなく、これは地球全体に関わる問題なのです。

 漁業の問題だけで語るなら、瀬戸内海が亜熱帯域になったとしても魚介類は亜熱帯産のものが増えるので、魚が減るわけではありません。ハタなどの亜熱帯の魚が豊富に獲れる可能性もあり、期待できる面もるそうです。

 確かに、漁業的にみればそう不安視することもないようなのですが、環境学というか生物環境として、このような現象を考えると、かなり危険な状況になっているように感じるのです。さらに、日本近海の海面水温の上昇が世界水準の3倍のペースだと聞くと、なんだかおかしいぞ、と思わずにはいられません。原因は、ユーラシア大陸の中・高緯度地域での地上気温上昇の影響も一役かっているという説もあるそうです。いずれにしても、人為的なものだったら、危険この上ないと思います。注意深く見つめていきたいものです。

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Daily K-Scale 0562

よみたいときに よめば よゐ

夢や希望で満たそうよ。

 過労自殺が増えているそうです。この過労自殺というのは、働き過ぎや職場でのストレスから、うつ病などの精神障害を発症し自殺に至ることをいうそうです。最高裁が2000年に長時間労働でうつ病を発症し自殺した大手広告代理店社員の訴訟で示した「企業は労働者の心身の健康を損なわないよう注意する義務がある」という指摘以来、過労自殺という概念が広まりました。

 過大な仕事量を与えられ、過酷なノルマ達成を求められ、長時間労働や成果主義が徹底され、職場や同僚たちなどのサポートもなく、うつ病になり、過労自殺につながるケースが多い、と厚生労働省は分析しています。確かに、経済のグローバル化によって、人件費の高い日本国内での活動は、長時間化&コストの一定化、つまりサービス残業などをしなければ国際的に競争できない状況に陥っています。さらに、規制緩和政策によって競争が激化し、職場の一人ひとりが自分のことで手いっぱいになり、共同体としてのパワーが発揮できなくなっていることも挙げられるでしょう。

 厚生労働省の集計によると、精神障害での労災申請は前年度比25%増の819人。認定は61%増で、過去最多となる205人だったそうです。そのうち、未遂を含む自殺の認定は前年度の42人から66人に増え、その中で65人が男性でした。ただ、過労死は10人ほど減って147人だったそうです。労災に関しては30代が突出して多く深刻な様相を呈していて、過労自殺に関しては50代と30代が顕著だったようです。いずれにしても働きざかり、リーダー的ポジションの人たちにストレスが集中しているようなのです。

 昔から日本人は働きすぎの民族でした。「アリとキリギリス」のアリのようにせっせと働き続けていたのです。でも、今のような自殺は少なかったはずです。では、なぜ、こんな状況になたのでしょうか。ぼくが思うには「希望」や「夢」がなくなったからじゃないのだろうか。なんらかの「目的」や「目標」があるからこそ人はムリすることもできます。職場にストレスが蔓延しているのではなく、「夢」や「希望」が足りないのではないでしょうか。

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Daily K-Scale 0561

よみたいときに よめば よゐ

秋にもゴールデンウィーク?

 11月3日の「文化の日」の前後に、10月第2月曜日の「体育の日」と11月23日の「勤労感謝の日」を移してきて、もうひとつのゴールデンウィークにしようという構想を与党が提案しているようです。

 この構想は、参院選での公約づくりの過程で浮上したようで、旅行の機会を増やし消費拡大を図るとともに、働き過ぎを抑制するのが狙いなのだそうですが。本当のところは、マニュフェストにこの構想を加えることで、参院選を有利にしようという狙いがありそうです。早い話が、ぼくらの目の前に、ゴールデンウィークというにんじんをぶらさげよう、ということなのです。

 ただ、与党自民党の中でも保守色の強い議員からは、かつて秋の収穫に感謝する「新嘗祭」として祝っていた「勤労感謝の日」を動かすことに反発が生まれているようです。きっと「そこまでして、選挙に勝ちたいのか」ということでしょう。

 確かに、最近の選挙戦略は「いったい政治ってなんだろう?」と思わせるものがたくさんあります。比例区の代表候補なんて、とにかく有名なら誰でもいい、みたいな風潮が感じ取れます。自分の党の議員数が増えればそれでいいのか、と思います。「数の論理」は確かに存在します。結局は、「多数決」で議決されてしまうのですから、どんなにいい政策であろうが、どんなに悪い法案であろうが、多数派の党が推すものが通ることになります。

 かつての自由民権運動の志士たちが、今の状況を見るとどんな感想を持つのでしょうか。彼らは、こんな政治のために命を投げ出していたのでしょうか。投票する側、される側、どちらも目的を失くして迷走してはいないでしょうか。

 一年に二度のゴールデンウィークがあってもいいでしょう。それによって、経済が動くならなおよし、と考えるべきです。が、それで、渋滞が増えたり、物価が高くなったりするのは考えものです。もっとも、ぼくは、人が多い場所へ行くのが苦手なので、秋のゴールデンウィークができたとしても家にいることになるでしょう。ちっとも経済効果には貢献できそうにありません。すみません。

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2007年5月20日 (日)

Daily K-Scale 0560

よみたいときに よめば よゐ

木津川さんに会いました。

 “大阪には、2つの地盤沈下が起こっておるのです”。これは、『上方芸能』の代表である木津川計さんからうかがったお話です。

 ひとつ目の地盤沈下は、本当に土地が沈んでしまったということ。昭和のはじめから1940年くらいの40年間の間に最も沈んだのが此花区辺りで、2.8mほども沈んだのだそうです。淀屋橋や肥後橋の辺りでも1.5mほど沈んでいるそうなのです。だから、川巡りの遊覧船は、かつては中之島辺りを自在に航行していたのですが、最近は、橋の下をくぐれないときがあってルートを変えるなどの対策をしないといけなくなっているのだそうです。そうそう天神祭の船も昔は、安治川の方からもやってきていたのだそうですが、最近は大川周辺の船しか祭に参加できなくなっているのも、この地盤沈下によるそうなのです。

 ふたつ目の地盤沈下は、文化的な没落のことです。近松などを取り上げるまでもなく、大阪は文化の街でした。明治以降の小説家を考えてみると、なんと大阪人の多いことか。織田作之助、開高健、山口瞳、藤本義一…。かつては、「大阪詣」といって、東京の編集者が新幹線にのって上方にやってくるというのが慣例化されていたのだそうです。そんな文化的に高かった大阪がいつのまにか「がめつい、ケチ、あつかましい」という「超経済主義」になってしまったと嘆かれていました。確かに、昔から大阪は商業都市ではあったけれど、こんなにも「儲け主義」ではなかったでしょう。それが、自らなのか他からなのか、「ドケチ」のイメージが作られてしまったのです。ハンカチ王子の東京と亀田兄弟の大阪が象徴していると木津川さんは分析されていました。

 文化には経済さえも引き上げる力がある。と木津川さん。それには、「あんたらみたいなお若い40代にがんばってもらわなあかんな」と。木津川さんは、昭和10年のお生まれ。うちの親父と同じ歳です。なぜか、親父から「お前、しっかりしいや!」と励まされているというか、叱咤激励されているようで、「大阪の地盤を引き上げるような活動をしなければ…」と決意を新たにしました。

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Daily K-Scale 0559

よみたいときに よめば よゐ

時間をおいしくいただく。

 青空の下で食事をすると、とてもおいしい。みんなとワイワイとおしゃべりしながら食べると、とてもおいしい。これは、なぜだろう。どうして、こんなにも楽しく食事ができるのでしょうね。

 さわやかな風が気分を解きほぐしてくれるのでしょうか。草のいい匂いをのせた風は、確かに鼻の奥のほうをくすぐってくれます。その心地よさが、食欲をグググググっとそそってくれるという効果はありますよね。

 天井がない。これもグッドかも。目線を上に向けると、広がっているのは、青い空と漂う白い雲。時間が流れているのか、止まっているのか…。そんなまどろみの感覚が、料理の味を引き立ててくれているのは確かですね。

 広がる芝生もいい。見わたす限りのグリーン。そして、腰を下ろすとちょっとヒヤっとした湿り気…。その心地よい触感を楽しみながら舌つづみを打つ。これは、なかなかオツなものです。ときどき芝が口の中に入ったりもしますが…。

 なによりもいいのが、みんなで食べるということですね。料理だけでなく、おしゃべりもいっしょにいただいている。そんな感覚でしょうか。あれはこう、これはああ、みたいな他愛もないような会話だけれども、その言葉の交換が過ぎていく時間をとても彩り豊かなものにしてくれます。

 青空の下での食事って、料理を食べているだけでなく、会話を食べたり、景色を食べたり、風や光を食べていたり…。いろんなものをいただいて、楽しい時間を過ごしているのですね。だから、あっという間に時間が過ぎてしまいます。

 晴れた日の休日の、ほんの少しの時間でしたが、とてもゆったりとしたひとときを過ごすことができました。日ごろの「モヤモヤ」した気分も吹っ飛びました。明日もがんばろうか、という前向きな気分も盛り上がりました。

 バーベキューは楽しいものです。季節に一回くらいの頻度ですが、このイベントがあるから、がんばれる、そんな楽しい恒例行事です。

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Daily K-Scale 0558

よみたいときに よめば よゐ

あぁ、マルガリータ。

 最近、ずっとマルガリータ頭にしています。早い話が、坊主刈りなのです。このヘアスタイル(そう呼んでいいのだか、どうだか)にして、よいところ。それは、洗髪したときに放ったらかしにしておいてもへっちゃらなこと。お手入れカンタン、手間いらずで、便利なことこの上ありません。で、悪いところ。見た目がかなりコワくなります。ある人からは、「いつも笑っていてくださいね。でないと、そのスジの人みたいですからね」なんてアドバイスをいただいたことがあります。それと、小まめに刈り込まなければならないこと。10日に一度はバリカンを入れないと、毛が伸びてしまって気分が落ち着かないのです。

 刈りたてのときに頭に触れると、とても肌ざわりがいいものです。毛足の超短いタワシの感覚でしょうか。とにかくザラザラ感が超素敵なのです。娘も気持ちよさそうに、なでてくれたりします。ただ、お風呂からあがって、頭をバスタオルで拭こうとしても短い毛に引っかかってタオルが動かず、拭けないのです。叩いて水分を吸い取るしかないのです。でも、数回叩けばOK。こんなに手間いらずのヘアスタイルは、やっぱり他にはありませんね。

 と、マルガリータがお気に入りなのですが、このヘアスタイルを選んだのには、もうひとつ理由があります。それは、近ごろ、前頭葉の辺りが寂しくなってきているということなのです。譬えるなら、鶴瓶師匠のようなM字がくっきりと頭に現れつつある、ということだったのです。家族からも「アブない、アブない」と、忠告されていましたので、マルガリータにして以来、安心したようです。

 ほんとうは、中年男のやさぐれたロンゲ姿にも、ちょっと憧れたりするのですが、ぼくの頭の中にあるイメージと実際に出来上がる実像とのギャップを考えると、ちょっと勇気が出ません。それとか、金髪(昔したことがあります)なんかにもチャレンジしてみたいな、とも思います。が、世間からは「キモ~!」と一蹴されそうですね。

 そんなこんなで、いろいろ想像を広げてシミュレーションしてみましたが、結局は、もうしばらくこのマルガリータでいきます。

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2007年5月18日 (金)

Daily K-Scale 0557

よみたいときに よめば よゐ

汚れちまった悲しみに。

 汚れちまった悲しみに…なんだ、この言葉の相関関係は。はじめて読んだときから、頭のなかは、グワングワンと揺すぶられ続けています。いまだに、それは続いています。

 悲しみが、汚れちまったら、どんな姿になるのだろう。ぼくは、最初、積もってから数時間経って、排気ガスやドロなんかで灰色に汚く染まった雪の色を思い浮かべていました。灰色なんだけれども、汚いのだけれども、なにかしら透明感がある。汚く透き通っている。そんな印象があるのです。色の印象は、こんな感じ。

 悲しみが汚れる。つまりは、純粋な悲しみじゃない。邪な想いが交じった悲しみ…。その存在感が、中学生だったぼくには、とても観念的で、つまり、触れるようで触れない、まるで立体ホログラムのような不確かな、不愉快な感覚を呼び覚ますものでした。少しの不快感をともなうものだから、余計に気になる、記憶してしまうのです。中也は、天才だと思いました。

 自らの神経を貪り食いながら、それを栄養にして自らの精神を養う。セルフカンニバリズムの遂行者が、天才詩人なのかもしれません。そんな、狂気の沙汰は、凡人には到底できない芸当です。せいぜい鏡に映った自分の姿に向かって石つぶてを投げつけるくらいが関の山でしょう。だった、小心者ですから。

 つまりは、悲しみを汚すことすらできない。汚れから守る実力もないし、自ら汚しにかかる勇気もないのです。心のどこかに、ぼくの悲しみは純粋無垢だ、という思い込みがあるのでしょうか。ついつい、悲しみを正当化し、他人に押しつけかねない状態にいます。

 汚れちまった悲しみは、いったい誰が汚したのでしょう。中也自身なのでしょうか。それとも、誰かから汚されたのでしょうか。あ、他人なら「汚されちまった」となりますね。となると、やはり自分で汚しちまったのかな。自分で汚したなら、故意か不可抗力か、どちらなのでしょう。やはり、不可抗力と信じたい。でも、予測はできていたに違いないと踏んでいます。

この少し汚れた塊は、今でもぼくの心の中に居座り続けています。

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2007年5月12日 (土)

Daily K-Scale 0556

よみたいときに よめば よゐ

間接コミュニケーション

 「怒ってるって言うといて!」と第三者に伝言を頼むことってありますね。顔を見るのもうっとおしいくらいに頭にきている、ということもあるでしょうが、実のところは、直接言いたくない、ダイレクトだと言えないから…ということが理由になっているのではありませんか?

 嫌な思いをダイレクトに伝えるには、とても勇気が必要です。それも、きちんと相手の目を見ながら、誠意を持って対応するなんて、想像するだけで目まいがしそうです。それほど、プレッシャーのかかることなのです。だからといって、避けて通ってはいけない大切なことでもあるはずなのです。

 近ごろ、相手の目を見ながらコミュニケーションできる人が減ってきていると聞きます。いや、目と目を合わす以前に、相手と向き合って会話できる人が少なくなっているということも耳にします。電話で話すよりも携帯メールで済ますほうが気が楽、という声もあるといいます。コミュニケーションが持っている体温がどんどん下がって来ているように感じるのは、ぼくだけでしょうか。

 先日、ワイドショーを見ていたら「赤ちゃんポスト」の話題を取り上げていました。赤ちゃんポストは、奥にスタッフが居ながら、赤ちゃんを捨てに(言葉は悪いですが、そのとおりだと思います)来た人にいっさい声をかけないそうです。それを知ったコメンテーターは怒っていました。「なぜ、赤ちゃんを捨てにきた人とスタッフがコミュニケーションしないのか!」と。

 彼は「今や、人類はキカイをかまさないとコミュニケーションできなくなってしまっている…」と嘆いていました。さもありなん、だとぼくも思います。相手の顔を見ながら会話する。せめて声を聞きたいものだ。文字にするなら、できるだけ自筆で書く。できるだけアナログにこだわるコミュニケーション形態には、なんらかの熱が起こるとぼくは信じています。だからこそ、そんな熱の片鱗をツールのあちらこちらにマーキングしておきたいのです。体温のあるダイレクト・コミュニケーションをつねに心がけていたいものです。

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2007年5月11日 (金)

Daily K-Scale 0555

よみたいときに よめば よゐ

インプロビゼーション

 コピーを書くということは、音楽でいえば“スタジオ録音”のようなところがあります。どういうことかというと、何度も何度も書き直すことができるので、納得できるまで推敲を重ねることができるのです。つまり、自分の思う「完璧」を目ざして“創りこむ”ことができる行為なのです。

 コピーの正反対にあるのが、即興詩ではないでしょうか。こちらは、とにかく“やり直し”ということができません。しまった!と思っても、どんどん前に進んでいかなければならないのです。特に音楽など他の表現とコラボレーションしている際などは、お互いにからまりあわなければならないので、止まるわけにはいきません。

 このように考えると、即興のパフォーマンスは、“今あるものを最大限に使いきって表現するしかない”といえます。ないものねだりはできないのです。だから、当然、潔い態度が求められます。ないものはない、という一種の開き直りも大切になるでしょう。ないことを嘆いていても先に進むことはできないからです。

 では、コピーを書く際に、即興性を生かすことはできるのでしょうか。実は、コピーには締め切りというものがあります。この締め切りが設定されていることで、一種の即興性が求められることがあるのです。資料を集める時間と実際に書く時間。それぞれに費やす時間を決めて、その範囲内で勝負をしなければなりません。

 時には、資料探しの時間が取れないようなタイトなスケジュールの仕事もあります。そんな時は、とにかくこれまで蓄積してきた知識だけでコピーを書かなければなりません。それこそ、インプロビゼーション能力が問われます。5しかない知識を10とか20に見せるテクニックが必要になるのです。それがキャリアというものです。

 この能力が身についてくると、プレゼンテーションなどへの応用が可能となります。それこそ、「あ~言えば、こ~言う」という即答力が発揮できるのです。瞬発力を体得すれば、頼れる人という印象をつくりだすことができます。じっくり濃い仕事も魅力ですが、ちぎっては投げのフットワークのよい仕事にも対応したいものです。

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2007年5月10日 (木)

Daily K-Scale 0554

よみたいときに よめば よゐ

前を向いて歩こう。

 ときどき、こんな人がいます。右手に持ったケータイに熱中しながら歩いていて、前からやってくる人に全然気がつかずぶつかっている人。みなさんも、こんな人を見たことありませんか。

 ケータイというものを意識して、この世の中を観察してみると、面白いことをいっぱい発見することができます。

 先日、JRの電車のボックスタイプの席に座っていたら、隣に座っていたおばあちゃま(らしきファッションの)が、前に座っていた若者をつかまえて「あの、私、この間、ドコモからauにケータイを変えたんやけど、メールの使い方わからへ…」と相談を持ちかけようとしたところ、若者から「ぼくソフトバンクなんで」とこともなげにシャットアウトを食らうのを目撃してしまいました。もしかして、これって新手のナンパか、と疑ってしまうほど不自然な空気感を生み出していました。

 特急待ちをしていて、先発する普通電車を眺めていたら、車両のほとんどの人がケータイを目の前にかざして画面を見ています。そんな同じポーズの人がいっぱい並んでいる光景は、かなりシュールです。まるで青空の下の句会みたいです。

 初老のおじさまが、ニヤニヤ(決してニコニコではない)しながらメールを打っているのもなかなか不気味です。そのニヤニヤ加減からすると、メールの相手は、かわいい一人娘なんてことはなくて、新地のお姉さまかな、というのが顔に描かれているわけです。

 ふたつのケータイをフルに使い分けてメールしている販売員風のお姉ちゃんなんかもいます。両手にケータイを持って、器用にそれぞれのケータイでメールをしているのです。ま、相手に気づかれないようにする工夫が必要なのですね。ご苦労さま、です。

 メールを打つとき、誰もが画面に熱中して、周りが見えなくなっています。それって、やっぱり危険ですよね。ときには他人と接触したりしてしまう。ケータイを使う際は、ぜひ、からだを静止させて「ながら」で行わないように。そして、歩きながらはご遠慮を。しっかり、前を向いて歩いていただきたいものです。

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2007年5月 8日 (火)

Daily K-Scale 0553

よみたいときに よめば よゐ

メッセージを読み取ろう。

 たとえば、いま、サイテーの状況にあるとしましょう。そんなとき、たいていの人は、サイテーの状況に陥っている原因を探り、その原因を取り除いて状況を改善しようとすることでしょう。

 原因があるからこそ結果が生まれる。原因を失くせば結果も生まれない。あるいは、原因を変えれば結果も変わる。そんな理論で、状況を変えようとするのが人間なのですね。

 原因→結果。ぼくは、この図式全体に注目したいと考えています。つまり、状況の原因を探るのではなく、状況の意味を探ろうと思うのです。今、置かれている状況からぼくに発せられているメッセージを読み取ろうということです。

 たとえば、大切にしていたものが不意の事故で壊れてしまったとしましょう。この事件の原因を探ると、もしかしたら、不意といいながら「不注意」があったのかもしれません。そこで自分の生活態度を反省するのも自己成長に役立つのでいいのかもしれません。

 でも、ここで考えてみるのです。なぜ、大切なものは壊れてしまったのだろうか、と。原因ではなく、メッセージを求めるのです。実は、もう必要なかったのかも…。あるいは、新しい大切なものを迎えるための準備…。もしかしたら、次に起こることの前兆かも…。

 ひとつの出来事が発するメッセージを読み取るためには、その周辺で起こったさまざまな出来事との関わりも読み取る必要があります。複合体としての文脈を捉えなければわからないのです。

 こういう分析をすれば、自分のポジションのフローが見えてきます。いま、どの方向に動いているのか、どれくらいの高さにいるのか、などなど、「流れ」の中の自分が見えてくるのです。

 これは、結果と自分の関係を見つめるということなのです。結果を求めても、いま置かれている状況と自分との関係は見えてきません。結果と自分の関係が見えてくると、先に書いたように自分の進むべき方向がはっきりしてくるのです。

 その方向を定めるときにはできるだけポジティブシンキングで。きっと笑顔のポジショニングが出来上がることでしょう。

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2007年5月 6日 (日)

Daily K-Scale 0552

よみたいときに よめば よゐ

どうなっているんだ高野連。

 時代遅れだとは考えていません。方針に変更はありえません。これは、会見での高野連会長の発言です。

 スポーツでの特待生制度は、どこの私立高校でもごく普通にみられることだと思っていました。ところが、野球だけは「禁止」規則が設けられていたのですね。これにはビックリしてしまいました。

 幼い頃(小学生の頃ですが)、同じ市内に住む中学3年生が野球の強い高校(平安高校とか…)に進学するという話を聞くと、たいていの大人たち(ぼくの親を含めてです)が、「あの子は、ほんま親孝行やね。一生懸命野球をして、自分の力で高校へ行くんやものね」と褒めたものでした。

 ま、今や、ほとんどの人が高校へ行く時代です。野球がうまくなければ高校へ行けなかった(別に野球でなくても陸上でもサッカーでもいいのですが)なんて人は稀有でしょう。だから、野球のうまい親孝行者だって希少な存在のはずです。

 甲子園に出られる選手の家庭は、かなりの高所得層だと聞きます。甲子園に出場するような高校は、たいていが私立で学費も高く、それに加えて、野球部へのさまざまな費用が嵩むのです。それに耐えられる収入のある家庭でないと脱落していくそうです。

 実際、長男の同級生はとてもサッカーがうまくてパープルサンガのユースチームの一員になりました。しかし、週に3度の遠地での練習に加え、毎週の遠征などその交通費などだけで、莫大な費用が必要になり、その出費が家計を逼迫して、とうとうチームを去らなければなりませんでした。

 こんな悲劇を救う一助となっていたのが「特待生制度」だったと思うのです。優秀な才能が伸びる可能性を摘まれないようにするための制度だった。それはそれで、十分に機能していたはずです。

 特待生制度は、アマチュア精神にはマッチしていないかもしれませんが、野球少年の夢を叶えていると思うのです。問題は、その裏で、夢を餌にして儲けようとしている汚れた大人の銭勘定が見え隠れしていることなのです。高野連にはそこを見てほしいものです。

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2007年5月 5日 (土)

Daily K-Scale 0551

よみたいときに よめば よゐ

自然とふれあう。

 今年はじめての墓参りをしました。うちのお墓は、京都の山間部、須知という数年前に鳥インフルエンザ発生で話題となった町にあります。近くに3世紀くらいの古墳があったり、なんとも時代の感覚が麻痺するようなところに墓所があります。こんな田舎でもバスは通っていて、バス停なんかもあるのですが、墓所の最寄のバス停はぼくの姓と同じ。このあたりでも田舎感覚が理解してもらえると思います。

 墓所があるのは小高い丘というか里山の中腹。山道をずんずんと登っていかなければなりません。といっても3分も登れば到着するのですが。中腹の墓所入口では、不動明王像と左右に3体の地蔵菩薩像の合計7像がぼくらを迎えてくれています。一番奥には、直系のお墓が並んでいます。そこには、この誰々は郡是の副社長にして満州に渡ってなになにした…なんてことが碑に刻まれたりしています。うちは、やや傍系ですので上から数えて3番目の位置(あと下に2つほどの墓所があります)にあります。叔父が35年ほど前(祖母が亡くなった頃)に建てた墓は、いつも静かに佇んでます。この石の塊についた水垢や土汚れをスポンジでゴシゴシ洗って綺麗にするのです。秋から来ていなかったので約半年ぶりでした。ただ、ぼくらが来なくても叔父たちも世話をしてくれているので、墓は綺麗でした。

 帰り道、楕円模様のヘビがとぐろを巻いているのを見かけました。それは「マムシ」でした。ヘビを見るのがとても久しぶりな上に、マムシなんてものを見るのは、ほぼ30年ぶりくらいのもので、思わず興奮してしまいました(まるで、ツチノコを発見したくらいのハシャギようだったかもしれません)。そのほか、わらびやふきなんかもふんだんに生えていました。あぁ、やっぱり里山はいいな。そんな想いで頭がいっぱいになりました。

 自然に包まれていると、なぜ、こんなにも心落ち着くのでしょう。やはり、人間も自然の一部だからなのでしょうか。ただ、愛犬はダニがいっぱいついて難儀しました。ま、これも自然なのでしょうね。

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2007年5月 4日 (金)

Daily K-Scale 0550

よみたいときに よめば よゐ

ちょっとした言葉づかい。

 先日、近所の鉄板焼き屋さんに寄ったとき、店のお兄ちゃんのパンツが破れていたのを見つけてしまいました。グルグル渦巻きのパターンがとってもかわいくて、他人の服ながらぼくも大ファンになってしまっていたのです。だから、破れているのが残念でなりませんでした。

 ぼくのギャラリーの相棒は、デザイナー。そこで、「直してあげるから、いつでも持っておいで」と伝えました。

 次の日、彼はわざわざギャラリーまでパンツを持ってきました。ぼくらは、そのとき、「あ、ほんまに持ってきたなぁ」と言ってしまいました。なぜ、ぼくらは「ほんまに…」と言ってしまったんだろう?それがよくわからないのです。

 気持ちは、「ちゃんと持ってきてくれたんや」という喜びの思いだったのに、口をついて出てきたのは「ほんまに…」。こんな失礼な言葉ってなかったな、と後悔&反省なのです。

 「ほんまに…」という言葉を使ったら、「あれは冗談やったのにほんまに持ってきたんかいな」というニュアンスになってしまうのではないでしょうか。そう聞かれてもおかしくないな、と思うのです。言葉で飯を食っている人間が、こんな浅はかな言葉づかいをしてていいのだろうか、とほんとうに恥じております。ごめんなさい。

 言葉は、本来、自分のことを表現する道具だと思い勝ちです。しかし、よく考えてみたら、表現する道具ではなく、自分と相手をつなぐ道具なのではないでしょうか。だからこそ、お互いの距離感をしっかり捉えて、過不足なく関係づけることが大切なのです。

 それなのに、人はついつい自分の立ち位置だけで言葉を発して、相手の心を平気で傷つけることがあります。相手があってこその言葉なのです。ひとりで語っていたら、それは単なる「独り言」にしか過ぎません。これでは、関係は生まれないのです。

 どうせなら、相手に「いい気持ち」が伝わる言葉を使いたいものです。やさしい気持ちでつながるような言葉づかいを心がけたいものです。そこからピースフルなコミュニケーションがはじまります。

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Daily K-Scale 0549

よみたいときに よめば よゐ

大国はもう少し考えようよ。

 WWF(世界自然保護基金)によると、海洋生物のすみかとなっている南太平洋やカリブ海のさんご礁では海温上昇により共生藻が脱落する「白化現象」が加速しているそうです。また、野生パンダが棲む長江(揚子江)上流域は水源のチベット高原の氷河の後退で水不足の危機に直面しているといいます。

 北極域の温暖化は太平洋のサケの漁獲減少を招き、海面上昇はカリブ海でウミガメの一種であるタイマイの産卵場所となる砂浜を奪う恐れがあるといわれています。また、少なくとも4万種類の植物、427種類の哺乳類が棲む南米・アマゾン川流域では気温上昇と乾燥化で、熱帯雨林の30~60%が乾燥した草原に変わる恐れがあると指摘されているそうなのです。

 わずか数度の気温上昇でも、温暖化の生態系への影響は大きく、多くの生命の生息が脅かされかねません。ヒマラヤやアマゾンなど10の生態系を例にあげ、WWFは温暖化に対応した保護対策の強化を訴えています。

 動物たちの棲みにくい環境って、生物の一員である人間にとっても住みにくい環境に違いないだろうな…と単純に思うのです。京都議定書を拒否するアメリカや今や先進工業国となったのにいまだに途上国扱いで議定書対象になっていない中国など、環境悪化先進国にこそ、この感覚を自覚していただきたいものですよね。

 また、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第二作業部会では、温暖化問題が国の安全保障にかかわる国際政治上の重要課題で、科学的な報告書の随所に政治的訂正が入ったそうです。例えば、「将来の水不足人口は最大で32億人増加、海面上昇による洪水のリスク人口も最大1500万人増える恐れがある」という草案は世界の200人以上の科学者が最新の論文をまとめたものでしたが、アメリカや中国の反発で抽象的なものに変更されていまったといいます。科学者の中にはフラストレーションのために途中退席する人も多かったとか。まったく、地球の脅威を他人事にしか考えられない大国がある限り、ぼくらは崖っぷちを歩き続けることになるのですね。

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Daily K-Scale 0548

よみたいときに よめば よゐ

弱い者をいじめるなかれ。

 規制緩和という錦の御旗の下で増幅されたのは、格差だけだったのでしょうか。最近、あちらこちらで格差の話が出ていますね。中でも都心と地方の格差は目も当てられない状況にあるようです。

 総務省の調査によると市町村別の地方債の残高の格差が500倍を超えていることがわかったそうです。特に、離島や山間部など「条件不利地域」で残高が多額になっているといいます。

 この調査は、地方自治体の借金である地方債の住民一人当たりの2005年度末時点での残高をリサーチしたもので、最多の約1100万円に対し最少は約2万円となっていたそうです。その格差たるや500倍超。ちなみに、一人当たりの残高は、全国1844の市区町村と47都道府県が発行した地方債残高(国が返済を全額負担する一部の地方債分を除く)を住民基本台帳人口で割って算出しているそうです。

 残高が最も多かったのは、鹿児島県十島村の1152万4712円でした。同村は南北約160キロに大小12の島々が点在する離島で、人口は600人余り。村の地方債残高は73億円で、調達した資金のほとんどは港湾整備に使われているそうです。

 一方、最も少なかったのは佐賀県玄海町の2万2538円。人口は約6800人ですが、地方債残高はわずか1億5000万円余り。というのもこの町は、九州電力の原子力発電所の固定資産税収入などが財政を支えているので、こんなにも安定しているのです。ま、これは例外中の例外と考えてもいいかと思われます。

 条件不利地域の自治体は、もともと税収が乏しい上、債務の返済が財政を圧迫し、行政サービスの低下も懸念されています。高知県の東洋町町長が、財政難から核燃料高度処理工場誘致候補地に手を上げたのもわからないでもないな、と思えます。自治体が自立を求めていくには財政の確保が必要なのですから。

 地方の自立という大義名分の下で進められた規制緩和。その結果は、橋本高知県知事が声を荒げて言った「地方を札束で頬をひっぱたくようなやり方で無理矢理動かすな」に象徴されています。弱いものをさらに叩きのめすような政治はしてほしくないものです。

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2007年5月 3日 (木)

Daily K-Scale 0547

よみたいときに よめば よゐ

ストレスバンザイ?

 現代社会の敵はストレス、のようなポジショニングがありますが。確かに、今を生き抜いていくには、さまざまな対人関係の軋轢や会社や学校でのいじめ&ハラスメントなど、心の病を引き起こすようなストレスが蔓延しています。このようなストレスは心身に悪影響を与えて、心身症と呼ばれる病態を招いたりもします。

 当然、誰しもが、こんなストレスは避けたいと願っていて、さまざまな研究機関が「どんな出来事がストレス因子となるのか」を研究し、多くの仮説が提出され検討されました。

 例えば、今や多くの人々が知ることとなったPTSD(心的外傷後ストレス障害)などは、危うく死にそうな目に遭ったほとんどの人に生じると仮定されましたが、現実には心的トラウマ体験に遭遇しても発症しない人が圧倒的に多いことがわかっています。逆にささいなことで発症する人もいて、出来事がストレス的なものかどうかを事前に推測することは困難だと考えられています。

 現在では、ストレスかどうかを判断するのは、とても主観的なことだと考えられるようになってきました。Aさんにとってはストレス的出来事であってもBさんにとってはそれほどでもない、ということが起こりえるということなのです。

 この相対的判断基準というのが曲者で、セクハラの基準みたいにAさんとBさんが同じことをしても、Aさんはセクハラで、Bさんならコミュニケーションの一環なんてことがあるように、ストレスもとても流動的なポジションの上に置かれているのです。つまり、ストレスの原因に対して対応しようとすると、その均衡点を見つけるのが難しいのです。緩やか過ぎれば防止につながらず、厳しすぎれば人間関係に歪が生じるのです。

 ストレスの効果にしても同様で、ときには心身症の原因になることもありますが、ときには人間を成熟に向かわせることもあるのです。こうなると、要は本人の認識の問題か!とも思えてきます。ストレスを楽しめるぐらいの器の大きな人間になりたいものですが。でも、タイヘンそうですよね。できれば、避けたいものですね。

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Daily K-Scale 0546

よみたいときに よめば よゐ

伝えるための、方策。

 ブッダの初期の言葉が伝えられているという「阿含経」は、ブッダと弟子たちとの問答集の形式をとっています。弟子たちが、ブッダに対して、その教えについてわからないことをあれこれ聞いて、それに答えているのですが、回答の仕方に4つの方式がとられています。それらを紹介してまいりましょう。

 まず、ひとつが一向記(いっこうき)・決定答(けつじょうとう)と呼ばれる形式。これは、問いをそのまま直ちに肯定するものです。続いて二つ目が、分別記(ぶんべつき)・解義答(げぎとう)というもの。問いを整理し、細かく分別して、そのひとつひとつに丁寧に答えていくのです。三つ目が、反問記(はんもんき)。これは、問うている相手に反問して、その意図や内容を問者にも反省させ、かつ熟考させ、それらを確認しつつ答えるというもの。そして四つ目は、捨置記(しゃちき)・置答(ちとう)と呼ばれるもので、答える必要のない問いに対しては、あくまでも沈黙を貫き、けっして答えないというやり方です。

 これを見て、ぼくは、またもや「あ!」と感じてしまったのです。不惑の年代を迎えると、いろんな人から質問を戴く機会も少なくありません。でも、問われたときに、ブッダのように相手を察してさまざまな答え方をするなんてこと、意識していませんでした。とにかく「答える」ことに精一杯で、「そう答えることでどんなことが相手に伝わるか」なんてことを考える余裕はなかったのです。

 ましてや、四つ目の「捨置記」なんて手法は、なかなかできないことです。答えないことで、相手になんらかのことを伝えるなんて。まるで「無手勝流」のようで、高等手段だな、とため息が出ますね。

 相手に合わせて、言葉を選ぶ。それは大切なことだと思うのです。日本語のわからない外国人に、一生懸命に日本語で立派なことを言ったとしても伝わりませんから。同じように、問いに対する答えも、肯定したほうがわかる人もいれば、反問したほうが理解が深まる人もいます。丁寧に噛み砕いて説明したほうがいい人もいますね。とにかく目的は理解してもらうこと。そのための手段は選ばず、です。

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