2007年5月30日 (水)

Daily K-Scale 0574

よみたいときに よめば よゐ

便利にかわりに失ったもの。

 先日は、トトのビッグがシステムダウンによって一時購入できなくなり、パニック寸前になりましたよね。それ以前にも、大量のアクセスが集中してシステムがダウンしたなんてニュースは日常茶飯事で起こっていて、ちょっとやそっとのことでは、みんな驚かなくなってきているのではないでしょうか。

 先日の日曜日に全日空にシステム障害が発生して予約や発券、搭乗手続きがしにくくなり、羽田発の国内線130便が欠航、306便が1時間以上の遅れを出し、約6万9千人に影響が出ました。合計436便に影響が出たということで、これは全日空の国内線818便の半数以上にあたります。

 システム障害の原因は、ホストと各空港にある端末とを結ぶ「ホスト用接続系」と呼ばれるシステムの更新にある可能性が示唆されていて、更新によって東京都大田区にある国内旅行係のホストコンピューターに古いデータが滞留し、処理速度を低下させたためではないかと考えられています。

 そこで全日空では、データを削除し、更新したシステム6台のうち3台を元に戻して午後3時半に復旧させることができました。が、このシステム障害で、全日空のシステムを利用しているスカイネットアジア航空やアイベックスエアラインズ、エア・ドゥのダイヤにも影響が出たといいます。

 かつて、すべてが手作業の頃は、このような大規模の障害は発生しなかったでしょう。その分、発券や搭乗などの手続きには時間がかかったことでしょうが、欠航するなどの最悪の事態はなかったと思われます。

 ぼく自身の仕事でも同じようなことがあって、昔のように原稿用紙に書いておくと家事で焼けるとか、誰かに切り刻まれることがない限り、原稿はほぼ永久に存続します。それが今やPCの時代。一瞬にしてデータが消えることも少なくありません。スピードアップや機能的な便利さが向上したかわりに、ぼくたちは確実性や安全性といった大切なことを犠牲にしてきたのかもしれませんね。

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2007年5月27日 (日)

Daily K-Scale 0573

よみたいときに よめば よゐ

何が大切なのかを見据えること。

 一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ。

 チャップリンは、『チャップリンの殺人狂』で、こんなセリフを語りました。まさに「戦争」とは何かを示唆した言葉だと思います。今や、ボタンを押すだけで、何百人、何千人、いわんや何万人もの人たちを一瞬にして殺戮することのできるテクノロジーが開発されています。もし、ボタンを押した側が勝利したとするならば、ボタンを押した者、押すように命令を下した者は「英雄」となるでしょう。決して犯罪者とは言われません。一方、ボタンを押した側が敗北したら、「大量殺戮者」「悪魔」のレッテルが貼られることでしょう。昔から「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉があるように、ホロコーストは犯罪で、原爆投下は作戦として認知されてしまうのです。どちらも「人類の大罪」に変わりないのに。

 憲法9条が危機に瀕しています。いや、「憲法9条」というものがどうだこうだ、ということではないのです。「戦争放棄」が危機に瀕しているのではないだろうか、と言いたいのです。みんな「憲法9条」という名称で呼びますが、ぼくは「戦争放棄」と言いたいです。「憲法9条」と呼んでしまうから、アメリカによって強制されたとか、の意見が出て、本当に大切にしなければならない「戦争放棄」の意味が薄れてしまうのではないでしょうか。問題にしなければならないのは、守らなければならないのは「戦争放棄」のはずなのですから。名称に惑わされて論点を見間違ってはいけません。

 「戦争放棄」と言われて、異論を唱える人はほとんどいないでしょう。誰がつくった憲法でもいいかもしれない。新しい憲法をつくってもいいし、このままの憲法を守り続けてもいいでしょう。大切なことは、「戦争を憎み、それを放棄し続けることを宣言しておくこと」だと思うのです。

 百万人を殺して生まれる英雄が、のうのうとのさばる世界なんてイヤです。ましてや、その英雄が戦争によって、なんらかの利権を得るなんて信じられません。でも、今、世界が、そんな方向に向かっているような気がして…とても心配です。大切なものは…。

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Daily K-Scale 0572

よみたいときに よめば よゐ

47万人が途方に暮れる。

 もしも、首都直下型の大地震が起きたとすると、東京都区部で約
 47万人もの人々が避難所に収容されずに路頭に迷うことになる。

 こんなショッキングな予測が、政府の中央防災会議の専門調査会によってまとめられました。これは、東京をはじめ埼玉、千葉、神奈川、茨城県南部の計247市区町村を対象に、東京湾北部を震源とするマグニチュード7.3、震度6強の地震が冬季の午後6時に発生したとの想定で実施したアンケートの結果です。

 詳細は、こうです。東京都区部の避難者は239万人で、避難所に指定されている公立小中学校など公共施設の収容人数は192万人しかないことが分りました。さらに、約3割の避難所が十分な耐震強度を備えていないかもしれず、地震で損壊する可能性も高く、避難所に収容しきれない人数はさらに増える恐れがあるといいます。

 さらに恐ろしいことには、自宅が遠距離にあるため帰宅が困難となる1都4県の約650万人に対して、ほとんどの自治体が2~3日間は水や食料の提供が難しくなると回答しているそうです。

 総務省消防庁では、東南海・南海地震の同時発生に備え、都道府県境を越えて消火や救助活動を支援する緊急消防援助隊の活動計画をまとめています。それによると、大きな被害が想定される静岡、愛知、三重、和歌山、徳島、高知の6県を派遣対象とし、最大応援人数は延べ2万3250人を見込んでいるそうです。

 このように、東日本では地震に対する意識も高く、さまざまな、もしもの場合への対策が講じられています。最近、このような記事が多いのでついつい「おいおい、間もなくに迫っているのか…」なんて深読みしてしまいますが、いかがなものなのでしょう。政府が発表していないだけで、かなり詳細なトップシークレット情報があるような気がします。これって勘ぐり過ぎでしょうか。

 東京直下や東南海・南海地震も恐ろしいですが、下馬評では、京都が危ない…なんてことも言われています。購読している「京都新聞」には、週に一度「地震情報」なるものが掲載されていますし、ガセではないような気も…。さて、どうなることやら。

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Daily K-Scale 0571

よみたいときに よめば よゐ

力と法の国。

 先日、バージニア工科大学での銃乱射事件があったばかりのアメリカでのお話です。

 イリノイ州シカゴに住むコラムニストのハワード・ルドウィグ氏の息子・ハワード・デービッド・ルドウィグちゃん(通称ババ)は生後10カ月の男児。ババちゃんのおじいちゃんは、将来、銃の手ほどきをしようと考え、初孫へのお祝いに散弾銃を購入したそうです。

 そこで、父であるハワード氏は、ババちゃんの銃所持を許可する証明書の発行をイリノイ州警察に申請したそうです。彼は、証明書が入手できるかどうか半信半疑でしたが、なんと州法には年齢制限がなく、5ドル(約600円)の申請料を支払うだけで入手できたそうなのです。許可証には、歯も生えていないババちゃんの写真と約70センチの身長、約9キロの体重が記載されているそうです。

 まず、初孫へのプレゼントに散弾銃を選ぶというセンスがよくわかりませんね。殺人の道具を、人生をスタートしたばかりの希望に満ちた子どもに与えなければならないお国柄。それを考えるとなんとも淋しい限りです。銃を介在させなければ人間関係が維持できないのですから、頭からハートツーハートの交流を諦めているとしか考えられないということですものね。

 そして、書類だけですべての処理が進んでいくという恐ろしさ。法律がそうなっているから、といって、なぜ10歳の男児に銃保持の許可が下りるのでしょう。法律の不備が一番の問題ですが、その欠陥をフォローするのが現場でしょう。きっとお役所仕事よろしく、立法が悪いだの、司法がドン臭いだの、行政がなっとらんだのの、責任のなすりつけ合いがあるのでしょうね。

 なんとも不思議なアメリカです。イギリスのピューリタンたちが新しい「約束の地」を求めてたどり着いた新天地。この人工の国をまとめ上げるには「力」と「掟」しかなかったのでしょう。それが「銃」と「法律」の国をつくり上げた。「暴力」と「裁判」の国をつくったのです。「情」で生きてきた日本人には、なんとも無味乾燥なシステムではないでしょうか。

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Daily K-Scale 0570

よみたいときに よめば よゐ

倍の値段なら止められますか。

 比較的、何の苦労もせずに「禁煙」というか「断煙」できたので書くわけではありませんが、煙草は止めたほうがいい。なぜか?そりゃ、空気のおいしさが実感できるという幸福感は「喫煙者」にはなかなか味わえませんから。「今日も元気だ。空気がうまい」ですよ。無味無臭の空気がおいしいなんて、いいでしょ。

 で、近ごろこんな調査結果が発表されました。「タバコの価格が2倍から3倍になれば、ニコチン依存度が比較的低い人々の多くが禁煙を考える」、一方で「ニコチン依存度の高いヘビースモーカーは、3倍近い800円になっても3人に1人は禁煙を考えない“頑固者”である」という結果が出たそうです。

 これは20歳以上の男女22人に対してインターネットを通じて喫煙の有無やニコチン依存度、禁煙を考えるきっかけとなる事項などについて調査し、行動解析したものです。調査は、京大グループが実施。行動経済学の手法で分析されています。

 高度のニコチン依存とは「朝起きて5分以内に喫煙する」などの特徴を持ち、「タバコの価格が現在の2倍の600円程度」になっても禁煙を考えるのは30.2%に過ぎず、「喫煙による死亡リスク」や「家族の肺ガンリスク」などは禁煙の判断材料にさえ上げられていませんでした。

 このような“頑固者”を除いて、ほとんどの人が「タバコの値上げ」によって、禁煙をはじめそうだ、ということを、この調査は証拠づけしてくれています。真に国民のことを考えるなら、消費税率の引き上げよりもタバコの値上げを優先すべきでしょう。喫煙者が減って税収は落ちるかもしれませんが、健康保険料の削減や生命保険支払額のダウンも見込める可能性があります。男性の長寿が世界第2位に転落したのを挽回することができるかもしれません。

 ぼくも、かつては1日80本ほどのセブンスター・スタンダードを愛飲していた人間です。喫煙者の気持ちもよくわかります。でも、ここは、世間の流れに身を任せ、禁煙への旅をはじめてみませんか。きっと、深呼吸したときの心地よさを体験したら、維持できますよ。

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Daily K-Scale 0569

よみたいときに よめば よゐ

スシは今やファーストフード?

 という記事を見つけました。アメリカで、かつてはエキゾチックな高級料理だったスシが、今ではスーパーやコンビニで気軽に買える当たり前のメニューになったそうです。さらには、外食だけでなく、家庭でも手軽に作ろうという人も増え、親子スシ教室が人気になっているのだとか。

 スシ教室の講師は言います。「スシは今の世代にとってはピザのようなもの。30歳以下の人たちにとってファーストフードなんだ」。

 スシ…特ににぎりスシに関しては、その発祥は江戸時代の屋台にあると言われています。手でつまんで食べられる手軽さ、気軽さが、気の短い江戸っ子にウケて大人気になったとか。いわば、スシは、お江戸のファーストフードとして生まれたのです。だから、昔ながらの「熟れ鮨」や「押し寿司」を作っている職人さんたちは「にぎりスシ」なんてファーストフードやで!とおっしゃいます。アメリカの人たちは、言わずもがなスシの本質を捉えていたのですね。

 全米レストラン協会が2000年に行った調査によるとスシを知っている人は全米の79%、一度は食べたことがある人は32%に上っているそうです。確実に普及、浸透し、普通の食事になってきているのです。その理由は、低脂肪・低カロリーという和食のイメージがアメリカ人の健康志向にマッチしているためと考えられています。

 アメリカで今、人気のスシは「にぎり」ではなく「巻き」だそうです。しかも、内側から「具」「海苔」「スシ飯」の順に巻いていく「インサイドアウト(裏巻き)」が通例だとか。スシ飯には、ごまやとびっこをまぶすことが多く、具は火を通した魚介類や野菜が使われます。鰻と胡瓜を芯にしてアボガドの薄切りで巻いた「ドラゴンロール」やマグロ・ハマチ・サケ・アボガドなどを七色にあしらった「レインボーロール」などのニューフェースも人気だとか。

 日本では、くるくる回るのが「スシ」と思われつつあります。アメリカではタコヤキにイチゴを入れるかのようなスシが人気を博し、伝統の味もどんどん様変わりをしています。これも時代の波というものなのでしょうか。でも、源流は忘れないでいたいものですね。

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Daily K-Scale 0568

よみたいときに よめば よゐ

有機フッ素化合物。

 パーフルオロオクタン酸(PFOA)という有機フッ素化合物をご存知ですか。調理器具や繊維製品などに焦げや汚れがつかないようにする加工や撥水剤などフッ素関連製品の製造過程から放出されると考えられている物質です。最近では、動物実験によって発ガンとの関連などの毒性が指摘されています。

 この危険な物質による水質汚染が大阪市とその周辺で広がっているという調査結果が京大の小泉昭夫教授(環境衛生学)らのグループから発表されました。その報告によると汚染は高濃度で、住民の血中濃度も高くなっているといいます。

 2003年に行われた調査によって、通常は水1リットル中にせいぜい数ナノグラムくらいだという有機フッ素の含有量が、大阪市の淀川で140ナノグラム、淀川の支流である安威川にある下水処理場周辺では6万7千~8万7千ナノグラムという世界最悪レベルの汚染が確認されています。また、全国の10地域の人たち(サンプル合計200人)の血中濃度を調べた結果、京都、大阪、西宮各市の濃度が目だって高いこともわかりました。

 大阪市の水道水中のPFOA濃度は仙台市など他地域の300倍にも達するそうで、人体汚染は飲料水が一因ではないか、とみられています。さらに、安威川周辺の2つの井戸の水を調査したところ、1リットル中にそれぞれ8300ナノグラムと5万7千ナノグラムのPFOAが検出され、地下水汚染が広がっている可能性もあることが分かってきました。

 PFOAの毒性は、まだまだよく分かっていないことが多いのですが、人体に蓄積されやすく、血中濃度が高くなる傾向があるといいます。最近では、世界各国で懸念が高まり、新たな汚染物質として注目されています。そんな中、米国では500ナノグラムを超えた時点で企業が飲料水の浄化などを行うことになっているそうです。

 次々に得体の知れない有害物質が登場しますが、ある程度、汚染が進まないと表面に出てこない…という問題があります。表面化した頃には手遅れ…そんな深刻な事態だけは避けたいものですね。

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2007年5月25日 (金)

Daily K-Scale 0567

よみたいときに よめば よゐ

夫婦喧嘩じゃん!

 よくよく考えてみよう。愛知県長久手町の立てこもり事件ですが、夫婦喧嘩じゃなかったのでしょうか。過激な夫婦喧嘩に巻き込まれて、犠牲者まで出てしまった、というのが、この事件の結論なのではないでしょうか。

 ぼくの幼い頃に住んでいたところには、しょっちゅう夫婦喧嘩している家があって、よくぼくの親が仲裁に行ったりしていたものですが、不謹慎かもしれませんが、今回の事件を見ていて、その頃の記憶が蘇ってきてしまいました。

 「そんなカッカしてても話にならへんやろ」「まぁ、落ち着いてもう一回よぉ考えてみいや」とかの説得の言葉が続きます。手にはフライパンとかが握られているときもありました。考えてみれば、これって充分に「凶器」ですよね。

 長久手の事件だって、夫婦の復縁の話をしているときに犯人の旦那がキレて、持っていた拳銃をぶっ放した、というのがきっかけですよね。これって第三者が介入できない「夫婦喧嘩」ですよね。拳銃が使われていなかったら、いや凶器が使われていなかったとしたら、「夫婦喧嘩は犬も食わん」と誰も相手をしなかったでしょう。拳銃が使われたものの、本質はやはり「夫婦喧嘩」だったはずです。

 そう考えたら、犠牲となった対テロ特殊部隊SATの若い隊員の方がほんとうに不憫でなりません。彼らは、「正義」を信じて活動しているはずです。社会に対して不義を働く者、残虐な者たちを殲滅するために彼らは存在しているはずです。そんな彼が、いわゆる「痴話喧嘩」の犠牲になってしまったのです。「犬も食わない」ようなもののいけにえになるなんて…。

 家族を人質に立てこもる、というのもかなり特殊だと思います。普通は、父親は家族を守るものです。それが、家族の敵に回る。そんな「壊れた家族」のために、若い命が失われる。なにか納得できない「しこり」が心に残ります。

 家族の喧嘩に警察が介入する。しかも、特殊部隊まで巻き込んで。いつから日本は、こんなにもややこしい国になったのでしょうか?

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2007年5月24日 (木)

Daily K-Scale 0566

よみたいときに よめば よゐ

鉢植えの白い手。

 「殺すのは誰でもよかった」「そばにいたので母親を殺した」と母親を殺して生首を持ち歩いていた会津の高校3年生の少年は供述しているそうですが、ほんとうにそうなのでしょうか。ぼくは、母親に対して異常な心理が働いていたのではないかな、と想像しています。たとえば、誰でもよかたのなら、わざわざ死体を刻む必要はないし、生首をカバンに詰め込んで持ち歩くなんてことはありえない話でしょう。捨て場所を求めて持ち歩いていたわけでもなさそうです。ぼくは、これを「愛着」じゃないかと思っています。究極の「所有」は、「死」による「自己同一化」ではないだろうか。彼は「母」を殺すことで、永遠の自分だけの所有物にしたのでは、と。かなり倒錯した愛情表現ですが、過去にもこういった例は見ることができますね。

 偏執的な愛情表現は、右手の処理にも見て取れます。少年は、母親の右手を切断し、白いペンキだかなんだかを塗って、植木鉢に挿していたようです。犯罪心理学の先生方は、「人をオブジェのようなモノとして捉えた冷酷極まりない心理が働いている」と分析されていましたが、ぼくは違うと思います。

 少年は、ゆがんだ心理ながら「母親の再生」を願っていたのではないかと思うのです。右手は、深層心理的にいっても神聖な存在です。穢れた左手に対して右手は清浄なるものです。それはインドでも実践されていますね。その聖なる右手をこれまた神聖さを象徴する白い色で塗る。これは、まさに「儀式」なのですが、その儀式の舞台が「植木鉢」というところがミソです。花瓶ではなく植木鉢なのです。花瓶は切花、植木鉢には生きた植物が入れられています。イメージとしては、聖なる母親の右手を植木鉢に植えることで、やがて根が出て、成長し、いつしか母親が再生される、復活する…そんな観念があったのではないでしょうか。

 エディプスコンプレックスという父子の葛藤はよく議論されますが、最近は、ゆがんだ母子関係が事件を起しているように感じます。もう一度、母と子の関係を見つめなおす時が来ているのでしょうか。

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2007年5月22日 (火)

Daily K-Scale 0565

よみたいときに よめば よゐ

モザイク国家はどうなるのか。

 いわゆるWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)なる言葉もあるくらいで、これまでアメリカは建国以来、ずっと白人社会でした。その一方で、メキシコや中米からの移民や欧州、アジアからのイミグラントを寛容に受け入れるなどした結果、人種の坩堝と譬えられるくらい、他民族の国家になっています。それでもやはりWASPが、かなりの利権を握っている(詳しくみるといろいろありますが、そのネタはいつか別の機会に)のに違いはありません。やはり白人の世界なのです。それを支えていたのは、白人がマジョリティーであるということ。

 その事態が変わろうとしています。アメリカでは近年、中南米諸国からのヒスパニック系やアジア系を中心に移民が急増して、早ければ今世紀半ばにも、彼ら移民がマイノリティーからマジョリティーになると推計されているのです。これは、アメリカ政府統計で判明したことなのですが、非白人人口が1億人を突破したというのです。アメリカの総人口が3億人と言いますから、非白人の比率は、3人に1人の割合となるのです。 

 昨年9800万人だった非白人人口でしたが、今や1億70万人に増加。そのうちヒスパニック系人口は4430万人、黒人は4020万人、アジア系1490万人と続きます。特にヒスパニック系は2005年から2006年の1年間で3.4%と、急速に伸びています。

 これまで、白人がマジョリティーだった社会では、移民系の大統領なんて考えようもありませんでした。しかし、これからの流れから考えると、黒人大統領も夢ではなくなってきているのです。黒人である民主党のオバマ上院議員やヒスパニック系のリチャードソン・ニューメキシコ州知事が来年秋の大統領選に出馬を表明しているのもこのような人口動態が影響しているといいます。

 いわゆる「アメリカン・ドリーム」と言いますが、人口構成の変化は、ますます「ドリーム」のスケールを大きくしてくれそうですね。少数派が多数派になるまでは、とりあえず「がんばれ!マイノリティー」とエールを贈りたいものです。

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2007年5月21日 (月)

Daily K-Scale 0564

よみたいときに よめば よゐ

新・狩猟民族。

 狩猟民族というのは、道具を使って、そこに存在するものを採取して生計を立てている民たちのことをいいます。つまりは、既存のものを取り込まないと生きていくことはできません。

 一方で、農耕民族は、種をまき、出てきた芽を育て、花を咲かせ、実をつけさせて、糧を得ます。ときにそれは実であり葉であり根であり…。とにかく農耕民は、既存のものではなく「育てる」という概念を携えて生計を立てている民たちなのです。

 上記のような視点で、いまのぼくたちを捉えてみると、きっと狩猟民に区分されるのではないかと思うのですがいかがでしょう。ぼくたちは、黒曜石の鏃などの道具のかわりに「貨幣」という道具を使って糧を採集していると考えることはできないでしょうか。その道具の能力は貨幣価値の高さに比例しています。早い話が、たくさんお金を持っているとたくさんのものが採集できるということです。

 この新・狩猟民は大きな問題点を抱えています。「育てる」という観念を持ち合わせていないのです。今や、お金さえ払えば、ありとあらゆるものが手に入ります。百年かけて大きくなってきた企業でさえ、それ相応の価格で売買されてしまうのです。新・狩猟民たちは、まるで趣味の品々を集めるかのごとく企業買収を行い、複合技で企業価値を見かけ上高めて、また別の新・狩猟民に高値で売り渡します。何度もいいますが、そこには「育てる」という発想は、皆無です。既製品の売買というスタンスしかないのです。

 この民族は、はじめ欧米に生まれましたが、今や続々と日本にも誕生しています。かつての狩猟民たちは、その施しを与えてくれる自然というものを畏怖し、そして感謝していたものでした。だからこそ、さまざまな祭が生まれ、禁忌ができ、ルールがつくられたのです。でも、今や、そんな畏怖も感謝もありません。人類は、貨幣価値というバベルの塔をつくり続けているのです。まったくおこがましい行為です。シッペ返しは、そのうち必ずやって来ることでしょう。できれば、「育てる」ことを知っている農耕民族になりたいものです。そんな人が増えたら、もっと世界は平和になるかも…。

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Daily K-Scale 0563

よみたいときに よめば よゐ

瀬戸内海に熱帯魚?

 へぇ、須磨海岸でトロピカルフィッシュが見られるんだ、と喜んでいる場合ではないのです。事態は深刻なのです。

 茨城県神栖市にある水産総合研究センター水産工学研究所の環境分析研究室の桑原久実室長によると、異常なペースで日本近海の水面温度が上昇していて、このまま上昇が続くと漁業への深刻な影響が出る可能性が高いのだそうです。

 日本の近海は、年間の最高水温29度を境にして温帯域と亜熱帯域に分かれているそうで、現在、その境は鹿児島県南部です。しかし、今後、水温が1度上がれば、この境が一気に北上して、四国や瀬戸内海までが亜熱帯域に含まれてしまうことになるのだそうです。

 ヒラメやウニ、アワビなど寿司でも人気高い魚介類は、環境への対応が遅く、水温上昇が深刻な影響を与えるかもしれないと懸念されています。また、アジやタイなども、これまで以上に北のほうに移動して、これまでの漁場では水温の低い時期にしか漁ができなくなるような恐れがあるといいます。ただ、深海底の魚介類への影響は少ないので、カニなどは安泰だといいます。いやいや、カニが安泰だから、どうなんだ。ヒラメやアワビの問題ではなく、これは地球全体に関わる問題なのです。

 漁業の問題だけで語るなら、瀬戸内海が亜熱帯域になったとしても魚介類は亜熱帯産のものが増えるので、魚が減るわけではありません。ハタなどの亜熱帯の魚が豊富に獲れる可能性もあり、期待できる面もるそうです。

 確かに、漁業的にみればそう不安視することもないようなのですが、環境学というか生物環境として、このような現象を考えると、かなり危険な状況になっているように感じるのです。さらに、日本近海の海面水温の上昇が世界水準の3倍のペースだと聞くと、なんだかおかしいぞ、と思わずにはいられません。原因は、ユーラシア大陸の中・高緯度地域での地上気温上昇の影響も一役かっているという説もあるそうです。いずれにしても、人為的なものだったら、危険この上ないと思います。注意深く見つめていきたいものです。

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Daily K-Scale 0562

よみたいときに よめば よゐ

夢や希望で満たそうよ。

 過労自殺が増えているそうです。この過労自殺というのは、働き過ぎや職場でのストレスから、うつ病などの精神障害を発症し自殺に至ることをいうそうです。最高裁が2000年に長時間労働でうつ病を発症し自殺した大手広告代理店社員の訴訟で示した「企業は労働者の心身の健康を損なわないよう注意する義務がある」という指摘以来、過労自殺という概念が広まりました。

 過大な仕事量を与えられ、過酷なノルマ達成を求められ、長時間労働や成果主義が徹底され、職場や同僚たちなどのサポートもなく、うつ病になり、過労自殺につながるケースが多い、と厚生労働省は分析しています。確かに、経済のグローバル化によって、人件費の高い日本国内での活動は、長時間化&コストの一定化、つまりサービス残業などをしなければ国際的に競争できない状況に陥っています。さらに、規制緩和政策によって競争が激化し、職場の一人ひとりが自分のことで手いっぱいになり、共同体としてのパワーが発揮できなくなっていることも挙げられるでしょう。

 厚生労働省の集計によると、精神障害での労災申請は前年度比25%増の819人。認定は61%増で、過去最多となる205人だったそうです。そのうち、未遂を含む自殺の認定は前年度の42人から66人に増え、その中で65人が男性でした。ただ、過労死は10人ほど減って147人だったそうです。労災に関しては30代が突出して多く深刻な様相を呈していて、過労自殺に関しては50代と30代が顕著だったようです。いずれにしても働きざかり、リーダー的ポジションの人たちにストレスが集中しているようなのです。

 昔から日本人は働きすぎの民族でした。「アリとキリギリス」のアリのようにせっせと働き続けていたのです。でも、今のような自殺は少なかったはずです。では、なぜ、こんな状況になたのでしょうか。ぼくが思うには「希望」や「夢」がなくなったからじゃないのだろうか。なんらかの「目的」や「目標」があるからこそ人はムリすることもできます。職場にストレスが蔓延しているのではなく、「夢」や「希望」が足りないのではないでしょうか。

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Daily K-Scale 0561

よみたいときに よめば よゐ

秋にもゴールデンウィーク?

 11月3日の「文化の日」の前後に、10月第2月曜日の「体育の日」と11月23日の「勤労感謝の日」を移してきて、もうひとつのゴールデンウィークにしようという構想を与党が提案しているようです。

 この構想は、参院選での公約づくりの過程で浮上したようで、旅行の機会を増やし消費拡大を図るとともに、働き過ぎを抑制するのが狙いなのだそうですが。本当のところは、マニュフェストにこの構想を加えることで、参院選を有利にしようという狙いがありそうです。早い話が、ぼくらの目の前に、ゴールデンウィークというにんじんをぶらさげよう、ということなのです。

 ただ、与党自民党の中でも保守色の強い議員からは、かつて秋の収穫に感謝する「新嘗祭」として祝っていた「勤労感謝の日」を動かすことに反発が生まれているようです。きっと「そこまでして、選挙に勝ちたいのか」ということでしょう。

 確かに、最近の選挙戦略は「いったい政治ってなんだろう?」と思わせるものがたくさんあります。比例区の代表候補なんて、とにかく有名なら誰でもいい、みたいな風潮が感じ取れます。自分の党の議員数が増えればそれでいいのか、と思います。「数の論理」は確かに存在します。結局は、「多数決」で議決されてしまうのですから、どんなにいい政策であろうが、どんなに悪い法案であろうが、多数派の党が推すものが通ることになります。

 かつての自由民権運動の志士たちが、今の状況を見るとどんな感想を持つのでしょうか。彼らは、こんな政治のために命を投げ出していたのでしょうか。投票する側、される側、どちらも目的を失くして迷走してはいないでしょうか。

 一年に二度のゴールデンウィークがあってもいいでしょう。それによって、経済が動くならなおよし、と考えるべきです。が、それで、渋滞が増えたり、物価が高くなったりするのは考えものです。もっとも、ぼくは、人が多い場所へ行くのが苦手なので、秋のゴールデンウィークができたとしても家にいることになるでしょう。ちっとも経済効果には貢献できそうにありません。すみません。

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2007年5月20日 (日)

Daily K-Scale 0560

よみたいときに よめば よゐ

木津川さんに会いました。

 “大阪には、2つの地盤沈下が起こっておるのです”。これは、『上方芸能』の代表である木津川計さんからうかがったお話です。

 ひとつ目の地盤沈下は、本当に土地が沈んでしまったということ。昭和のはじめから1940年くらいの40年間の間に最も沈んだのが此花区辺りで、2.8mほども沈んだのだそうです。淀屋橋や肥後橋の辺りでも1.5mほど沈んでいるそうなのです。だから、川巡りの遊覧船は、かつては中之島辺りを自在に航行していたのですが、最近は、橋の下をくぐれないときがあってルートを変えるなどの対策をしないといけなくなっているのだそうです。そうそう天神祭の船も昔は、安治川の方からもやってきていたのだそうですが、最近は大川周辺の船しか祭に参加できなくなっているのも、この地盤沈下によるそうなのです。

 ふたつ目の地盤沈下は、文化的な没落のことです。近松などを取り上げるまでもなく、大阪は文化の街でした。明治以降の小説家を考えてみると、なんと大阪人の多いことか。織田作之助、開高健、山口瞳、藤本義一…。かつては、「大阪詣」といって、東京の編集者が新幹線にのって上方にやってくるというのが慣例化されていたのだそうです。そんな文化的に高かった大阪がいつのまにか「がめつい、ケチ、あつかましい」という「超経済主義」になってしまったと嘆かれていました。確かに、昔から大阪は商業都市ではあったけれど、こんなにも「儲け主義」ではなかったでしょう。それが、自らなのか他からなのか、「ドケチ」のイメージが作られてしまったのです。ハンカチ王子の東京と亀田兄弟の大阪が象徴していると木津川さんは分析されていました。

 文化には経済さえも引き上げる力がある。と木津川さん。それには、「あんたらみたいなお若い40代にがんばってもらわなあかんな」と。木津川さんは、昭和10年のお生まれ。うちの親父と同じ歳です。なぜか、親父から「お前、しっかりしいや!」と励まされているというか、叱咤激励されているようで、「大阪の地盤を引き上げるような活動をしなければ…」と決意を新たにしました。

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Daily K-Scale 0558

よみたいときに よめば よゐ

あぁ、マルガリータ。

 最近、ずっとマルガリータ頭にしています。早い話が、坊主刈りなのです。このヘアスタイル(そう呼んでいいのだか、どうだか)にして、よいところ。それは、洗髪したときに放ったらかしにしておいてもへっちゃらなこと。お手入れカンタン、手間いらずで、便利なことこの上ありません。で、悪いところ。見た目がかなりコワくなります。ある人からは、「いつも笑っていてくださいね。でないと、そのスジの人みたいですからね」なんてアドバイスをいただいたことがあります。それと、小まめに刈り込まなければならないこと。10日に一度はバリカンを入れないと、毛が伸びてしまって気分が落ち着かないのです。

 刈りたてのときに頭に触れると、とても肌ざわりがいいものです。毛足の超短いタワシの感覚でしょうか。とにかくザラザラ感が超素敵なのです。娘も気持ちよさそうに、なでてくれたりします。ただ、お風呂からあがって、頭をバスタオルで拭こうとしても短い毛に引っかかってタオルが動かず、拭けないのです。叩いて水分を吸い取るしかないのです。でも、数回叩けばOK。こんなに手間いらずのヘアスタイルは、やっぱり他にはありませんね。

 と、マルガリータがお気に入りなのですが、このヘアスタイルを選んだのには、もうひとつ理由があります。それは、近ごろ、前頭葉の辺りが寂しくなってきているということなのです。譬えるなら、鶴瓶師匠のようなM字がくっきりと頭に現れつつある、ということだったのです。家族からも「アブない、アブない」と、忠告されていましたので、マルガリータにして以来、安心したようです。

 ほんとうは、中年男のやさぐれたロンゲ姿にも、ちょっと憧れたりするのですが、ぼくの頭の中にあるイメージと実際に出来上がる実像とのギャップを考えると、ちょっと勇気が出ません。それとか、金髪(昔したことがあります)なんかにもチャレンジしてみたいな、とも思います。が、世間からは「キモ~!」と一蹴されそうですね。

 そんなこんなで、いろいろ想像を広げてシミュレーションしてみましたが、結局は、もうしばらくこのマルガリータでいきます。

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2007年5月18日 (金)

Daily K-Scale 0557

よみたいときに よめば よゐ

汚れちまった悲しみに。

 汚れちまった悲しみに…なんだ、この言葉の相関関係は。はじめて読んだときから、頭のなかは、グワングワンと揺すぶられ続けています。いまだに、それは続いています。

 悲しみが、汚れちまったら、どんな姿になるのだろう。ぼくは、最初、積もってから数時間経って、排気ガスやドロなんかで灰色に汚く染まった雪の色を思い浮かべていました。灰色なんだけれども、汚いのだけれども、なにかしら透明感がある。汚く透き通っている。そんな印象があるのです。色の印象は、こんな感じ。

 悲しみが汚れる。つまりは、純粋な悲しみじゃない。邪な想いが交じった悲しみ…。その存在感が、中学生だったぼくには、とても観念的で、つまり、触れるようで触れない、まるで立体ホログラムのような不確かな、不愉快な感覚を呼び覚ますものでした。少しの不快感をともなうものだから、余計に気になる、記憶してしまうのです。中也は、天才だと思いました。

 自らの神経を貪り食いながら、それを栄養にして自らの精神を養う。セルフカンニバリズムの遂行者が、天才詩人なのかもしれません。そんな、狂気の沙汰は、凡人には到底できない芸当です。せいぜい鏡に映った自分の姿に向かって石つぶてを投げつけるくらいが関の山でしょう。だった、小心者ですから。

 つまりは、悲しみを汚すことすらできない。汚れから守る実力もないし、自ら汚しにかかる勇気もないのです。心のどこかに、ぼくの悲しみは純粋無垢だ、という思い込みがあるのでしょうか。ついつい、悲しみを正当化し、他人に押しつけかねない状態にいます。

 汚れちまった悲しみは、いったい誰が汚したのでしょう。中也自身なのでしょうか。それとも、誰かから汚されたのでしょうか。あ、他人なら「汚されちまった」となりますね。となると、やはり自分で汚しちまったのかな。自分で汚したなら、故意か不可抗力か、どちらなのでしょう。やはり、不可抗力と信じたい。でも、予測はできていたに違いないと踏んでいます。

この少し汚れた塊は、今でもぼくの心の中に居座り続けています。

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2007年5月12日 (土)

Daily K-Scale 0556

よみたいときに よめば よゐ

間接コミュニケーション

 「怒ってるって言うといて!」と第三者に伝言を頼むことってありますね。顔を見るのもうっとおしいくらいに頭にきている、ということもあるでしょうが、実のところは、直接言いたくない、ダイレクトだと言えないから…ということが理由になっているのではありませんか?

 嫌な思いをダイレクトに伝えるには、とても勇気が必要です。それも、きちんと相手の目を見ながら、誠意を持って対応するなんて、想像するだけで目まいがしそうです。それほど、プレッシャーのかかることなのです。だからといって、避けて通ってはいけない大切なことでもあるはずなのです。

 近ごろ、相手の目を見ながらコミュニケーションできる人が減ってきていると聞きます。いや、目と目を合わす以前に、相手と向き合って会話できる人が少なくなっているということも耳にします。電話で話すよりも携帯メールで済ますほうが気が楽、という声もあるといいます。コミュニケーションが持っている体温がどんどん下がって来ているように感じるのは、ぼくだけでしょうか。

 先日、ワイドショーを見ていたら「赤ちゃんポスト」の話題を取り上げていました。赤ちゃんポストは、奥にスタッフが居ながら、赤ちゃんを捨てに(言葉は悪いですが、そのとおりだと思います)来た人にいっさい声をかけないそうです。それを知ったコメンテーターは怒っていました。「なぜ、赤ちゃんを捨てにきた人とスタッフがコミュニケーションしないのか!」と。

 彼は「今や、人類はキカイをかまさないとコミュニケーションできなくなってしまっている…」と嘆いていました。さもありなん、だとぼくも思います。相手の顔を見ながら会話する。せめて声を聞きたいものだ。文字にするなら、できるだけ自筆で書く。できるだけアナログにこだわるコミュニケーション形態には、なんらかの熱が起こるとぼくは信じています。だからこそ、そんな熱の片鱗をツールのあちらこちらにマーキングしておきたいのです。体温のあるダイレクト・コミュニケーションをつねに心がけていたいものです。

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2007年5月11日 (金)

Daily K-Scale 0555

よみたいときに よめば よゐ

インプロビゼーション

 コピーを書くということは、音楽でいえば“スタジオ録音”のようなところがあります。どういうことかというと、何度も何度も書き直すことができるので、納得できるまで推敲を重ねることができるのです。つまり、自分の思う「完璧」を目ざして“創りこむ”ことができる行為なのです。

 コピーの正反対にあるのが、即興詩ではないでしょうか。こちらは、とにかく“やり直し”ということができません。しまった!と思っても、どんどん前に進んでいかなければならないのです。特に音楽など他の表現とコラボレーションしている際などは、お互いにからまりあわなければならないので、止まるわけにはいきません。

 このように考えると、即興のパフォーマンスは、“今あるものを最大限に使いきって表現するしかない”といえます。ないものねだりはできないのです。だから、当然、潔い態度が求められます。ないものはない、という一種の開き直りも大切になるでしょう。ないことを嘆いていても先に進むことはできないからです。

 では、コピーを書く際に、即興性を生かすことはできるのでしょうか。実は、コピーには締め切りというものがあります。この締め切りが設定されていることで、一種の即興性が求められることがあるのです。資料を集める時間と実際に書く時間。それぞれに費やす時間を決めて、その範囲内で勝負をしなければなりません。

 時には、資料探しの時間が取れないようなタイトなスケジュールの仕事もあります。そんな時は、とにかくこれまで蓄積してきた知識だけでコピーを書かなければなりません。それこそ、インプロビゼーション能力が問われます。5しかない知識を10とか20に見せるテクニックが必要になるのです。それがキャリアというものです。

 この能力が身についてくると、プレゼンテーションなどへの応用が可能となります。それこそ、「あ~言えば、こ~言う」という即答力が発揮できるのです。瞬発力を体得すれば、頼れる人という印象をつくりだすことができます。じっくり濃い仕事も魅力ですが、ちぎっては投げのフットワークのよい仕事にも対応したいものです。

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2007年5月10日 (木)

Daily K-Scale 0554

よみたいときに よめば よゐ

前を向いて歩こう。

 ときどき、こんな人がいます。右手に持ったケータイに熱中しながら歩いていて、前からやってくる人に全然気がつかずぶつかっている人。みなさんも、こんな人を見たことありませんか。

 ケータイというものを意識して、この世の中を観察してみると、面白いことをいっぱい発見することができます。

 先日、JRの電車のボックスタイプの席に座っていたら、隣に座っていたおばあちゃま(らしきファッションの)が、前に座っていた若者をつかまえて「あの、私、この間、ドコモからauにケータイを変えたんやけど、メールの使い方わからへ…」と相談を持ちかけようとしたところ、若者から「ぼくソフトバンクなんで」とこともなげにシャットアウトを食らうのを目撃してしまいました。もしかして、これって新手のナンパか、と疑ってしまうほど不自然な空気感を生み出していました。

 特急待ちをしていて、先発する普通電車を眺めていたら、車両のほとんどの人がケータイを目の前にかざして画面を見ています。そんな同じポーズの人がいっぱい並んでいる光景は、かなりシュールです。まるで青空の下の句会みたいです。

 初老のおじさまが、ニヤニヤ(決してニコニコではない)しながらメールを打っているのもなかなか不気味です。そのニヤニヤ加減からすると、メールの相手は、かわいい一人娘なんてことはなくて、新地のお姉さまかな、というのが顔に描かれているわけです。

 ふたつのケータイをフルに使い分けてメールしている販売員風のお姉ちゃんなんかもいます。両手にケータイを持って、器用にそれぞれのケータイでメールをしているのです。ま、相手に気づかれないようにする工夫が必要なのですね。ご苦労さま、です。

 メールを打つとき、誰もが画面に熱中して、周りが見えなくなっています。それって、やっぱり危険ですよね。ときには他人と接触したりしてしまう。ケータイを使う際は、ぜひ、からだを静止させて「ながら」で行わないように。そして、歩きながらはご遠慮を。しっかり、前を向いて歩いていただきたいものです。

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2007年5月 6日 (日)

Daily K-Scale 0552

よみたいときに よめば よゐ

どうなっているんだ高野連。

 時代遅れだとは考えていません。方針に変更はありえません。これは、会見での高野連会長の発言です。

 スポーツでの特待生制度は、どこの私立高校でもごく普通にみられることだと思っていました。ところが、野球だけは「禁止」規則が設けられていたのですね。これにはビックリしてしまいました。

 幼い頃(小学生の頃ですが)、同じ市内に住む中学3年生が野球の強い高校(平安高校とか…)に進学するという話を聞くと、たいていの大人たち(ぼくの親を含めてです)が、「あの子は、ほんま親孝行やね。一生懸命野球をして、自分の力で高校へ行くんやものね」と褒めたものでした。

 ま、今や、ほとんどの人が高校へ行く時代です。野球がうまくなければ高校へ行けなかった(別に野球でなくても陸上でもサッカーでもいいのですが)なんて人は稀有でしょう。だから、野球のうまい親孝行者だって希少な存在のはずです。

 甲子園に出られる選手の家庭は、かなりの高所得層だと聞きます。甲子園に出場するような高校は、たいていが私立で学費も高く、それに加えて、野球部へのさまざまな費用が嵩むのです。それに耐えられる収入のある家庭でないと脱落していくそうです。

 実際、長男の同級生はとてもサッカーがうまくてパープルサンガのユースチームの一員になりました。しかし、週に3度の遠地での練習に加え、毎週の遠征などその交通費などだけで、莫大な費用が必要になり、その出費が家計を逼迫して、とうとうチームを去らなければなりませんでした。

 こんな悲劇を救う一助となっていたのが「特待生制度」だったと思うのです。優秀な才能が伸びる可能性を摘まれないようにするための制度だった。それはそれで、十分に機能していたはずです。

 特待生制度は、アマチュア精神にはマッチしていないかもしれませんが、野球少年の夢を叶えていると思うのです。問題は、その裏で、夢を餌にして儲けようとしている汚れた大人の銭勘定が見え隠れしていることなのです。高野連にはそこを見てほしいものです。

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2007年5月 5日 (土)

Daily K-Scale 0551

よみたいときに よめば よゐ

自然とふれあう。

 今年はじめての墓参りをしました。うちのお墓は、京都の山間部、須知という数年前に鳥インフルエンザ発生で話題となった町にあります。近くに3世紀くらいの古墳があったり、なんとも時代の感覚が麻痺するようなところに墓所があります。こんな田舎でもバスは通っていて、バス停なんかもあるのですが、墓所の最寄のバス停はぼくの姓と同じ。このあたりでも田舎感覚が理解してもらえると思います。

 墓所があるのは小高い丘というか里山の中腹。山道をずんずんと登っていかなければなりません。といっても3分も登れば到着するのですが。中腹の墓所入口では、不動明王像と左右に3体の地蔵菩薩像の合計7像がぼくらを迎えてくれています。一番奥には、直系のお墓が並んでいます。そこには、この誰々は郡是の副社長にして満州に渡ってなになにした…なんてことが碑に刻まれたりしています。うちは、やや傍系ですので上から数えて3番目の位置(あと下に2つほどの墓所があります)にあります。叔父が35年ほど前(祖母が亡くなった頃)に建てた墓は、いつも静かに佇んでます。この石の塊についた水垢や土汚れをスポンジでゴシゴシ洗って綺麗にするのです。秋から来ていなかったので約半年ぶりでした。ただ、ぼくらが来なくても叔父たちも世話をしてくれているので、墓は綺麗でした。

 帰り道、楕円模様のヘビがとぐろを巻いているのを見かけました。それは「マムシ」でした。ヘビを見るのがとても久しぶりな上に、マムシなんてものを見るのは、ほぼ30年ぶりくらいのもので、思わず興奮してしまいました(まるで、ツチノコを発見したくらいのハシャギようだったかもしれません)。そのほか、わらびやふきなんかもふんだんに生えていました。あぁ、やっぱり里山はいいな。そんな想いで頭がいっぱいになりました。

 自然に包まれていると、なぜ、こんなにも心落ち着くのでしょう。やはり、人間も自然の一部だからなのでしょうか。ただ、愛犬はダニがいっぱいついて難儀しました。ま、これも自然なのでしょうね。

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2007年5月 4日 (金)

Daily K-Scale 0550

よみたいときに よめば よゐ

ちょっとした言葉づかい。

 先日、近所の鉄板焼き屋さんに寄ったとき、店のお兄ちゃんのパンツが破れていたのを見つけてしまいました。グルグル渦巻きのパターンがとってもかわいくて、他人の服ながらぼくも大ファンになってしまっていたのです。だから、破れているのが残念でなりませんでした。

 ぼくのギャラリーの相棒は、デザイナー。そこで、「直してあげるから、いつでも持っておいで」と伝えました。

 次の日、彼はわざわざギャラリーまでパンツを持ってきました。ぼくらは、そのとき、「あ、ほんまに持ってきたなぁ」と言ってしまいました。なぜ、ぼくらは「ほんまに…」と言ってしまったんだろう?それがよくわからないのです。

 気持ちは、「ちゃんと持ってきてくれたんや」という喜びの思いだったのに、口をついて出てきたのは「ほんまに…」。こんな失礼な言葉ってなかったな、と後悔&反省なのです。

 「ほんまに…」という言葉を使ったら、「あれは冗談やったのにほんまに持ってきたんかいな」というニュアンスになってしまうのではないでしょうか。そう聞かれてもおかしくないな、と思うのです。言葉で飯を食っている人間が、こんな浅はかな言葉づかいをしてていいのだろうか、とほんとうに恥じております。ごめんなさい。

 言葉は、本来、自分のことを表現する道具だと思い勝ちです。しかし、よく考えてみたら、表現する道具ではなく、自分と相手をつなぐ道具なのではないでしょうか。だからこそ、お互いの距離感をしっかり捉えて、過不足なく関係づけることが大切なのです。

 それなのに、人はついつい自分の立ち位置だけで言葉を発して、相手の心を平気で傷つけることがあります。相手があってこその言葉なのです。ひとりで語っていたら、それは単なる「独り言」にしか過ぎません。これでは、関係は生まれないのです。

 どうせなら、相手に「いい気持ち」が伝わる言葉を使いたいものです。やさしい気持ちでつながるような言葉づかいを心がけたいものです。そこからピースフルなコミュニケーションがはじまります。

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Daily K-Scale 0549

よみたいときに よめば よゐ

大国はもう少し考えようよ。

 WWF(世界自然保護基金)によると、海洋生物のすみかとなっている南太平洋やカリブ海のさんご礁では海温上昇により共生藻が脱落する「白化現象」が加速しているそうです。また、野生パンダが棲む長江(揚子江)上流域は水源のチベット高原の氷河の後退で水不足の危機に直面しているといいます。

 北極域の温暖化は太平洋のサケの漁獲減少を招き、海面上昇はカリブ海でウミガメの一種であるタイマイの産卵場所となる砂浜を奪う恐れがあるといわれています。また、少なくとも4万種類の植物、427種類の哺乳類が棲む南米・アマゾン川流域では気温上昇と乾燥化で、熱帯雨林の30~60%が乾燥した草原に変わる恐れがあると指摘されているそうなのです。

 わずか数度の気温上昇でも、温暖化の生態系への影響は大きく、多くの生命の生息が脅かされかねません。ヒマラヤやアマゾンなど10の生態系を例にあげ、WWFは温暖化に対応した保護対策の強化を訴えています。

 動物たちの棲みにくい環境って、生物の一員である人間にとっても住みにくい環境に違いないだろうな…と単純に思うのです。京都議定書を拒否するアメリカや今や先進工業国となったのにいまだに途上国扱いで議定書対象になっていない中国など、環境悪化先進国にこそ、この感覚を自覚していただきたいものですよね。

 また、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第二作業部会では、温暖化問題が国の安全保障にかかわる国際政治上の重要課題で、科学的な報告書の随所に政治的訂正が入ったそうです。例えば、「将来の水不足人口は最大で32億人増加、海面上昇による洪水のリスク人口も最大1500万人増える恐れがある」という草案は世界の200人以上の科学者が最新の論文をまとめたものでしたが、アメリカや中国の反発で抽象的なものに変更されていまったといいます。科学者の中にはフラストレーションのために途中退席する人も多かったとか。まったく、地球の脅威を他人事にしか考えられない大国がある限り、ぼくらは崖っぷちを歩き続けることになるのですね。

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Daily K-Scale 0548

よみたいときに よめば よゐ

弱い者をいじめるなかれ。

 規制緩和という錦の御旗の下で増幅されたのは、格差だけだったのでしょうか。最近、あちらこちらで格差の話が出ていますね。中でも都心と地方の格差は目も当てられない状況にあるようです。

 総務省の調査によると市町村別の地方債の残高の格差が500倍を超えていることがわかったそうです。特に、離島や山間部など「条件不利地域」で残高が多額になっているといいます。

 この調査は、地方自治体の借金である地方債の住民一人当たりの2005年度末時点での残高をリサーチしたもので、最多の約1100万円に対し最少は約2万円となっていたそうです。その格差たるや500倍超。ちなみに、一人当たりの残高は、全国1844の市区町村と47都道府県が発行した地方債残高(国が返済を全額負担する一部の地方債分を除く)を住民基本台帳人口で割って算出しているそうです。

 残高が最も多かったのは、鹿児島県十島村の1152万4712円でした。同村は南北約160キロに大小12の島々が点在する離島で、人口は600人余り。村の地方債残高は73億円で、調達した資金のほとんどは港湾整備に使われているそうです。

 一方、最も少なかったのは佐賀県玄海町の2万2538円。人口は約6800人ですが、地方債残高はわずか1億5000万円余り。というのもこの町は、九州電力の原子力発電所の固定資産税収入などが財政を支えているので、こんなにも安定しているのです。ま、これは例外中の例外と考えてもいいかと思われます。

 条件不利地域の自治体は、もともと税収が乏しい上、債務の返済が財政を圧迫し、行政サービスの低下も懸念されています。高知県の東洋町町長が、財政難から核燃料高度処理工場誘致候補地に手を上げたのもわからないでもないな、と思えます。自治体が自立を求めていくには財政の確保が必要なのですから。

 地方の自立という大義名分の下で進められた規制緩和。その結果は、橋本高知県知事が声を荒げて言った「地方を札束で頬をひっぱたくようなやり方で無理矢理動かすな」に象徴されています。弱いものをさらに叩きのめすような政治はしてほしくないものです。

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2007年5月 3日 (木)

Daily K-Scale 0547

よみたいときに よめば よゐ

ストレスバンザイ?

 現代社会の敵はストレス、のようなポジショニングがありますが。確かに、今を生き抜いていくには、さまざまな対人関係の軋轢や会社や学校でのいじめ&ハラスメントなど、心の病を引き起こすようなストレスが蔓延しています。このようなストレスは心身に悪影響を与えて、心身症と呼ばれる病態を招いたりもします。

 当然、誰しもが、こんなストレスは避けたいと願っていて、さまざまな研究機関が「どんな出来事がストレス因子となるのか」を研究し、多くの仮説が提出され検討されました。

 例えば、今や多くの人々が知ることとなったPTSD(心的外傷後ストレス障害)などは、危うく死にそうな目に遭ったほとんどの人に生じると仮定されましたが、現実には心的トラウマ体験に遭遇しても発症しない人が圧倒的に多いことがわかっています。逆にささいなことで発症する人もいて、出来事がストレス的なものかどうかを事前に推測することは困難だと考えられています。

 現在では、ストレスかどうかを判断するのは、とても主観的なことだと考えられるようになってきました。Aさんにとってはストレス的出来事であってもBさんにとってはそれほどでもない、ということが起こりえるということなのです。

 この相対的判断基準というのが曲者で、セクハラの基準みたいにAさんとBさんが同じことをしても、Aさんはセクハラで、Bさんならコミュニケーションの一環なんてことがあるように、ストレスもとても流動的なポジションの上に置かれているのです。つまり、ストレスの原因に対して対応しようとすると、その均衡点を見つけるのが難しいのです。緩やか過ぎれば防止につながらず、厳しすぎれば人間関係に歪が生じるのです。

 ストレスの効果にしても同様で、ときには心身症の原因になることもありますが、ときには人間を成熟に向かわせることもあるのです。こうなると、要は本人の認識の問題か!とも思えてきます。ストレスを楽しめるぐらいの器の大きな人間になりたいものですが。でも、タイヘンそうですよね。できれば、避けたいものですね。

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Daily K-Scale 0546

よみたいときに よめば よゐ

伝えるための、方策。

 ブッダの初期の言葉が伝えられているという「阿含経」は、ブッダと弟子たちとの問答集の形式をとっています。弟子たちが、ブッダに対して、その教えについてわからないことをあれこれ聞いて、それに答えているのですが、回答の仕方に4つの方式がとられています。それらを紹介してまいりましょう。

 まず、ひとつが一向記(いっこうき)・決定答(けつじょうとう)と呼ばれる形式。これは、問いをそのまま直ちに肯定するものです。続いて二つ目が、分別記(ぶんべつき)・解義答(げぎとう)というもの。問いを整理し、細かく分別して、そのひとつひとつに丁寧に答えていくのです。三つ目が、反問記(はんもんき)。これは、問うている相手に反問して、その意図や内容を問者にも反省させ、かつ熟考させ、それらを確認しつつ答えるというもの。そして四つ目は、捨置記(しゃちき)・置答(ちとう)と呼ばれるもので、答える必要のない問いに対しては、あくまでも沈黙を貫き、けっして答えないというやり方です。

 これを見て、ぼくは、またもや「あ!」と感じてしまったのです。不惑の年代を迎えると、いろんな人から質問を戴く機会も少なくありません。でも、問われたときに、ブッダのように相手を察してさまざまな答え方をするなんてこと、意識していませんでした。とにかく「答える」ことに精一杯で、「そう答えることでどんなことが相手に伝わるか」なんてことを考える余裕はなかったのです。

 ましてや、四つ目の「捨置記」なんて手法は、なかなかできないことです。答えないことで、相手になんらかのことを伝えるなんて。まるで「無手勝流」のようで、高等手段だな、とため息が出ますね。

 相手に合わせて、言葉を選ぶ。それは大切なことだと思うのです。日本語のわからない外国人に、一生懸命に日本語で立派なことを言ったとしても伝わりませんから。同じように、問いに対する答えも、肯定したほうがわかる人もいれば、反問したほうが理解が深まる人もいます。丁寧に噛み砕いて説明したほうがいい人もいますね。とにかく目的は理解してもらうこと。そのための手段は選ばず、です。

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2007年4月29日 (日)

Daily K-Scale 0545

よみたいときに よめば よゐ

クラス3分類。

 いわゆる学級には3つのタイプがあるといいます。ひとつ目が、「規律が定着しながらクラスの仲がいい『満足型』。ふたつ目が、「一斉指導方式で厳格に規律が行き届く『管理型』。みっつ目が、「教諭が子どもたちへの個別対応を重視し、ざわざわと私語は飛び交う学級内にゆるやかな人間関係が存在する『なれあい型』。

 この3タイプのクラス分類を提唱しているのが、都留文科大教授の河村茂雄氏。教授は、各分類でみられるいじめの形態を調査されているのだそうですが、いじめの発生率に関しては、『満足型』が最も低く、『なれあい型』が最も高かったそうです。『なれあい型』は、クラス意識が低く、子どもたちは不安感を軸にして小グループをつくり、いじめが陰湿化しやすく、学習も十分に進まない傾向があるそうです。

 この3つの分類ですが、まず『満足型』は一種の理想形ですね。だれもがこんなクラスを求めているはずです。『管理型』は、厳しい先生のカミナリが恐ろしくて大人しくしている、みたいなイメージがあります。教室は静かだろうけれど、どこか怯えていて、元気がないような…。そして、『なれあい型』。こちらは、もう学級崩壊しているように思えます。だいたい私語が飛び交うというのはどうなんでしょうか。

 思い起こせば、長男の6年生のときのクラスがちょうど『なれあい型』でした。担任は個別対応に躍起で、少し不良化した生徒を使ってクラスの管理をしようとしていることを自慢気に保護者であるぼくに語っていました。「悪いやつのいうことをマジメな生徒はよくききますから、ぼくはそいつらの力をウマく使ってクラスをまとめるんですよ。あいつらなかなか使えますね」と。

 それを聞いて、ぼくは開いた口がふさがらなかったのですが、そんなクラスなら、陰湿ないじめが起こっても不思議じゃありませんね。決して、親の立場を棚に上げているわけではないのですが、できれば学校の先生には、自分のクラスが3つの分類のどれに属しているかくらいは把握して、対応を考えていただきたいものです。

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2007年4月28日 (土)

Daily K-Scale 0544

よみたいときに よめば よゐ

昭和の尻尾を掴んでおきたい。

 うちの家族4人は、2人が昭和で2人が平成です。つまり昭和と平成の人口構成比率は50:50ということ。ちなみに、別所帯となった長男一家は昭和1人に平成2人という構成です。どんどん昭和が遠くなっていっている…というのは明白なようですね。

 総務省が先日発表した2006年度10月1日現在の年齢別・都道府県別推計人口によると、昭和生まれの人口は9997万5000人だったそうです。これは、1984年に昭和人口が1億人を突破して以来、初めての大台割れなのだとか。一方、平成生まれは2081万7000人で、初めて2000万人を突破しています。

 日本の総人口は1億2777万人ですから、昭和生まれは約78%、平成生まれは約22%ということですね。この比率は、今後どんどん平成生れの方にシフトしていくことは間違いありませんね。ちなみに推計人口というのは5年に1度の国勢調査による人口数を基に、出生数から死亡数を引いた「自然動態」と入国者数から出国者数を引いた「社会動態」を加味して計算したもの。国勢調査を実施した年以外は、この推計人口をがその年の総人口となります。

 都道府県別で人口の推移をみると、青森県が8年連続で人口減少率のトップに。そして、青森、高知と続いています。一方、人口が増加しているのは滋賀や沖縄など10都県。増加率が高かったのは愛知県で、常連トップの東京都を抑えて初の栄冠を手にしました。全体的に都市部の都県で人口が増え、辺境では減少するという傾向が見受けられます。やっぱり、都市的機能を堪能したいのでしょうか。

 年齢区分別の割合は、14歳以下の年少人口は13.6%、15歳から64歳までの生産年齢人口が65.5%、65歳以上の高齢者人口が20.8%に。特に高齢者人口は、全国で3.3%増加という急ピッチになっている模様。埼玉、千葉、神奈川では5%超えも。首都圏や愛知、大阪などの大都市圏では、急速に高齢化が進んでいるようです。

 昭和30年代のブーム、昭和回顧の出版物やイベントの開催…。反面、実像の昭和は高速でぼくらの周りから遠ざかろうとしていますが、その尻尾くらいはしっかり掴まえておきたいものですね。

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2007年4月27日 (金)

Daily K-Scale 0543

よみたいときに よめば よゐ

1日1ドル以下の暮らし。

 世界水準で貧困層とされる人たちは、1日1ドル未満で暮らしているといいます。つまり、彼らは1日120円以下で生活しているのです。物価が違うとはいえ、日本ならごはん一杯も食べられないくらいの少額。こんな話、きっと小学生なら「信じられへんわ!」と目を白黒させてしまうことでしょう。

 世界銀行(なぜこの機関がこんなこと調べているのか不思議ですが…)が調査したところ、2002年に10億6700万人いた貧困層の人口が2004年には約9億8600万人と8100万人減少していたそうなのです。現在の調査方法になった1981年以降、10億人を割ったのは初めて。

 なぜ、こんなにも減少したのか…。それは、中国の経済発展の影響が大きいようです。というのも、中国での貧困層人口は、02年から04年の2年間で約5000万人も減って1億2800万人になったのですから。しかし、それでも1億2800万人。世界の貧困人口の1割強を抱えているのには驚きです。つまり、日本の人口並の貧困層が暮らしているということなのですから。中国の躍進で、東アジア・太平洋地域の減少幅がとても大きくなったようです。

 貧困層が人口全体に占める割合が高いのは、41.1%のサハラ砂漠以南のアフリカ地域がトップで、32.0%の南アジア、9.0%の東アジア・太平洋地域、そして1.5%の中東・北アフリカが続きます。

 かつては、中国がくしゃみをしたらヨーロッパが風邪をひく…なんて俚言もありましたが、今や、何をするにも中国がキーネーションとなるようです。以前に書いたマグロ価格の急騰と品薄化は上海での寿司&海鮮料理ブームが原因ですし、同様の事態がチーズでもありましたね。ただ、今回の貧困層の減少は、喜ばしいプラスの事項ではありますが。ただ、少し気になるのは、これは平均であって、中国でも日本のように格差が広がっているのではないだろうか、ということ。お金持ちも増えているけど、決して這い上がることができない極貧の層が実は増加しているんじゃないか、と心配です。

 ぼくは1日何ドル使っているんだろう。一度計算してみようっと。

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2007年4月26日 (木)

Daily K-Scale 0542

よみたいときに よめば よゐ

自分を知るためのテスト?

 1.次の(1)から(4)までの各問いに答えなさい。
 (1)2/3÷5/7を計算しなさい。
 (2)下のアからオの中から、一番小さい数を1つ選びなさい。
    ア1/3 イ0 ウ-2 エ4 オ-1/2
 (3)2×(-3)(-3)を計算しなさい。
 (4)8-5×(-6)を計算しなさい。

 上記は、「全国学力テスト」の中学3年生数学Aの問題です。答えは、(1)14/15(2)ウ(3)18(4)38です。

 43年ぶりの復活となる「全国学力テスト」ですが、評価や評判はいろいろのようです。「順位だけにこだわった競争が激化する」と懸念する声もあれば、「大いに切磋琢磨できる」と歓迎の意見もあるようです。最後に「学テ」が行われた1964年(ぼくの生まれた年です!)、香川県は3年連続で「学力日本一」に輝きました。その香川県と首位争いを繰り広げたのが愛媛県。「汗の香川、涙の愛媛」と呼ばれ称されたりもしたけれど、半年前から模擬試験を繰り返したり、答案に間違いを見つけると訂正するように教師が生徒にサインを出すなど過剰な競争や不正が横行しました。テストの結果次第で教師の待遇も決まったそうです。成績が悪かったら僻地に飛ばされることも多かったとか。中には「ゆがんだ教育だ」と声を上げる教師もいたそうで、結局は43年前に取り止められたのです。

 文部科学省は、9月をめどに都道府県別の教科ごとの平均点の公表を予定していますが、過度な競争が起こらぬよう市町村や学校ごとの結果は発表しないといっています。が、先日、大阪高裁は「テストの結果公表請求に対する情報開示の正当性」を認める判決を出しています。つまり、誰かが公表を求めた場合、順位などを明らかにしなければならなくなるのです。そうなると、もう堰を切った水のように競争は激化し、教育はゆがんでいくに違いありません。

 自分のポジションを知るために、このようなテストは必要でしょう。でも、他人との比較のためなら、葬り去ってもいいのでは?と思いますが、いかがなものなのでしょうね。

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2007年4月25日 (水)

Daily K-Scale 0541

よみたいときに よめば よゐ

固定観念をぶっ潰せ!

 「ミステリーの魅力の根幹にあるのはサプライズ。読者は固定観念の盲点を突かれると『なるほど』と納得してくれる」

 これは、ある新聞に寄せられていた作家・夏樹静子さんの言葉です。この一文を読んで、ぼくはプチ目ウロコ状態になりました。と、いうのも、先日、少し大きなプレゼンテーションの機会があって、いかにクライアントを納得&説得させるか、をあれこれ考えていたからです。

 ぼくは、懸命に「納得できる事項」を探してまわりました。あれもこれも、どれも…と過剰なほど論理武装して、言葉を重ねてコテコテに仕上げていたと思います。いわゆる満艦飾の状態ですね。でも、その過剰な装飾は、果たして効果的だったのでしょうか?

 ぼくは先の文章をこう書き換えてみました。「サジェスチョンの魅力の根幹にあるのはサプライズ。クライアントは固定観念の盲点を突かれると『なるほど』と納得してくれる」と。

 そう「固定観念」がキーワードだったのです。みんなが、最小公倍数的にどんなイメージを持っているのか。それをまず見極めなければならない。ぼくらが、その「固定観念」の正体をリアルに掴まえなければ、幻を相手に斬り合いをしているようなもの。まったくムダな動きばかりになって、相手を斬るなんてことはできないのです。「物の怪の正体見たり枯れ尾花」ではありませんが、正体を見切って、それを指摘するとサプライズとなるのです。

 と、アタマで考えるのはカンタンなのですが、なかなかそれを実践するのはムズカしい。世の中には、いろんなノイズが存在していて思考活動のジャマをします。いわゆる実像が見えなくなるのです。いや、実像はおろか虚像かもしれないものまで輪郭がぼんやりしてしまう。まったく目の前にはフォーカスされていないボンヤリ世界が広がるわけです。

 そんな時には夏樹静子さんのこの言葉です。「潜在意識のかすかな声に耳を傾ける時間も必要です。本音はどうなのかと自分に問うてみるのは大事なことだと思います」。なるほど、納得です。

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2007年4月24日 (火)

Daily K-Scale 0540

よみたいときに よめば よゐ

仏教復興。

 発祥の地でありながら、ほぼ消滅してしまったと考えられていたインドの仏教が、今、復活の兆しをみせています。世襲身分制度であるカーストの最下層の「不可蝕民」などと呼ばれる人たちが、相次いでヒンズー教から仏教に改宗しているのが主な原因。今や教徒の数は1億人に達しているといわれています。

 この復興運動は、インド憲法を起草した不可蝕民出身の故アンベドカル博士が、1956年10月にインド中部マハラシュトラ州ナグプールで、不可蝕民約50万人を集団改宗させたのがきっかけではじまったといわれています。上位カーストの慈悲に頼っているだけでは人間性の回復は果たせない、との悟りからの出発だったそうです。

 以来50年、博士のまいた種は大きく育ってきました。そして、現在その樹を育てているのが日本人の佐々井秀嶺師。岡山県の出身で、高尾山薬王院(真言宗・東京都八王子市)で得度、タイに仏教留学した後、インドに渡ったそうです。インド国籍を取得し、政府の少数者委員会の仏教徒代表を務めたという経歴の持ち主です。渡印40余年、名実ともにインド仏教を導く最高指導者なのです。

 佐々井師は、昨年10月に仏教復興50周年を記念する「黄金祭」をングプールで開催、総指揮を執りました。その際、「5千人の僧を得度させる」と国中に呼びかけ、実際、宣言を上回る7千人の僧を得度させました。祭期間中には20万人以上の仏教徒が市内を大蛇のごとく行進し、気勢を上げたといいます。そして、期間中に約150万人の人口を持つカースト集団の指導者たちが仏教への改宗を新たに誓ったそうです。

 佐々井師は、今、ブッダが悟りを開いたと伝えられるブッダガヤの大菩提寺の管理権をヒンズー組織から取り戻すための運動を展開しているそうです。

 経済成長著しいインド。しかし、その一方で、カースト制という因襲も色濃く遺されています。どうやら仏教は、インドを内から変革するムーブメントとして期待されているようです。

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2007年4月23日 (月)

Daily K-Scale 0539

よみたいときに よめば よゐ

不可抗力の無効投票。

 選挙運動中に暴漢によって射殺された伊藤一長市長の後継者を決める長崎市長選は、無所属新人で元市統計課長の田上富久氏(50)が、伊藤前市長の娘婿である西日本新聞記者の横尾誠氏(40)ら新人4人を破り、初当選しました。

 最初、4選をめざしていた伊藤市長に新人3名が挑戦する選挙戦でしたが、ご存知のように告示後の17日夜、伊藤市長が暴力団幹部に射殺され、19日に横尾氏、続いて田上氏が補充立候補。5名の候補者による選挙戦がスタートしました。その間、わずか3日という異例の超短期決戦の選挙戦でした。

 伊藤市長の後援会が擁立した横尾氏は「志半ばで倒れた父の後を継ぐ」と伊藤市政の継続を強調、伊藤氏の長女で妻の優子さん(36)らと街頭に立ちました。一方、田上氏は「長崎市の行政をよく知る人が手を挙げるべきだ」として、豊富な行政経験をアピール。昨年開催された「長崎さるく博」の準備などを通じて培った人脈を生かし、経済・市民団体の一部などから支持を得たほか、横尾氏に対する「世襲」批判票を取り込んだといいます。

 従来なら、弔い合戦的な様相を呈して、得てして「世襲」候補が有利になることが多いそうですが、今回は長崎市民の意識の高さが反映されたといえるかもしれません。ちなみに、投票率は過去最低の55.28%でした。

 このように激戦の長崎市長選でしたが、モヤモヤも残っているようです。というのは、不在者投票や期日前投票を事前にしていた人たちの想いです。伊藤市長に投票した人の票は無効になってしまうそうなのです。17日に狙撃され18日未明に死亡した伊藤市長は、死亡時点で候補者でなくなり、公職選挙法の規定で投票が無効となるのです。市選管によると16日から受付けをはじめた事前の投票数は1万2429票に上り、そのうち17日までの分は選挙人名簿登録者数の約2%に当たる計7592票になるといわれています。実際、再投票を求める電話が20日までに数十件あったといいます。選挙権のリサイクル、なんとかならなかったのでしょうか?もったいない限りです。

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2007年4月22日 (日)

Daily K-Scale 0538

よみたいときに よめば よゐ

しらふ宣言。

 いけない、いけない、酒やめなきゃ…と思いつつ幾歳月。未だに禁酒は叶っていません。タバコの方は、一昨年の末に止めてもう2年以上になるのですが、お酒はなかなか止めることができません。

 ひとつには「酒は百薬の長」などという諺もあって、量をわきまえれば「健康によい」というイメージがあるから。ちょっとずつを続けることでからだにいい影響を与えてくれるんじゃないか、と期待しているところがあるのです。でも、問題なのは、一度呑みだすと適量で済まないことが多いということ。ついつい呑みすぎて体調を乱してしまうのです。これでは本末転倒ですね。

 もうひとつは、やっぱり「おいしい」と感じるから止められないのです。でも、これって「アルコール依存症」なんでしょうか。おいしいと思い込んでいるだけで、実は「ないと生きていけない」のかもしれないと思うと、少しコワイです。あくまでも「楽しんでいる」状況を飛び越えないようにしたいものです。

 できれば、かなりの強制力で「止めなさい」と禁じてもらえれば止められそうな気がするのですが。例えば、法律とかですね。それでも、もしかしたら法の目をかいくぐって、こっそり呑んでいるかもしれませんが。あ、やっぱり「依存症」でしょうか…。

 先日、旧ソ連でバルト三国のひとつリトアニアは、2008年を「しらふの年」と宣言する法定案の審議を国会で開始したそうです。ラジオ・ロシアが伝えるところによると、この宣言案は、国民の飲酒量大幅削減をめざし、禁酒運動家の提唱を受けて国家保健委員が提
出したそうです。

 リトアニアでは、国民の85%が飲酒の習慣を持っていて、未成年者の飲酒癖は過去10年間で5倍に増加したといいます。この国民の飲酒癖のために、国家は毎年、10億ドル(約1200億円)以上もの損失を被っているのだそうです。

 ぼくも、リトアニアに倣って、2007年のこれからを「週2日はしらふの日」にしたいと思います。やっぱり「罰則」を設けたほうがいいのでしょうか。規則を破ったら、一カ月の禁酒とか、ね。

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2007年4月21日 (土)

Daily K-Scale 0537

よみたいときに よめば よゐ

環境ネタを三連発。

 まずは、海から。九州では、「ナルトビエイ」という熱帯や亜熱帯の広い海に生息するエイの被害が増えているそうです。このエイに、豊前海のバカガイや有明海のタイラギガイが食べられてしまい、漁獲高が激減。事態は深刻化しいている模様です。

 もともと「ナルトビエイ」は日本の海にやってきていたそうなのですが、温暖化による海水温の上昇により、やってくる個体数が増えているのが、被害増大の原因のひとつなのだそうです。他にもカイ自体の個体数が減ったとか、エイの天敵となるサメが減ったとかの原因もあるのですが、環境の変化も大きいと専門家はみています。

 次は、キノコのお話。英国の研究グループが約50年分のデータから分析した菌類の生活変化のことです。かつて年1回だったキノコの形成が年に2回に増えるなどの変化が起こっているというのです。この結果、落ち葉などを分解する菌類の活動変化は、生態系に大きな影響を与える、と懸念されています。

 食べられるキノコなら、年に何度も採れた方がうれしい、なんて思っていちゃだめなのです。活動サイクルが変化するということは、自然界全体のリズムに狂いが生じるということ。人間だってリズムが狂うと便秘になったりしますね。自然界ならどうなるか…想像するのも恐ろしいと思いませんか。

 そして、三つ目は、京都・鴨川から。桜並木で知られる左京区の「半木(なからぎ)の道」はヤエベニシダレザクラで有名ですが、今年は、しだれた枝の先には花ではなく若葉ばかりが目についているのだそうです。これには、専門家も首をかしげ、「原因はわからないが、花芽形成の時期に当たる夏場の気候不順が影響しているのではないか」との推測も出ています。

 ほぼ、毎日のようにこんな「異変」記事が新聞に掲載されています。かつてなら、「珍しい」という笑顔のニュースだったのですが、今やなにかと「温暖化」などの環境と結びつけられて報道されるので、ついつい眉間にシワが寄ってしまいます。できれば、楽しい気分で接したいものですが、かなわぬ夢なのでしょうかねぇ。

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2007年4月20日 (金)

Daily K-Scale 0536

よみたいときに よめば よゐ

どうしよう!?

 長野県波田町議選でのことです。立候補を届け出た14候補のうち半数に近い6名が同姓の「百瀬(ももせ)さん」でした。6人は、選挙ポスターに姓よりも名を大きく印刷するなど、同姓候補との差別化に相当アタマを悩ませているそうです。町の選挙管理委員会も「フルネームでの投票を呼びかけると、結果的に百瀬姓の候補者を強調してしまうことになる」と対応に苦しんでいるといいます。

 波田町の人口は約1万5千人だそうです。そのうち「百瀬」姓の方は約6%を占めているといいますから、900人ほどですか。これは町で一番多い「姓」なのだそうです。町議の定数は12。2人が落ちる計算ですから、最低でも4人の百瀬町議が誕生するのです。

 そういえば、注目されている長崎市長選も2人の同姓候補者がいましたね。5人の候補者のうち2人が女性ですが、彼女たちの姓がいずれも「前川さん」です。これも間違いやすいような気がします。

 昔ながらの伝統が脈々と流れている地域(早い話が田舎なのですが)では、同じ姓の家がたくさんある場合があります。きっと明治時代になって、名字をつけなければならなくなったときに、ご近所で同じ姓を名のることにしたのかもしれません。父方の故郷も母方の故郷も近所は、みんな同じ姓ばかりでした。だから、姓で呼び合うことはほとんどなく、「上家(かみや)」だの「新家(しんけ)」だの「母屋(おもや)」だのと呼んでいたようです。

 きっと先述の波田町もそんな伝統的な町なのかもしれません。百瀬さんたちも実は親せき縁者で、いつもは「上家)」だとか「新家」とか呼び合いながら、仲良く暮らしているのかもしれません。選挙ですら、こんな状況なのですから、小学校なんかはどんな感じなのでしょう。場合によっては、クラス全員が「百瀬さん」なんてなことになっているとか…。もう邪魔クサイから教室名も「1年百瀬組」にしちゃえ!なんて強行意見が飛び出したりすることもあるのでしょうか?なんとも次から次へと疑問が湧いてきます。さぁ、結果はいかに。もったいない無効票が出ないように、きちんとフルネームでの投票が成されるように祈りたいものです。

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Daily K-Scale 0535

よみたいときに よめば よゐ

もうひとつの欧米か!

 楽器屋さんに行くと、そこそこのギターが7万円ほどで買えます。今の日本なら、7万円といえば、学生でも買えないことはない金額ですね。確かに、アルバイトをしながら買ったギターを担いでいる学生さんを目にすることも多いですね。

 こんな感覚で、アメリカでは銃が買えるそうです。もちろん、身分証明書の提示などが必要になりますが。ただ、アメリカの銃が日本の銃と違うのは「護身用」つまり、標的が人間の銃だということです。日本の銃は狩猟やスポーツ用ですから、人を撃つためのものではないのです。

 この「人を撃つための護身用と呼ばれる銃」の積極的使用による悲劇が奇しくも同じ日に日米で起こりました。ご存知の米バージニア工科大学の銃乱射事件と前長崎市長射殺事件です。アメリカでは罪のない前途のある32の尊い命が奪われました。長崎では、原爆投下という悲劇を乗り越え平和を誓ってきた市長が入札トラブルが原因で凶弾に倒れました。

 どんな悲劇が起ころうと、アメリカのガン・メーカーは、せっせと製品をつくり続けています。全米ライフル協会は「人を撃つのは銃ではなく人である」という詭弁を使って、銃保有を正当化しようと必死です。そのパワーはクリントン大統領の政治的活動を封じこめるほどにパワフル(おそるべしチャールトン・ヘストン!)です。この銃が日本に密輸(きっとアメリカからの直輸入ではなく東南アジアなどを経由してと思われますが)された米国製回転式38口径銃が長崎で使われたのです。

 さまざまな大義名分をこしらえて、人殺しの道具が日夜、製造され続けています。そして、その利益は、経済を動かし、政治をも動かしているのです。それも、表も裏もなのです。

 自分のことは、自分で守れ。それがアメリカの信念だといいます。守るのはいいですが、「攻撃こそ最大の防御」と考える人もいないとは言えません。もし、ギター感覚で銃が手に入るとしたら、あなたはそれを買って、護身に使いますか?どうですか?

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Daily K-Scale 0534

よみたいときに よめば よゐ

ふるさと、好きですか。

 学生のころ、東京に出た友人のところに遊びに行って、はじめて上京しました。新宿で映画を見て、それだけで舞い上がっていたのを憶えています。そんなものだから、関西の言葉で話すのが恥ずかしくて、たった数日の滞在だったのにもかかわらず、必死で標準語のイントネーションで話そうとしたものでした。

 まだ、漫才ブームもやって来ておらず、もちろん明石家さんまがメジャーなわけでもなく、関西なまりは、とても恥ずかしい存在でした。きっと、上京した関西人は「ふるさとのなまり懐かし…」という啄木的世界観の中で生きていたのではないでしょうか。

 漫才ブームがやってきて、さんまや紳助が人気者になって、関西弁も市民権を持つようになり、次第に東京でも受け入れられるようになっていきました。もちろん、今では、東京に行っても普段どおりの関西弁で話しています。逆に、関西弁を話すことが一種のステイタスやメリットになる場合もあるのです。関西弁で話すだけで、「面白い人」という評価が得られるのですから、第一印象OKみたいな状況になるのです。これは、とてもありがたい話です。

 こんな状況ですから、自分たちの方言(これは東京本位の見方であって、関西人は誰も方言とは思っていませんが、わかりやすくするために、あえて方言とします)に誇りを持ち、自信を深めました。

 宮城県栗原市が、先ごろ方言を盛り込んだ市民憲章を作成したそうです。すると、市民からは「意味がわかりにくい」「田舎っぽい」という批判が相次ぎました。市としては、「土地の暮らしと歴史がこもった言葉の方が独自性を強く主張できる」と方言の採用を決めたのだそうですが、市民の意見を募ったところ計187件のうち9割が否定的だったようです。

 「意味がわからない」ということは、方言の使用頻度が少なくなっているのでしょうか。「田舎っぽい」というのは、自分たちの故郷に対する誇りが失われているように感じられます。多くの価値観の基準が東京偏重の傾向に向かっていることは明らかです。が、自虐的に自分たちの拠り所を酷評するのは止めておきたいものです。

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Daily K-Scale 0533

よみたいときに よめば よゐ

ゆっくりお別れしましょう。

 祖母が亡くなったときも、祖父が亡くなったときも、世話をしていた叔父の家で葬式が執り行なわれました。親せきが20名から30名も集まって、通夜から本葬、そしてその後の宴会まで、叔父の家で済ませました。その家には、15帖ほどの座敷がふたつあり、襖を開ければ30帖くらいの広大な空間ができるのです。数家族が泊まれる部屋もありました。いわゆる田舎のつくりなのです。そこで、ぼくたち遺族は、故人とゆっくりお別れをすることができました。

 最近、「家族葬」というスタイルが増えているそうです。具体的には、祭壇を設けたリビングに和室やダイニングキッチン、風呂やトイレまでを完備し、まるでマンションの一室のようにしつらえた専用会場が人気を博しているそうなのです。ここで、故人の家族や友人たちは、一夜を過ごし、心ゆくまで別れを惜しむのだそうです。

 祭壇に故人の好きだった花を飾るのはもちろん、専門の料理スタッフがコースディナーをつくってくれるサービスが用意されていたり、至れり尽くせりの様相なのですが、費用は踏んだり蹴ったりとは言いませんが、かなりアップするそうです。それでも、問い合わせ数は増える傾向にあり、生前予約セミナー(こんなことも葬祭関連会社は実施しているのですね!びっくり!)でも相談数が増えているといいます。どうやら、自宅にいる感覚で故人とお別れしたい人が増えているのでしょう。

 先に書いた叔父の家での葬儀。あの世界は、田舎風の巨大な家がないとできないことです。マンション住まいでは、自宅で葬儀なんて、夢のまた夢でしょう。葬祭会場を借りてする葬儀は、やはりどこかせわしなく、ゆっくりお別れする気分にはなれません。それが自宅のようなしつらえの空間なら、落ち着いた気分になるのは容易に想像することができます。

 なんとなく焼香して、お棺をクルマに積み込んで、火葬場に行って焼いてもらって終わり。そんな通り一遍の儀式ではなく、故人にゆっくり語りかけたい。そんな家族の温かさが伝わってくるような気がしませんか。住宅事情とはいえ、うれしいものですね。

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Daily K-Scale 0532

よみたいときに よめば よゐ

やっぱり大阪が一等賞…

 ホームレスが全国で6700人減ったそうです!確かに天満橋界隈でもブルーシートの数が減ったような気がします。でも、工事のせいかなぁ、と思っていたのですが…。実際に減っているんでしょうか。

 厚生労働省がまとめたところによると、公園や河川敷などで生活するホームレスの数が、4年前に比べて約6700人減り、約1万8500人になったそうなのです。特に、東京、大阪、名古屋などの大都市で減少が目立っていて、同省の地域福祉課は「景気回復や国の支援で、就労、自立が進んだ結果ではないか」としているそうです。

 一方、関係者からは「隠れホームレス」が増えているという指摘もあがっているそうです。例えば、最もホームレスが減った大阪府の場合(減っても全国最多の4911人)、生活保護を受ける世帯がこの10年で5倍に増え、生活保護で部屋を借りるようになったとか、
若年のフリーターが、携帯サイトで日雇い労働を探し、夜通し滞在できる漫画喫茶を渡り歩くなどといった行動により隠れホームレス」となっているのだそうです。また、行政による公園からの追い出しも進み、調査(調査は、なんと目視で行われる!)では把握しにくい路地裏などに拠点を移す人も増えているといいます。

 厚生労働省が脳天気なコメントをしているのに対して、民間の支援団体などは、シビアにこの問題を見ている感じがします。「経済格差は確実に広がっている。実態が多様化しただけ」と分析しているのですから。

 ところで、調査は生活状態などにも及んでいます。たとえば、生活場所は、公園が35.9%で13ポイント減少する一方で河川敷が31.8%で約14ポイントも伸ばしています。仕事をしている人は、70.4%で、その4人に3人が「廃品回収」をしていて、平均月収は約4万円だったそうです。からだの不調を訴える人も半数近くいたといいます。「高齢化・長期化」の傾向も認められているそうです。

 景気回復、バブル再来…などと、世間は浮かれ気味の傾向にあるようですが、確実に格差は広がっています。「隠れホームレス」があるように「隠れ負け組」なんてのも現れるかもしれませんね。

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2007年4月19日 (木)

Daily K-Scale 0531

よみたいときに よめば よゐ

おぉ、クレイジィ。

 近ごろ、なにかとマルく納まろうとしていたような気がします。オトナぶったシタリ顔を決めて、「分ってますよ」みたいな爽やかな態度を取ろうと努力していたように思います。

 はて、ぼくはこんな人間だったのだろうか…と、思わせてくれた記事がありました。タイトルは、『クレージー創造力』。早い話が、「過去の既成概念を否定するところからしか、新しいものは生まれない」ということが書いてあったのです。

 「訳のわかった人は自分を世の中に適合させる。わからず屋は自分に世の中を適合させようとがんばる。だからすべての進歩は、わからず屋のおかげである」と劇作家バーナード・ショーは言ったそうです。確かに、まわりの人から「やめときなさい」とか「失敗しますよ」とか言われたものが成功を収めることも多いですね。

 過去の延長線上をトレスしてもサクセスは掴めないのです。パラダイムの谷をエイヤっと飛び越えた人が、新しいマーケットを自ら創造して成功するケースが多発し始めたということだ、と記事には書かれています。そう、一見「クレイジィ」ともとれる大胆な発想やアイディア、行動こそが、時代をブレイクスルーさせる商品やサービスを突然変異的に生み出すのです。

 こじんまり納まっていては、新しいものをつくりだすことはできないのです。「人を驚かせてやろう」とか「人とは違うことしてやろう」という積極的な姿勢が、求められているのでしょう。

 と、「クレイジィ」を言葉で語るのは簡単なのですが、いざ実践するにはどうしたらいいのか。それが、なかなか分らないから困るのですね。そんな時、ぼくは、視線をズラすようにしています。たとえば、90°角度を変えて、早い話が、真横から見てみる、あるいは真上から、さもなくばローアングルで…。これでもダメなら鏡に映してみる、焼いてみる、切ってみる、噛んでみる、などなど。五感で感じられることは何でも試してみるのです。

 自分でも「こんなことするヤツはおらへんで!」と思えるようなことならOK。自信を持って「わからず屋」してもいいんじゃない?

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Daily K-Scale 0530

よみたいときに よめば よゐ

3億あればプロ。

 政府の見解によると、投資家にはプロとアマチュアがあるらしい。そのプロとアマチュアが同じマーケットで同じ投資をしてお金儲けをするのである。そこで、金融庁は考えました。「専門知識が少ない一般の個人投資家(すなわちアマチュアでしょ)をこれまで以上に手厚く保護しなければ!と。

 ぼくらの世代までは、「投資なんかするとヤケドするよ。あんなのは博打なんやから」と教えられて大人になりました。ま、こんな言い方はかなり偏った発言だとは思いますが、いずれにしても安定して儲かるわけではないのが投資市場のはずです。多少痛い目に会ったりするからこそ、学ぶこともあるのです。それを、「アマチュアを保護しなければ…」というのは、やはり、どこかおかしい。そう思いませんか。

 例えば、プロ野球のチームに、一人高校生が混じっていたとします。その時、「まだ専門的な知識も少なく、スキルもレベルに達していないアマチュアなので手厚く保護して、手を抜いた対戦をするように」なんてお達しが出たらどうでしょう。みんな「?」をアタマの上にいくつも浮かべるはずですね。

 痛い目に会いたくなければ、投資なんかしなければいいのです。みんな「プロ」みたいな顔をして、市場に入って、儲かっているときはプロみたいな顔を続け、損したとたん「アマチュアをいじめるな!」と逆ギレするわけです。そんな人たちの負け犬の遠吠えにいちいちつきあっていては、いけないのではないでしょうか。

 人は覚悟を決めて、ことを起さなければならないときがあります。たとえ、それがゲームであったとしても、はじめてから文句をいうことはできないはずです。ましてや形勢が不利になったから文句をいう、では男が立ちません。どんな事態になっても慌てず、騒がず、の冷静な態度で臨みたいものです。

 ちなみに、金融庁が決めた「プロの投資家」の要件は、資産から負債を差し引いた純資産額が3億円以上で1年以上の取引がある人だといいます。そんな「プロ」ってホントにいるんでしょうか?

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Daily K-Scale 0529

よみたいときに よめば よゐ

代わりに口を出しますか。

 日本といえば「お金でホホをひっぱたく国」みたいな印象があって、外国からは「なにもしない金持ち国」と思われている傾向にあるそうです。

 が、しかし、なのです。経済協力開発機構(OECD)が、先日、発表した2006年度の政府開発援助いわゆるODAの実績(暫定値)によると、日本は前年比11.7%減の116億ドル(約1兆3700億円)となり、英国に抜かれて前年の2位から3位に転落しました。

 ひところは「ジャパンイズNo1」と言われ、常にアメリカと首位を争ってきたのですが、日本が3位になるのは1982年の4位以来、24年ぶりのことです。

 原因は、政府が財政再建策を進めODA予算を縮小し続けているから。国民からすれば「ぼくらの方が辛いくらいやのに、なんで外国にお金をあげなあかんの?」という疑問が沸いてくるODAでありますが、この額によって、国際社会での発言力が決まってくるというのですから、一概に予算縮小を手放しに喜ぶことはできません。

 例えば、昨年11月には、世界保健機構(WHO)の事務局長選挙で、日本が推す候補が中国人候補に敗退しました。また、05年のOECD事務局長選挙でも敗退していて、「負け組」が定位置となりつつあるのです。これは決してODA拠出額の減少と無関係でないといわれているのです。

 新興援助国の代表格である中国は、アフリカ諸国への「ばらまき政策」で、確実に影響力を増加させています。少し前の「日本の国連常任理事国入り」への動きもアフリカ勢の票によって「時期尚早」という結論になりました。また、アフリカの資源が確実に中国に流れはじめているともいいます。それほどODAは影響力を持っているようなのです。

 お金は出す。口は出さない。…これってスポンサーの理想だと言いますが、国際政治の舞台では、そんなお人よしでは埒があきません。出したお金以上に口を出す。それほどの覚悟と姿勢で政治に当たってほしいものです。

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2007年4月17日 (火)

Daily K-Scale 0528

よみたいときに よめば よゐ

握る力は、生きる力。

 プロのギタリストはみんな指立て伏せをしている、というウワサを聞いたことがあります。ほんまかいな?とずっと思っていたので先日、ギターの師匠TACOさんに真偽のほどを尋ねてみたら、そんなこと誰もしてへんで、ということでした。指立て伏せでつけた筋肉は、返って指の動きを悪くするそうなのです。それより、腕を真っ直ぐ伸ばして、指を手のひら全体で弾くようにする訓練の方がよい筋力がつくそうです。ギタリストを目ざされている方、ぜひ、参考にしてみてください。

 話変わって、握力つながりなのですが、「放射線影響研究所」という日米共同の機関が「握力が強い人ほど長寿の傾向がある」という研究論文を米国の医学雑誌に掲載しました。

 佐々木英夫専門委員らの研究グループは、1970年から72年に同研究所で握力測定を受けた4912人を対象に99年末までの期間、死亡時期や死因を追跡調査し、年齢層別に握力の強さに応じて男女を各5グループに分け、握力と死亡の関係を分析しました。

 その結果、握力が強いほど心臓疾患や脳卒中による死亡率が低くなると指摘。ただし、がんについては握力との関係は認められなかったそうです。佐々木委員は、握力はからだ全体の筋力量や強さの指標となるとして、「長生きのためには、運動して筋力を蓄えることも大事」と強調しているそうです。

 手を動かすと脳が活性化されて、アタマがよくなる、という話を聞いたことがあります。特に、右手を動かすと左脳が刺激されて、かなり知能指数がアップするという、まるで「あるある」的な指摘も耳にしたことがありました。かなり、眉唾ものだとは思いますが、とにかく手を動かすことは、脳にとってもいいことであるのは、確かなことのようです。

 腕を伸ばして、指を弾く。このエクササイズをちょっとマジに実行してみたいと思います。これで、ギターのテクニックは向上し、握力がアップすることで長寿も手に入る。まったく一石二鳥です。握力増進で、世界最高齢ギタリストをめざそうかな…(笑)。

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2007年4月15日 (日)

Daily K-Scale 0527

よみたいときに よめば よゐ

ジャンヌ・ダルクの骨。

 今から140年前の1867年、パリのある薬局で大発見がありました。それは、布の断片と猫の骨といっしょの焦げたような黒ずんだ肋骨でした。薬局の屋根裏にひっそりと置かれていたといいます。しかし、それは、ただの骨ではなかったのです。それには、ジャンヌ・ダルクの遺骨である旨が記されていたのです。

 ジャンヌ・ダルクといえば、600年近く前の1431年に、魔女裁判の末、フランス北部のルーアンで火あぶりの刑に処せられた国民的英雄。その遺骨だというのですから、どれほどのニュースだったのか、想像がつくというものです。さらに、ローマカトリック教会はこれを正式にジャンヌ・ダルクの遺物と認め、シノンにある博物館に保管していたといいます。

 その遺骨が、先ごろフランスの研究チームによって詳細に分析され、結果が報告されました。ま、みなさん、だいたいの予想はついているのではないでしょうか。

 分析は、放射性炭素年代測定や電子顕微鏡など最先端の技術と手法を駆使して行われました。それで判明したことは、遺骨は紀元前3~6世紀のものであること。また、彼女が処刑された時期にはその地域になかった松の花粉も検出されたそうです。

 さらに、火葬ではなく、腐敗によって生じるとされるバニラ臭があることやエジプトで死体の防腐剤に広く使われていた松の樹脂が用いられていることなども判明しました。

 結局、この遺骨は、ジャンヌ・ダルク嬢のものではなく、エジプトのミイラのものだったのです。

 発見されたのは、もしかして4月1日だったのでしょうか。いやいや、まさか…ですよね。でも、単なるシャレなのか、イタズラなのか。それとも、あくどい詐欺なのか。どんな経緯で、パリの薬局の発見劇があったのか、詳細がわからないので、なんとも言えませんが。ただ、真実が謎の方がいいこともありますよね。夢があるというか…。だって、科学の力が、ネッシーを絶滅させたのだから…。夢は覚めない方が、甘くておいしいこともあるのですから。

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Daily K-Scale 0526

よみたいときに よめば よゐ

必要なのは感謝の気持ち。

 日本には、昔から捕鯨という文化があって、各地にさまざまな風習が伝えられているのですが、いまや「捕鯨は、あの賢いクジラを虐待する行為だ」ということで、その文化は風前の灯火となっていることは、多くの人が知っていることだと思います。

 「動物虐待」という言葉で、文化が消されようとしている事例が先ごろヨーロッパでも起こりました。ところはスペイン。そう、あの「闘牛」がやり玉にあがっているのです。

 欧州連合(EU)の欧州会議でのこと。「動物虐待の要素が強い」などとして、域内での闘牛の禁止を目ざす動きが活発化している一方、スペインの闘牛関係者が「闘牛は欧州の“文化遺産”」とする反論文を発表し、全面対決になろうとしているというのです。

 現在、欧州連合では、捕鯨や闘鶏など、加盟国の歴史や伝統に根ざした行為でも動物虐待は許されないとの世論が拡大しているといいます。一部の欧州議員が禁止法制の検討を求める声明を出しているのだそうです。

 「スペインの70%の自治体で闘牛が行われ、牛の飼育・放牧は環境保全の重要な一環となっている」との主張をスペインは発し、すべての欧州議員に闘牛禁止の法制化などを断念するようにお願いしているそうです。また、フランス南部やポルトガルにも闘牛の伝統があり、スペインの業界筋は「両国とも支持してくれるはず」と目論んでいるようです。

 日本やノルウェーの捕鯨、東南アジアの闘鶏はもちろん、英国の狐狩りなど、単なる狩猟を超えて、民族のアイデンティティを支えている行為っていろいろあると思います。確かに、大切な命を奪っているかもしれませんが、そこには「命を提供してくれたものへの感謝」が必ず存在しています。一方で、牧場で食肉のために飼育されている動物たちにどれほどの感謝が向けられているでしょうか。

 捕鯨国と闘牛国などが手を取り合って、食肉工場志向国に対して命への感謝を説いていく必要があるのではないでしょうか。放牧されている牛や羊は、モノではなく生命体であるのですから。

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Daily K-Scale 0525

よみたいときに よめば よゐ

誰を守る薬なのか?

 スタートは2001年2月でした。インフルエンザ対策の救世主として「タミフル」がデビューしたのです。インフルエンザが蔓延した時期には、世界中の国々が、タミフル確保に走り、品切れが続出し、たいへんな事態になったこともありました。それほど、信頼性の高いインフルエンザ治療薬だったのです。

 しかし、先日、輸入販売先の中外製薬から厚生労働省に事例報告書が提出されました。それによると約1000人の事例のうち、何らかの異常な行動を起した患者が128名もいて、そのうち8名が死亡していたそうなのです。異常行動を起した患者のうち、約8割を占める100名が未成年で、10歳未満は43人だったといいます。

 異常行動の詳細も報告されています。「ベランダへ走っていき、手すりにつかまって飛ぶ動作をした」「奇声を発し、勢いよく外へ飛び出していった」「幻覚や妄想が現れて包丁を持ち出した」「人形に話しかけていた」「意味なく笑いだした」「ひたすら九九を唱えはじめた」などのケースがあったそうです。

 当初、タミフルと異常行動の間には因果関係はないとつっぱねていた厚生労働省でしたが、インフルエンザではなかった患者にタミフルが投与され異常行動に至っていたことなどが発覚。10代への投与を原則的に中止する一方、10歳未満にはインフルエンザで死亡するリスクが高いので処方を認めるという方針で対応しています。

 タミフルによる異常行動は、ずい分前から話題になっていました。国はやっと重い腰を上げたか、というのが素直な感想です。製造元のアメリカの企業の重役の椅子には、先ごろまでブッシュ政権で指揮を執っていたラムズフェルドが就いているというキナ臭い話も流れています。舞台裏では、まるでハリウッド映画なみのストーリーが展開しているのかもしれません。

 輸入元企業も薬物を審査する機関にさまざまな寄付などをして、事実上の口封じをしていたような節を感じずにはいられません。誰かが自分の権益や利権を守るために、多くの人々を犠牲にしている。残念なことですが、そんな気がしてしかたがありません。

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2007年4月11日 (水)

Daily K-Scale 0524

よみたいときに よめば よゐ

日本のふるさとが消えていく。

 母方の祖父母の家があった集落は、ダム建設によってダム湖に沈みました。先祖代々住んでいた土地とほぼ同価値の土地をあてがわれ、家を建てて新天地で暮らしています。人は移住して暮らしを続けていますが、みんなの暮らしの舞台であった集落は、確実に消滅してしまいました。いまや見る影もないのです。

 今後、全国の2641の過疎集落が消滅する。うち422の集落は、少なくとも10年以内に消える―こんなショッキングな予測を国土交通省が発表しました。

 これは、過疎地域自立促進特別措置法に基づいて、過疎地域に指定されている775市町村(人口約1,128万人)を対象に集落の将来予測を尋ねたものの結果発表です。

 今、過疎の集落は、その生活の舞台としての機能を壊滅的に低下させてしまっています。このままでは、山林の管理や伝統行事などの継続がままならないのです。山林の管理ができなければ、災害の危険が高まり、伝統行事もできないほど近所の結びつきが弱まれば行政コストの増加につながります。そんな集落が全国で5939もあるというのです。しかも、その中でも2917の集落は機能の維持が困難なのだそうです。

 このような危険性を持った集落は、特に四国に多くあり、東北や北海道が続いています。前回、この調査が行われたのは1999年度。それ以降に消滅した集落は191でした。その理由は、居住者の死亡などに伴う自然消滅やダム建設などの公共工事に伴う集団移転によるところが多いのですが、過疎が進めば進むほど、日常生活での集落単位で行ってきた助け合いができなくなり、ますます生活機能を低下させるという悪循環に陥るといいます。

 都市と過疎地。これもひとつの格差。平成の大統合が、この現象に歯止めをかけるのか、加速させてしまうのか。即に答えが出るとは思いません。ただ、都市的視点だけで突っ走ってしまってはいかがなものかと思います。住む人の居なくなった廃墟を見るのは、とても寂しいものです。たとえそれがダムの底であったとしても…。

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Daily K-Scale 0523

よみたいときに よめば よゐ

歌ってみたい。

 五十音のうた

 水馬(あめんぼ)赤いな、ア、イ、ウ、エ、オ。
 浮藻(うきも)に小蝦(こえび)もおよいでる。
 柿の木、栗の木、カ、キ、ク、ケ、コ。
 啄木鳥(きつつき)こつこつ、枯れけやき。
 大角豆(ささげ)に酢をかけ、サ、シ、ス、セ、ソ。
 その魚(うお)浅瀬で刺しました。
 立ちましょ、喇叭(らっぱ)で、タ、チ、ツ、テ、ト。
 トテトテタッタと飛び立った。
 蛞蝓(なめくじ)のろのろ、ナ、ニ、ヌ、ネ、ノ。
 納戸(なんど)にぬめって、なにねばる。
 鳩ぽっぽ、ほろほろ、ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ。
 日向(ひなた)のお部屋にゃ笛を吹く。
 蝸牛(まいまい)、螺旋巻(ねじまき)、マ、ミ、ム、メ、モ。
 梅の実落ちても見もしまい。
 焼き栗。ゆで栗。ヤ、イ、ユ、エ、ヨ。
 山田に灯(ひ)のつく宵の家。
 雷鳥は寒かろ、ラ、リ、ル、レ、ロ。
 蓮華(れんげ)が咲いたら、瑠璃(るり)の鳥。
 わい、わい、わっしょい。ワ、ヰ、ウ、ヱ、ヲ。
 植木屋、井戸換え、お祭りだ。

 詩:北原白秋 曲:下総皖一

 曲がわからなくてもいいのです。これを声に出して言ってみる。それが大事なんだと、『声でコミュニケーション―日本語の発声から朗読まで』(川和孝著)に書いてありました。大きく口をあけて、一語一語歌詞を明確に発音するといい、とも記されています。

 “美しい詩を、メロディにのせて声に出すよろこびを体験した人は、ほかの人の心のよろこびや悲しみを理解することもできるはずです”と川和氏は言っています。メロディーを調べて、ぜひ、歌ってみたいと思います。見つけられた方がいらっしゃったら、教えてくださいね。よろしくお願いします。

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Daily K-Scale 0522

よみたいときに よめば よゐ

空気は商品になるのか。

 ものごとは俯瞰から見ないとわからない、とよく聞きますが、実際に人工衛星から見たら、地球の現状がよくわかるようです。

 米航空宇宙局(NASA)の地球観測衛星「アクア」が今年の2月初旬に撮影した北東アジアの写真には、とても不気味なものが写っていたそうです。

 それは、中国から日本に至る北東アジア全域をすっぽり覆うもやです。少し煙がかかったように見える帯のような状態で、北京から上海周辺の平野部から立ち昇っているように見えます。そして、そのもやは、偏西風にのって東シナ海をわたり、韓国や日本にまで達しています。

 もやの正体は、中国で盛んになってきている石炭火力発電や急増する自家用自動車の排気ガスなどの大気汚染物質である可能性があることをNASAが指摘しています。

 先日から、黄砂がなにかと話題に上っていますが、このもやとの関係を想像しながら聞くと、背筋が凍る想いがします。今、降りそそいでいる黄砂にしても、中国の上空を舞っている際に、窒素酸化物や硫黄酸化物などの大気汚染物質を大量に吸収して日本にやって来ていると言われています。光化学スモッグや酸性雨だけでなくて黄砂自体もかなり危険な存在なわけです。

 それに加えて、このもや問題です。黄砂や光化学スモッグなどはまだ目に見えるので、危険を察知することもできるでしょう。しかし、このもやは地上から見えるのかどうか。知らず知らずのうちにぼくたちは、このもやを肺の奥深くまで吸い込んでいるかもしれないのです。そして、このもやの正体はまだ明らかになっていない。こんな恐ろしいことがあるでしょうか。

 昔、水はお金を払って手に入れるものではありませんでした。それが、今や安全のために、健康のためにお金を払って買うものになってしまいました。空気も、そのうち「商品」として売られるようになるのでしょうか。失くしてから気づいていては、遅い。自分の周りの空気のこと、そろそろ真剣に考えなくてはならないようです。

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2007年4月 6日 (金)

Daily K-Scale 0521

よみたいときに よめば よゐ

ネズミ料理。

 先日、スタッフと、「ネズミ料理って聞かんなぁ」と話していたのだけれど、ふと気になってネットで検索してみたら、ありました。ネズミ料理の話題。人類は実に好奇心旺盛です。

 まず、中国でのデータ。今年3月のことですが、広東省仏山市の一部レストランで、野ネズミ料理が出されているのが発覚し、仏山市衛生監督所が各レストランに野ネズミ料理を禁止する通知書を出したといいます。野ネズミを捕獲・調理する過程で、寄生虫やウイルスが人に感染する可能性が高く、また感染症だけではなく、雑食のネズミの体内には高濃度の科学物質が蓄積されているため、中毒症状を引き起こすリスクも高いのが理由だと言われています。写真を見てみると、京都の伏見稲荷大社で売られている「スズメの丸焼き」のような風体です。おいしいか、確かめたいものですね。

 もともと中国は「四本足は机以外、二本足は親以外、すべて食べる」という食文化の国。特に広東料理では、ネズミはおろか、蛇、ハクビシン、猫、犬、サルなどの野生動物が食材になるのですね。

 もうひとつはアンデスからの情報です。これは、「テンジクネズミ」という、いわばモルモットに近いようなネズミの話題。そのサイトによると、テンジクネズミはペルーやボリビアのアンデス民族の伝統的な食材で、肉類をほとんど、あるいは全く口にできないような貧しい人々にとって重要なタンパク源となっているそうです。一般的に炭火で焼き、スパイスでマリネにしたり、煮込み料理にして食べられているそうです。調理方法はウサギと同じ、味もウサギに近いそうです。びっくりするのが入手方法。ペットショップや専門市場で入手することができます、とあります。このサイトによると、テンジクネズミの肉で、貧困にあえぐペルーやボリビアの子どもたちを援助しようとしているようです。

 ネズミを趣味で好んで食べる人、貧困のために止むなく食べている人。人類には2種類の「ネズミを食べる人」がいるようです。飽食の日本人は、これから、どちらに向かうのでしょうかね。できればネズミを食材にしないでいたいものですが。

※詳しくは
中国ネタ
http://www.recordchina.co.jp/group/g6946.html
アンデスネタ
http://www.intervidajapan.org/Discover/Recipes/Cuy.htm

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2007年4月 5日 (木)

Daily K-Scale 0520

よみたいときに よめば よゐ

基本が基本。

 中学時代から弾きはじめたのだから、もうかれこれ30年近いキャリアがあるのだけれど、一向に基礎ができていないので、全然うまくならないのが、ぼくのギターです。

 そこで一念発起して、昨年からギター教室なるものに通い出して基本から学びなおそうとしているのですが、これがなかなかに手ごわいというか、身につかない。まったく身につくのは脂肪ばかりで借金で首がまわらないだけでなく、腰も回らなくなってキレの悪いことったらありゃしない…。と、話の道草はこれくらいにして。

 ギターの先生は、以前に書いたこともありますが、長田TACO和承さん。ラップスティールの天才で、デビッド・リンドレーとかいろんなミュージシャンと共演していて、そうそう最近ではゴンチチのチチ松村さんのソロアルバム『半音生活』(4月4日リリース!ショップに急げ!)でも華麗なるプレイを披露されています。で、やさしくも奥の深いTACOさんの指導を仰ぎながら精進しておるところなのですが、レッスンを受けるたびに、自分の基本のゆるさが次々と露見して、まったく落ち込む限りなのです。

 もしかして、ぼくの人生って基本のできていない「なんちゃって人生なんじゃないだろうか…」ふと、そんな不安がよぎるのです。なんとなく、40年以上も生きてきてしまったけれど、いったい何をしてきたんだろう。

 なんとなく流されて生きていくことは、簡単とはいいませんが、難なくできそうな気がします。実際そうでした。「器用だね」とか言われていい気になっていたんだと思います。でも器用と器用貧乏とは、まったく質が違うのです。その違いはどこにあるか。それは「基本」なのでしょう。「基本」ができた上で、器用を発揮すれば、「本物」です。プロです。が、「基本」もなく器用に振る舞えば、それは「なんちゃって」。不惑の歳を迎え、遅まきながらもぼくは「基本」を身につけて「本物」をめざしたいと思います。TACOさんも言ってました。「遅いなんてことないで。今からやったらええんや」と。勇気をありがとうございます。

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Daily K-Scale 0519

よみたいときに よめば よゐ

ネタストック。

 毎日、よくもそうネタがありますね、と感心されることがありますが。正直言って、すらすらと何本も書ける日があるかと思うと、悶々として一向に筆(いやはやキーボードでしょうか)が進まぬときもままあるのです。

 このギャップはどこからうまれるのだろう?と、あれこれ思索の旅に出てみたら、どうやら、精神的というかメンタル面での影響が多いようなのです。うれしいとか、よかったとか、楽しいとかの感情の方にバランスしているときは、筆が自然に文を綴っていくように感じられます。逆に、悲しいとき、落ち込んでいるとき、悔しいとき、たまらないとき…こんなときは、まともに文章と向かい合うことができないようなのです。

 文章とは、すなわち論理的で理知的なもののはずです。感情だけに委ねて筆を野放図に動かしてしまったら、支離滅裂な文章もどきの文字の列しかつくることができないでしょう。それでは読む人になんのメッセージも伝えることはできないはずです。

 本来ならご法度なのでしょうが、たまに「実験くん」と称して、何も計画せず、構想もせず、手の動きに合わせて文章をつくろうとするときがあります。そう、まさにジャズやロックのミュージシャンたちが楽しむインプロビゼーションのようなことが文章でできないか、というチャレンジなのですが、いまのところ、自己満足の域を超えることができていません。文字では難しいのかしら。声や書なら、そういうインプロビゼーション的なアプローチは昔から行われてきましたものね。吟遊詩人であるとか、ライブ書道とか、いろんなパフォーマンスが試されてきました。

 でも、よく考えると、文章ってそういう切り口でパフォーマンスされることってなかったような。あ、連歌とか短い文章でのアプローチはありましたね。和歌の世界は、そういうコミュニケーション機能が多々あったようですね。

 いずれにしても、即興で一定の水準を披露するには、やはり引き出しの数が問われます。ネタを持っている…大きなポイントです。

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2007年4月 4日 (水)

Daily K-Scale 0518

よみたいときに よめば よゐ

新メタボリッくん。

 街の雰囲気が少し違います。どこが変わったのかなぁ、とちょっとだけ詳しく眺めてみたら、あ、そうか、新入社員くんたちが集団で歩いているんだ、ということに気がつきました。

 同じようなスーツを着こんで、よく似たカバンを持って、ぞろぞろと列を組んで歩いているさまは、まるであひるのヒナたちのようで微笑ましくもあり、ちょっと不気味でもあります。

 そんな彼らを観察していて気づいたのですが、けっこうポッチャリタイプの男子が多いのです。いわゆる「メタボリッくん」です。イメージ的にはカンニングの竹山タイプでしょうか?少し脂肪が気になりますよね、くらいのプチデブちゃんが集団で闊歩しているわけです。一瞬、どこの「部屋」ですか?と聞きたくもなります。

 彼らがこれからの日本を背負って立っているんだ。そう思うと、あのガタイのデカさは頼もしい限りです。でも、生活習慣病を患っていないのか、などと老婆心ながら心配したりもしてしまいます。彼らにぼくらの未来が託されているんだなと思うと、「がんばれ」とエールを送らずにはいられません。

 せっかく就職しても3年で離職する若者が増えているといいます。「やっぱり合わなかった」という理由が多いと聞きます。どこか、離婚の理由に似ているようにも感じますが。今、天満橋界隈を闊歩しているメタボリッくんたちも、3年ほどでまた違う道を探して、社会の大海原に飛び出していくのでしょうか。「相性がよくないんだよねぇ…」なんて言いながら。

 昔のフレッシャーたちは、「スーツに着られている」とか言われて、容姿のぎこちなさがよく指摘されたものでしたが、今どきの新人くんたちは、実にスーツの着こなしも板についていて、そこは高く評価されるべきなのですが、その分、線が細い印象もつきまといがちです。パワーが足りないな、というイメージなのです。

 4月、新入社員だけでなく、世間にはいろんな新人があふれます。かわいい小学生、制服が初々しい中・高生。みんな未来を拓く大切な存在。一直線でなくてもいいから、たくましく伸びてください。

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Daily K-Scale 0517

よみたいときに よめば よゐ

追うか、追われるか。

 最近、余裕がないというか、世間に疎いというか…、知らない間にプロ野球が開幕し、高校野球は終盤に突入という感じで、なんか時流に乗り遅れた気分です。

 特に3月下旬は、フォークジャンボリーへの参加や急ぎの仕事、編集学校の課題などが山積みとなり、まさに「心を亡くす」忙しい状態で、諸事情にただただ「追われていた」のです。

 追いかけられるのと、追いかけるのと、どちらが好きですか、という究極の質問がありますが、ぼくはいったいどちらだろう?と考えてみると、やはり追いかけているほうが性に合っているのかなと思います。

 追いかけることは、自己意識で続けたり止めたりができます。イヤになれば止めればいいし、とことんしつこくするなら続ければいいいのですが、追いかけられることは、追う側の意志に任せて継続されてしまいますから、いつ終わるか自分にはわかりませんので、とても辛い、いつ果てるのかわからないことほどしんどいことはないでしょう。

 たとえば、グラウンド100周を命ぜられたとして、「止め」というまでグランドを周回していろ、という命令と比べてみてください。後者が80周で「止め」となっても、心理的プレシャーは、やはり後者のほうが強いと思いませんか?ぼくなら、はっきり結論を先に出してもらったほうが、ずっとずっと気が楽です。ぼくにてって追いかけられるというのは、後者のような気分にさせる行為なのです。

 自分の意志で決められないことほど、辛いことはありません。たしかに、自分の意志で決めるには、強靭な意識が必要で、なかなかできることではありません。ついつい妥協したりしてヘタれてしまうものです。でも、ヘタれながらも経験を積み、学習を重ねていけば成長できるでしょう。追いかけられながら、いろんなことを学ぶこともできるでしょうが、ぼくは、そのプレッシャーには耐えられないかもしれません。いずれにしても、心臓はバクバクするのですから、気が楽なほうを選ぼうと思います。

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2007年3月31日 (土)

Daily K-Scale 0516

よみたいときに よめば よゐ

友逝く。孫来る。

 昨年末に孫が生まれました。地方紙には、地元情報として地域の出生届を紙面に掲載しているものがあります。わが家が購読している京都新聞にも「丹波版」というエリア密着ページにそんなコーナーが「きょうの赤ちゃん」みたいなタイトルを付けられて設けられています。

 うちのおばあちゃんは、息子と孫の名前が載っているところに蛍光マーカーでチェックを入れ、大切に保存していました。ま、ご愛嬌というところですか…。

 数日後、おばあさんは、彼女の友人であり、ぼくの同級生でもある女性から「お孫さん生まれたんやね、おめでとう。でも、なんか考えさせられたわ。というのも、横のお悔やみ欄に同級生の名前が載ってたんやもん」と言われたそうなのです。

 この話を聞いて、ぼくはびっくりして、もう一度その日の新聞のお悔やみ欄をじっくり見てみました。「!」。確かに同級生の名前がありました。一瞬、同姓同名では?とも思ったのですが、住所も一致しています。大都市でもないし、どちらかというと珍しい部類に入る名前の人物です。間違いないでしょう。以前から病気がちだ、とか、入院しているとか、のウワサは聞いていました。が、命までとは思ってもいませんでした。

 なんとも複雑な気分です。一方では、わが孫の名前がまぶしいほどに輝いて掲載されている。その隣のコーナーでは、高校時代に親しくしていた友人の名前がひっそりと載っている。なんというギャップ。なんというコントラスト。偶然とひとことで済ますことのできない「なにか」を感じます。人生ってなんなのだろう、と思ってしまいます。「諸行無常の響きあり…」。その意味をこんなカタチで思い知らされるなんて…。

 心よりご冥福をお祈りしたいと思います。そして、そんな歳になってきたのかな、という実感に包まれています。友人を失い、同時に祖父となる。これも人生の切片なのでしょうか。誰にも止められるわけもなく、時は淡々と通り過ぎていくのですね。

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Daily K-Scale 0515

よみたいときに よめば よゐ

はかない人生。

 京都限定だと思うのですが、子どものころ、テレビで「墓のない人生は、はかない人生ですからね」とおっちゃんが語りかけるコマーシャルが流されていました。もう30年くらい前の話ですかね。当時は、「なかなかうまいこといいよるな、このおっちゃん」と思って見ていました。もしかしたら、今の仕事をする源泉になったのかもしれません(笑)。

 今、このフレーズがシャレにならない状況が発生しているそうです。というのも、縁者の核家族化や少子化、転居などが理由で世話の行き届かないお墓が増えているそうなのです。中には、雑草がぼうぼうに生え、荒れ放題のお墓も多いといいます。そんな、身近にお墓を守る人がいない「無縁墓」がじわりじわり増えているそうなのです。まさに、人は死んでからなお「はかない」状況に追いやられていることになっているようなのです。

 「無縁墓」にしてしまうとご先祖さまに申し訳ないと、事前に撤去を寺院や墓地に願い出る家族もいるそうで、石材屋さんへのお墓の解体や撤去の依頼が急増しているといいます。

 一方、寺院側も墓地の管理料が一定期間(例えば5年とか)払われない墓地に関しては、墓地管理の適正化のために撤去する趣旨を明示しているところもあるようです。実際に、こうしてできた「無縁墓」を数年ごとに撤去し、遺骨を合葬墓に移している寺院も出てきています。そんな寺院によると「建立後20~30年で近親者と連絡が途絶える墓がある」そうです。ということは、だいたい一世代で途切れるということのようですね。

 寺院墓地は、まだ檀家制がなんとか踏ん張っているので無縁化は少ない方なのですが、利用者とのつながりが稀薄な民間霊園では、無縁墓になる割合が高くなるといいます。

 これから、どんどん少子化が進みます。地縁も血縁も、ますます薄くなっていくことでしょう。すると、さらに「お墓の無縁化」は加速していきます。ロッカーのようなお墓も増えるでしょう。そんな祀られ方をしたご先祖さまは、現世をどう思うのでしょうかね。

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2007年3月30日 (金)

Daily K-Scale 0514

よみたいときに よめば よゐ

こんなところも温暖化。

 冬はどこに行ってしまったのだろう?今シーズンの暖冬は、地球温暖化をぼくたちにわかりやすく実感させてくれたように思えます。そろそろ、真剣に考えて、行動していかないとヤバイぞ、という状態になってきているのですね。

 そんな中、海洋研究開発機構地球環境観測研究センターというとんでもなく長い名称の研究機関が、ある調査結果を報告しています。

 そのレポートとは、南極付近から太平洋の底に流れ込む海水の温度を計測した調査の結果でした。同機構の研究船「みらい」を使って1999年から2005年までの6年間、海水の経路に沿って温度を精密観測。そのデータを90年代前半の観測値と比較したところ、水温が0.005℃から0.01℃上昇していることが判明したそうです。

 0.005℃から0.01℃と言われても「なんだ、それくらいの温度変化なんて、影響少ないんじゃないの」と思うのですが、ところがどっこいなのです。水は比熱(物質の単位質量の温度を1℃上げるのに必要な熱量のこと。数値が大きくなるほど温める力も大きくなる。)が大きいので、0.005℃から0.01℃の上昇でも真上にある大気を1~1.6℃も温めることができる熱量を持っているのです。

 南極周辺でできた低層水は、太平洋の3500メートルよりも深い領域を満たしながら北太平洋まで流れるそうです。水温上昇の理由は検証中で、まだ不明なのだそうですが、冷たい低水層の供給が減っている可能性があり、大気の温度上昇への影響が懸念されているのだそうです。

 わかりやすい温暖化の現象も恐いものがありますが、実は上記の例のような、人知の及びにくいところで起こっている温暖化現象の方が、もっと恐いと思いませんか。深い深いところで、じわじわと進んでいる病気が、ある日突然、症状を発現させる。その時はじめて、「あ、あれが予兆だったんだ!」なんて気づかされる…。

 今回の南極~太平洋の低層水温暖化が、そんな予兆でないことを祈りたいものですが、果たしてどうなのでしょう。その答えは、もう間もなくぼくたちに伝えられるのかもしれません。

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2007年3月29日 (木)

Daily K-Scale 0513

よみたいときに よめば よゐ

おかしいと感じる能力を。

 ある新妻が感謝祭のために七面鳥をロースターで焼こうとしていました。なぜか彼女は七面鳥のお尻をばっさりと切り落として、オーブンに入れました。そんなことをしなくても入れられるくらいの大きさはあるのにもかかわらずです。

 それを見ていた夫は不思議に思い、彼女に尋ねました。「なぜ、そんなもったいないことをするの?」と。新妻は答えました。「お母さんから教わったからよ」。そこで夫は、彼女の母親に電話して聞いてみました。すると彼女は「おばあさんから教わったのよ」とさらりと答えました。

 夫は今度はおばあさんに電話をして、これまでの経緯を説明したあと、聞きました。「どうして、あなたたちは代々、七面鳥のお尻を切り取るのですか?」と。すると、おばあさんは「え、みんなバカだねぇ。そりゃ、私のオーブンが小さかったからだよ」と笑いながら答えたそうです。

 これは、あるアメリカの漫画のお話だそうです。新聞のコラム欄に取り上げられていたのですが、なかなか示唆に富んだ話だなと感じたので紹介してみました。昔から続いていることだからということで、なんの疑問も持たずに繰り返していることが、なんとも滑稽な笑い話なのですが、こういうことって実際のシーンにもいっぱい見受けられますよね。

 例えば、最近話題の「法的な父親が誰になるか」の問題。民法では「離婚後300日以内に生まれた子は、離婚した夫を父親とする」となっています。これが施行されたのは明治31(1898)年。父親が子への責任を放棄しないように設けられたといいます。ほとんど離婚のない当時はそれでよかったでしょうが、いまや離婚や再婚が珍しくない時代です。もうすでに決まったことだからと、時代に合わないものを、いつまでも守り続けることに、どんな意味があるのか。おかしいことは、すぐに変えるべきなのではないでしょうか。

 おかしいと思ったら変更する。そんな勇気と行動力が大切。なんとなくで踏襲していないだろうか、と常に意識していたいものです。

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Daily K-Scale 0512

よみたいときに よめば よゐ

そういうことだったのか。

 2001年に1バレル20ドル台だった原油価格は、2006年には78ドルという史上最高値をつけるまでに急騰しました。現在は60ドル前後に落ち着いているとはいうものの、その60ドルという価格のうち、OPECやIEA(国際エネルギー機関)の専門家は少なく見積もる人で15ドル、多く見積もる人だと40ドルは投機分の上乗せだと指摘しているそうです。

 従来、モノの価格は需要と供給のバランスで決まるものでした。というのも、古典的な資本主義社会では生産は人々の必要を満たすためのものであり、モノは必需品として購入されていたのです。それがいわゆるボードリヤールの示した消費社会では、商品における需要と供給の関係性が薄くなっていった。つまり、人々の必要とは無関係に、商品の価値が決められてしまうようになったのです。

 石油もかつては、この需給バランスによって価格が決まっていました。だからこそ、OPEC(石油輸出国機構)がカルテルを組んで価格操作することもできたのです。でも、そんな時代は終わってしまったようです。いまや、石油は市場原理という悪魔の手に委ねられ、投機的要素による価格変動が起こっています。そして、この傾向は90年代のグローバル化により加速していったのです。

 たとえば、原油の国際的な価格指標であるWTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)の1日当たりの実需給は約70万バレル(1日当たりの世界の石油産出量は8600万バレル)なのに、先物の1日の取引量は2億5千万から3億バレルに膨らんでいます。これは、石油取引が需給のバランスではなく、投機的要素に影響を受けていることを示しています。もはや、石油市場はカジノ化しているといっていいほどなのです。

 どこかの投機家のために、日本は必要以上に高い買物をさせられています。通常の3~4倍もの高値で石油を買わされているのです。資源の乏しい国ゆえ、暴挙も受け入れざるを得ない。中東の石油に9割も依存し頼りきっている日本の現状は非常に危ういもの。新たなエネルギー対策を実施しなければ、マジ、ヤバイっすヨ。

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2007年3月27日 (火)

Daily K-Scale 0511

よみたいときに よめば よゐ

スタァを待つ。

 「役者」は、もともと寺社で雑役に携わる人のことを言いました。つまり「神事に役を務める者」が「役者」だったのです。それが演じる者の意味で使われるようになったのは中世以降のこと。寺院の諸役を務めていた猿楽法師が「能役者」と呼ばれたことが、そのはじまりとされています。

 古代ギリシアで「役者」を意味する「hypokrites(ヒポクリテース)」という言葉には「偽善者」という意味もありました。他者に成り変わって表現するということが、人を騙すようなイメージで捉えられたのでしょうか。そこには畏怖もありながら蔑視も混在していたように感じられます。ちなみに、当時の役者たちは素人であったけれど、自由市民としての特権と自由を保証されていました。

 いま、演じる人たちを表現する言葉には「役者」と「俳優」の2つがよく使われます。たいていの場合、「役者」は歌舞伎や能の伝統芸能に関わる人たちや大衆演劇の人たちを指すことが多いようです。一方、「俳優」は映画や近代演劇などの演技者をいう場合が多いようです。よって、「役者」の方が古い言葉のように感じられますが、実は「俳優」なる言葉は、『日本書紀』の「神代の巻」に見られるのです。

 いわゆる「天の岩戸」の件で、『日本書紀・神代上第7段』に、「天の岩戸の前で天鈿女命(あまのうずめのみこと)が巧みに俳優し岩戸を開いた」と記されています。ここでの「俳優」は「わざおぎ」と読み、滑稽な動作をして、歌い舞い、神や人を楽しませる技を行うこと、そして行う人のことを言いました。

 今年は、選挙の年。また、いろんな「役者」や「俳優」たちが、政党の候補として担ぎ上げられることでしょう。もうすでに、ウワサレベルではありますが、「え~、あの人が…?」みたいな名前も上っていますね。いくら食べても当たらないような「大根役者」や道化役ばかりの「三枚目」ではなくて、しっかり国の舵取りができるような「千両役者」に立ってほしいものですが。神事に役を務めるくらいの気構えで、立候補していただきたいですね。

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2007年3月26日 (月)

Daily K-Scale 0510

よみたいときに よめば よゐ

背後には、何が隠してあるのだろう。

 京都新聞の「私論公論」というコラムに、京都大大学院人間・環境学研究科助教授の岡真理氏がパレスチナ問題についてこう書いています。ちょっと長いですが、引用してみます。

 “占領者が行使する絶大な軍事力と、被占領者が自らの肉体を武器に己と周囲の者たちを殺傷することの、その圧倒的不均衡を「暴力」の一語で平準化する。そして、占領者と被占領者の非対称性を曖昧にし、パレスチナ問題の根源を隠蔽していまう”

 この発言には、言葉を使うことを生業としているぼくの胸に突き刺さる刃のような鋭さ、痛さがありました。どういうことかというと“圧倒的不均衡を「暴力」の一語で平準化する。”ということがグサリと来たのです。

 ぼくらは、常にいろんな現象や事物、気分、意志などを、できるだけ短く完結に、しかも伝わるように表現する訓練を積んでいます。それは、うまくいけば時代をバサリと斬る言葉となります。でも、どうでしょう。短くすることによって、捨て去られる大切なことってあるんじゃないでしょうか。いや、場合によっては、単純化することによって、伝わる内容が変わってしまうこともあるでしょう。

 まさに岡氏が指摘されている通りなのです。「暴力」という十把一絡げの言葉によって、米軍の誤爆も市民虐殺も市民の防衛のための自爆テロもすべて同じレベルで語られてしまうのです。それぞれの「暴力」の背後にあるさまざまなプロセスだとか意志の動きとかといったものが、すべて拭いとられてしまうのです。その結果、問題の根源はぼやかされ、隠されてしまうのです。

 先ごろ(このコラムでも取り上げましたが)朝日新聞が「ジャーナリズム宣言」キャンペーンで“ことばは、ときに無力だ。でも、ことばの力を信じる”というフレーズを使っていましたが、ぼくはまったく逆だと思うのです。ことばほど力を持ったものは存在しない。すべてを平準化してしまう暴力に対して、それをコントロールする知恵をぼくたちは持たねばならない。ことばの背景に隠されたメタメッセージを解読する想像力を鍛えなければならないのです。

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Daily K-Scale 0509

よみたいときに よめば よゐ

まちの財産は、人のつながり。

 今、地域問題でいちばんホットなキーワードは「ソーシャルキャピタル」だといわれているそうです。これは、お金や土地や技術力だけでなく、人のつながりも資本(キャピタル)で、その地域の財産と成り得るという考え方。「地域力」とも呼ばれています。

 たとえば、定期的に住民のみんながゴミ拾いをする。そんな地域はソーシャルキャピタルが高いといえます。人と人との信頼関係が築かれているからです。地域力とは結局、人間力×人間力という式で求められる数値ですから、個々の人間性の高まりとつながりの深まりが求められるのです。

 お金や土地や技術力などと異なり、人間の信頼関係は関われば関わるほど、強くなり深まります。つまり、消費ではない。使えば、使うほど、価値を増すわけです。その点が画期的だと思いませんか。

 会社での経済活動だけでなく、いろんなフィールドにどんどん飛び出していく。いろんなつながりを、いろんなシーンで試してみる。地域のひとり一人が、ちょっとした好奇心と勇気を持てば、ソーシャルキャピタルはどんどん高まっていくことでしょう。

 ところで、先日『天満のスイッち』という本が出版されました。これは、天満界隈で、知る人ぞ知るお店や人物を、こっそり(?)紹介しようというコンセプトのもと、編集されたムックのような本です。大阪の大きな書店で扱っているようなので、ぜひ、手に取って見てください。オレンジの表紙が目印です。と、少し話が宣伝に寄っちゃいましたが、この『天満のスイッち』なんかもソーシャルキャピタル向上の方策のひとつだと思うのです。天満を愛する人たちが、さまざまなネットワークで複雑に絡み合い、関係することで相乗効果を生み、新たなパワーをつくりだす。「人間力×人間力=地域力」という公式に当てはめてみれば、すごい数値が期待できることでしょう。それほどのポテンシャルがあると思います。

 『天満のスイッち』は、まさに人と人とのつながりから生まれた本です。まちの財産です。いわば、この本は器です。盛られているのは、天満というまちであり、そこで暮らしている人たちなのです。

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2007年3月25日 (日)

Daily K-Scale 0508

よみたいときに よめば よゐ

哀れなカマキリのオスたちよ。

 近ごろ、新聞などでよく「熟年離婚」の特集なんかを見受けます。これは、いよいよ4月にスタートする「厚生(共済)年金分割制度」を受けてのことなのです。

 これまでは会社員や公務員を夫に持つ専業主婦だと離婚すると基礎年金しか受け取れなかったのですが、先の新制度下では、離婚しても夫婦で合意した比率に従って別々に年金支給を受けることができるようになるのです。

 サラリーマン家庭の専業主婦の場合、年金は夫に支給されるので離婚してしうと夫にその分与を求めるしかありませんでした。早い話が、年金という人質を取られて、身動きが取れない状態に追いやられていたのですね。保険料を払っている期間は、専業主婦だった妻も一部を負担したことになる、という認識から、新制度の導入が図られたといいます。いわば、弱者救済策だったのですね。さらに、会社員や公務員の専業主婦(夫)夫婦に限って、年金が折半される「強制分割」制度もスタートします。

 これまで、生活力という点で不利だったために「仮面夫婦」を続けざるを得なかった女性にとって、新制度は、まるで神の救いの手のような存在になりそうなのです。

 でも、さまざまな特集を見ていると、たいていが女性の視点ばかりで書かれています。「これで、夫に堂々と三行半を出すことができる」だとか、「もう我慢しなくてもいい!」とか、とにかく夫婦でいるのがイヤでイヤで仕方がなかった女性たちを自立させてくれる、素晴らしい制度だ!という論調なのですね。夫の女性関係に悩まされ続けたが、この新制度が導入されれば離婚して清算することができる。すっきりできる!とかね。なんとも夫が悪い風になっているのです。

 昔、妻に捨てられる夫を揶揄した「濡れ落ち葉」なんて流行語がありました。この制度のことを考えると、なんとなく産卵前にメスに食べられてしまうカマキリだとかコオロギなんかのオスを思い浮かべてしまいます。なんだか、男って哀れ…ですね。

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Daily K-Scale 0507

よみたいときに よめば よゐ

自分が、思う。

 生きていることが素晴らしかったりつまらなかったりするのは、自分がそれを素晴らしいと思ったり、つまらないと思ったりしているからなんだ。だって、自分がそう思うのでなければ、いったい他の誰が、自分の代わりにそう思うことができるのだろうか。

 これは、『14歳からの哲学―考えるための教科書―』池田晶子著の一節です。これは、つまり「我思う、ゆえに我あり」の言い換えだと思うのですが、よくわかる表現ですね。

 結局は、「自分がどう思うのか」ということが大切ということなのです。同じ状況にいても「幸せ」と思える人は「幸せ」で、「不幸」だと思う人は「不幸」であるということ。「思う」ことが「存在する」ことなのです。意識こそ存在そのものなのですね。

 そう考えると、ずい分と気が軽くなると思いませんか。人生は自分次第だ、て言ってもらったようなものですからね。楽しいと思えば楽しくなるわけだし、素晴らしいと思うと素晴らしくなるのです。

 『14歳からの哲学』で池田さんは、こうも書いています。“君はいつもずうっとこの「自分が、思う」をやっていたわけだ。いつでもどこでもどんな時でも、「自分が、思う」だったわけだ。これって、当たり前で、何かすごいことなんじゃないだろうか”と。

 誰もが、意識せず「自分が、思う」という行為をしているのです。時には「オレってイケてるな」とか「とってもブルーなんだ」とか、あるいは「輝いてきたぞ!」とか、何かを判断したり、分析したり、とにかく何かを考えることが「思う」ことなのです。つまりは「自分なりの答えを持つ」と言ってもいいかもしれませんね。その答えをポジティブなものにすることで、人は明るく人生という道のりを歩んでいけるような気がします。

 誰かに「君は不幸だね」と言われても、自分で「ぼくは幸せだ」と思っていれば、「幸せ」なのです。まずは「自分が、思う」ことをしてみましょう。自分を肯定的に認めてみましょう。そこから見えてくることってあるはず。そんな「自分の見方」が広がっていったなら、いじめとか自殺の問題って、もっと減るような気がします。

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Daily K-Scale 0506

よみたいときに よめば よゐ

豊かになって、失ったもの。

 岩倉具視を特命全権大使として組織された欧米視察の大使節団は公式記録でこう述べていた。「西洋人は実際的な科学を一生懸命学ぶが、東洋人は抽象的な論理に心を用いる。双方の国民が一方は富み、他方は貧しいのは、こうした事情の結果ではないかと考える」。時は明治4(1871)年。まさに文明開化の真っ只中で、近代国家に必要なのは、科学技術が必要だということが痛感されていた。

 「日本人は過去において常に論理的、数理的であるよりも心理的、倫理的であり、科学的であるよりも文学的であった。客観的なものよりも主観的なものがより多く愛好された」。こう指摘したのは、湯川秀樹であった。こちらは、『静かに思う』という敗戦直後に書かれたと思われる随筆の一節である。

 これは、よく言われる「右脳」と「左脳」の問題といえよう。日本人は、長きに渡って「右脳的」である「抽象的な論理」を大切に考え、「心理的」「倫理的」で「文学的」であったのだ。そのおかげで、虫の声が聴こえたり、きめ細かな色の判別ができたりしたのであるが、そんなものは明治政府の「近代化政策」には、無用の長物であったのだ。やがて、「右脳的」なるものは駆逐される方向へと進んでいく。より客観視することが求められはじめる。どんどん「左脳」社会へと傾倒していったのである。

 そして現代。明治政府の目論見どおり、日本の科学技術は世界をリードする水準となった。そして、経済力も世界のトップレベルへ。バランスは、まさに「左脳」へとシフトした。その結果、理想としていた「近代国家」になることができたのである。

 でも、どうだろう。「近代国家」になれた換わりに失ったものはないだろうか。大雑把にしか色を感じられなくなった子どもたちが増えていると聞く。「赤」といわれて、画一的な「赤」しか思い浮かべられないのだという。きっと虫の声だって聞き分けることができないのじゃないだろうか。もっとも虫の声を聞く機会さえ奪われてしまっているのだけれど。失ったものを、そろそろ取り戻していかないと、マズイかな、と思う今日この頃である。

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Daily K-Scale 0504

よみたいときに よめば よゐ

真似からはじめよう。

 「学ぶ」とは「真似をする」の「真似」に「ぶ」を加えて動詞化した「まねぶ」が転化したものだという説があるそうです。『源氏物語』絵合(えあわせ)には「殿上の若き人々もこの事(絵を描くこと)まねぶをば…」という記述があり、「まねぶ」が「学ぶ」の意味で使われています。この「まねぶ」が「まなぶ」に集約されて使われるようになったのは鎌倉以降だと言われているそうです。

 世阿弥清元の著書『風姿花伝』には、「ものまねの品々、筆につくしがたし。さりながら、この道の肝要なれば、その品々をを、いかにもいかにも嗜(たしな)むべし。およそなにごとも残さずよく似せんが本意なり。」とあります。能楽においては「真似」することが大切な理論体系となっているのです。いや、能楽に限らず、書道、華道、剣道などでも、この「真似」を大事にしています。

 このように日本人の思想の根底には「まねび」=「まなび」というものが脈々と流れています。私たちにとって、「お手本」があって、それに近づこうとすることが「学ぶ」ことなのですね。

 一方、西欧で「学ぶ」とは、「車の轍」に由来するという説があります。これは「learn」の説で、古高地ドイツ語の「leis(ライス)=轍」が語源で、原義は「轍、跡、道をたどってついていく」ということだと言います。これは、かなり日本的「学ぶ」に通じるところがありますね。「お手本」からなにかを吸収することが「学ぶ」ことだと定義しているわけです。

 では、「study」はどうでしょう。こちらはラテン語の「studium(ストゥディウム)=熱意・熱中・熱心」が由来だといいます。この「studium」からは「熱心に学ぶ人」という意の「student(英)」や「仕事場、撮影所」という「studio(伊)」がつくられました。

 「自分だけしかできないことを」なんて背伸びすることなく、かといって「どうせ能力がないから」なんて縮みこむこともなく。お手本を前にして、等身大で、その理想の姿に近づくように進んでいく。その行為を熱意を持って続けていくことこそが「学ぶ」です。気負わず、真摯に、「まねぶ」に励みたいものですね。

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Daily K-Scale 0503

よみたいときに よめば よゐ

一度に、ひとつのことしかできない。

 「人間は、一度にひとつのことしかできないのだから、一度にたくさんのことをしようとしたりせず、一つひとつ対応していけば、必ず目的は達成できます」―これは、昔、勤めていた会社の社長が訓示で語られていたお話の一節です。

 人は「やらなければならないこと」があふれ出すとパニック状態になってしまいがちです。「あれもしなきゃ、こちらにも手をつけなくっちゃ、あ、そっちにも対応しなければならないのがある…」って具合に、あちらこちらに目移りしてしまって、結局、どれにも手をつけることができずに焦っているだけで時間が過ぎていって、タイムリミット!なんてこと、多いですよね。

 ぼくは、そんな時、開き直ることにしています。「どうせ、人間は一度にひとつのことしかできないのだから」と。ただ、開き直る際に、優先順位だけはしっかり見極めます。最初にどれに手をつけるか、次はどれにするか…そして、最後に回すのはどれにするのか。そんな順番をしっかり決めておく。そして、処理している問題以外のことは忘れてしまう、つまり、着手しているものだけに神経を集中させるわけです。

 一度にたくさんの懸案事項がやってくると、誰しもがパニック状態に陥ることでしょう。脳神経がショートするのもわかります。ひとりで、こんなにたくさんのことできないよぉ…と泣きが入るのも理解できます。そんな状況に巻き込まれている方に提言したいのです。「ここで、一旦、深呼吸して、課題に優先順位をつけましょう」と。どうしても緊急に処理しなければならない問題がありますね。頼めば納期を延ばせる問題なら交渉してみる価値がありますね。特に納期を指定されていないものもあるでしょう。納期というものを尺度にしても、このように優先順位を決めることができますね。それにビジネスの比重(仕事の重軽)を加えたりして、最終的な順番を決めて一つひとつ対処していけば、必ず課題は克服できるはず。

 のど元過ぎれば…の俚言があるように、パニック状態も過ぎてしまえば、昔話。懐かしい思い出。今は、とにかく辛抱です。

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2007年3月20日 (火)

Daily K-Scale 0502

よみたいときに よめば よゐ

見えていないことこそ大切。

 もし、茶筒を上からしか見たことがない人がいたとしましょう。彼は茶筒を「円形」と捉えていることでしょう。また、一方で、茶筒を横からしか見たことがない人がいたら、彼は茶筒を「長方形」と認識しているはずです。

 同じ茶筒であったとしても、「円形」としか捉えていない人に横から見た「長方形」を見せても、決して「茶筒」とは認識できないでしょうし、逆に「長方形」認識派が上から見ても「茶筒」には見えないことでしょう。

 なにが言いたいかというと、「固定観念」の恐ろしさなのです。つまり「これは、こうでないといけない」という決めつけが、ときに相対的な、そして総体的なモノの見方や判断を疎外することがあるということなのです。いわゆる「思い込み」というのも「決めつけ」に含まれると思います。

 先の例でいうと、茶筒を円筒形と認識していれば、「円形」でもあるし「長方形」でもあるとういう事実が理解できるはずです。しかし、現実の社会では、このように明解にものごとが捉えられることは少ないのではないでしょうか。事象や事物を、ある定点からしか捉えない。そんなことが多いように思われます。

 それは、たとえば、極端ですが(というより認識の幅が狭まればどんどん結論は極端になるものです)、イスラム=テロのようなイメージで見る人がいますね。日本=ノーと言えない国、アメリカ=銃の国、インド=カースト制に支配された国…。枚挙に暇がありませんね。いろんな固定観念が、世界に氾濫しているのです。

 言葉は、いわばスポットライトです。一箇所しか照らし出すことはできません。逆に言うと、一箇所しか光を当てることができないからこそ、明るい部分が際立ってくるのです。

 でも、そこだけを見ていちゃダメだと思うのです。月に見えない裏側があるように、スポットの当たっていない部分にこそ真の姿が隠されているんじゃないか。そう疑って、モノを見てみるのも大切なことだと思うのですが、いかがでしょう。

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2007年3月18日 (日)

Daily K-Scale 0501

よみたいときに よめば よゐ

ラベルよりもレベルですよ。

 もし、ぼくが、自分で飲む飲料水を「光熱水道費」として計上したとしましょう。それで帳簿を処理して、それを税務署がチェックしたとしましょう。きっと、「なぜ、これが光熱水道費なのですか」とひと言で却下されることでしょう。どう考えたって、「光熱水道費」として認められるなんてことはないでしょう。

 そんな、ごくごく常識的なことに対する屁理屈のような議論(果たしてこれを議論と呼べるかどうかも疑問ですが)が国会で繰り返されていましたね。見ていて国民として情けなかったのは、ぼくだけでしょうか。あんなのは、小学生が下校前の「終わりの会」で、「○○くんは、給食の時にデザートのみかんから食べはじめてました。よくないと思います」と言っているようなものだと思うのですが、いかがでしょう。

 そんなレベルのことを延々とマジメな顔をして、繰り返されると国民はみんな「政治不信者」になってしまいますわなぁ。もっと、もっと大事な事、みんなで話し合わなければならないことがいっぱいあると思うのですが、どうなんでしょう。

 6カ国協議の後、北朝鮮はさまざまな(理不尽ともとれる)要求を出して、自国に有利な状況をつくりだそうと懸命です。それに対して日本はどう対処していますか。麻生大臣の毅然とした態度に対しては、右だとか左だとかの批評を超えて、日本という国家の態度を明確にしているという潔さを感じますが、果たして国会が、彼の明晰な態度を後押しするだけの度量を持ちえているのかどうかは、甚だ疑問です。あまりにレベルが低すぎるように思われます。

 ほんの些細な揚げ足を取って、それをあげつらい非難することで、自分たちのポジションを優位にする。まったく以て、ネガティブな行為じゃないですか。トータルで見れば、結局、レベルダウンしてしまっている。そのことに、政治家の先生方たちは気がついていないのでしょうか。その姿を、子どもたちが見たら、どう思うでしょう。そんなことを考えながら、しっかり政治をしていただきたいものです。でないと、未来はどんどん先細りしてしまいそうです。

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2007年3月17日 (土)

Daily K-Scale 0500

よみたいときに よめば よゐ

やっと半分、もう半分。

一丈の堀をこえんと思はんは一丈五尺をこえんとはげむべきなり。
                      法然「一言芳談」

 「Daily K-Scale」は、今回で目標のちょうど半分の500回目を迎えました(パチパチパチ)。一応、目標は1000回です。3年弱の旅路となるのですが、やっと五合目までやって来たな、という「ふぅ」と息をついてしまいそうな思いです。

 これまで、何度も「書けない」というシーンがありました。仕事が詰まってしまって、二進(にっち)も三進(さっち)もならない状態になったり、気分が盛り下がりまくって書く気が起こらなかったり…と。負けそうな展開が何回もあったのです。

 まとめ配信も何度もありました(今もそうなのですが…すみません)。ひどいときには一日五通も配信したこともあります。そんなムチャをしながら、今日まで続けることができました。

 ぼくは、ひとえに、この雑文を読んでくださる方に支えてもらって来たんだな、という想いでいっぱいです。「オモシロイから読んでるで」とか「こないだの、あんまり良くなかったなぁ」とか「すごいなぁ、よく続くなぁ」とか「返信してへんけど、ちゃんと読んでるしな」なんて言ってもらえるのがうれしくて、ずっと続けることができたのです。読んでくれている方がいるうちは、絶対に筆を置かないぞ、と決心したものであります。

 これからも、強制的に送りつける、という前時代的なフォーマットで続けていきます。ときどき舞い込んでくる「配信不要」のメールには少々ヘコまされますが、めげることなく、前を見据えて進んでいこうと思います。勇気と遊気を持って書き綴っていきます。

 上に掲げたように、法然上人は五割増しの目標を持て!と励ましてくれています。この戒めの言葉を胸に刻み、たった1000回といわず、1500回、2000回、いやいや、息を引き取る瞬間まで書き続けるぞ!くらいの意気込みで、これからも「Daily K-Scale」とつきあっていこうと思います。まだまだ、修行中の稚拙な文章ですが、今後とも、よろしくご愛読のほどお願いします。

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Daily K-Scale 0499

よみたいときに よめば よゐ

ふっとサルが去る。

 野生動物による農作物への被害は、増加傾向にあるといいます。たとえば滋賀県では一昨年、耕作地276ヘクタールで、作物約803トン、総被害額は1億6300万円に上っているんだそうです。その9割以上がニホンザル、イノシシ、ニホンジカによる被害なのです。

 そこで、滋賀県では、畑の周辺に「牛」を放牧し、野生動物を近づけない研究を進めているそうです。ただ、イノシシやニホンジカには「牛」で効果があるのですが、ニホンザルはしばらくすると牛に慣れてしまい効果がなくなります。

 そこで県では、農業技術振興センターで、牛に代わる対ニホンザル用動物を調査研究。ヤギ、ヒツジ、シャモ、ダチョウ、ブタの5種類の動物を県内のブドウ園に10日間放置してビデオ撮影し、ニホンザルが最も嫌う動物を調査したのです。

 その結果、ブタとシャモはニホンザルに驚いて逃げ回りました。ヒツジはサルが現れてもまったく無関心だったので、サルは素通りしてブドウ園に侵入。効果がありませんでした。ダチョウは、はじめサルに驚いていましたが、慣れるとサルを追い回すなどして撃退し、一定の効果があったそうです。

 そして、本命はヤギ。彼の場合は、木の上からブドウ園をうかがうサルを長い時は25分にわたって睨みつけて退散させたそうです。サルは10日間のうちに3度ばかりブドウ園の様子をうかがいに来ましたが、ヤギの視線が恐かったのかどうか、3度ともブドウ園に近づけなかったそうです。

 同センターによると「今後は、なぜヤギが積極的にニホンザルに対して威嚇行為を示すのかを調べるほか、サルの寝泊まりする場所のそばにヤギを放って、その影響を調べるなどを実施して、最も効果のある放逐策を研究したい」としているそうです。

 昔から「犬猿の仲」なんていって、サルの天敵はイヌというのが常識なのですが、ヤギがサルをそんなに嫌っているとは驚きです。ヤギの放牧とブドウ園を両立することで、サル退治もできる。なんともエコロジーな「一石三鳥」ではありませんか。

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2007年3月16日 (金)

Daily K-Scale 0498

よみたいときに よめば よゐ

パヒューム・ダイエット

 桂花いわゆるキンモクセイの香りを嗅ぐと体重増加が抑えられるという、なんとも「あるある」っぽい研究結果が発表されました。

 これは、阪大の山本隆教授(行動生理学)とカネボウ化粧品が共同で研究しているもので、ラットの実験で効果を確かめ、ヒトでも同様の傾向があったといいます。

 実験方法は、桂花の香りを染み込ませた餌を毎日食べさせたラットと普通の餌を与えたラットの体重を比較してみるというもの。山本教授によると、桂花ラットは、25日後の体重が普通のラットの9割だったそうです。

 香りを染み込ませた紙をゲージの下に30分置くと、食べる行動を促す「オレキシン」という脳内タンパク質をつくる能力が低下し、食事や飲む水の量が減ることも判明しています。

 一方、ヒトの場合は…というと、20~40代の女性5人に12日間、桂花の香りを染み込ませたガーゼを胸ポケットに入れてもらうという実験を行ったそうです。その結果、ガーゼを胸ポケットに入れた女性は、そうしなかった女性に比べて、満腹感が高く、体重や体脂肪は減り、体調や気分は良いと感じる傾向があったといいます。

 なぜ、キンモクセイか、ということに関しては、まだまだ研究の余地を残しているようですが、少なくとも「芳香」がなしかしらの「ダイエット効果」を生み出しているのは確かなようです。どうやら、いい香りは、胸ばかりでなく、お腹までもいっぱいにしてくれるのですね。これからの研究次第では、どの香りにどれくらいのダイエット効果があるのか、ということだってわかってくるでしょう。

 きっと、「あるある」があんなことにならなかったら、飛びついていたに違いないニュースです。わが家にもキンモクセイがあるのですが、ぼくにはあまり効果がないようです。いや、もしかしたら開花時期だけ微妙に成果が出ているのかもしれません。でも、リバウンドを起して、持続できていないだけなのかもしれませんね。

 いずれにしても、キンモクセイの咲くのが待ち遠しいですね。嗅ぐだけで痩せられるのだから。この他力本願こそが肥の元凶かもね。

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2007年3月15日 (木)

Daily K-Scale 0497

よみたいときに よめば よゐ

マナーとマニュアル。

 「茶碗の取手が客の左方になるやうにし、匙(さじ)を添へて進める。角砂糖及び牛乳は別の器に入れて進めるのが正式であるが、角砂糖は便宜上匙の上にのせて進める」

 これは1937(昭和12)年に刊行された『尋常小学作法書』に掲載されている「コーヒー類の進め方受け方」の一節です。これを読んで知りましたが、いわゆる「純喫茶」などで作法化されているスプーンの上に角砂糖という今昔ハイカラなマナーは、「便宜上」だったのですね。うん、勉強になりました。また、こうも記述されています。

 「コーヒー類を戴くには、まづ砂糖を入れて、右手に匙をとり攪廻(かきまは)し、匙は受皿の向側に置き、茶碗を右に廻し右手に取手を持つて静かに飲む。この時左手は受皿に添へるがよい」

 普段、何気にしていることを、このように記述されてしまうと、なんとも新鮮で発見的だと思いませんか。あ、ぼくってこんな複雑なことを無意識的かつスムースにしていたんだ、と。そう、文字にすることで改めて「気づくこと」ってあるんですね。

 きっとコミュニケーションのスピードという観点からすると、上記のような「文字での伝達」はかなりスローなコミュニケーションに属すると思います。字面を追って、その内容を脳で把握し、了解し、指令をつくり、それをまた作用部隊である手や足などの各器官にフィードバックさせるわけです。文字という記号を一度、具体的なイメージに変換しなければならない分、遅れが生じるわけです。

 「見よう見まね」という言葉がありますが、まさに、これが最も速いコミュニケーションメソッドかもしれません。そのことは、現代っ子たちがいちばんよく知っているはずです。だって、彼らはマニュアルなんか読まなくてもメカの使い方を知っていますもの。攻略本を読んでいるじゃないか、という反論が聞えてきそうですが、攻略本は彼らにとってマニュアルではなくマップなのです。

 「操作」は「見よう見まね」で体得できますが、はたして「作法」はいかがでしょう?品格はそんなところからつくられそうですが。

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Daily K-Scale 0496

よみたいときに よめば よゐ

書くことで、癒される。

 頭に浮かぶトラウマ体験を15分ほど集中して、エンピツで紙に書いていく。そのセッションを1週間に1回の割合で、3~4週間連続する。全セッションを終え、1カ月ほど経つと心理的苦痛が軽減されるとともに、免疫反応や記憶力の向上が認められるそうです。

 何かと心理療法やカウンセリングに頼りがちのPTSD(心的外傷後ストレス障害)への対処。しかし、同志社大学文学部助教授の余語真夫さんは「語りの治癒力」が有効な手立てになるのではと考えているそうです。「人は自分の感情体験を繰り返し、誰かに語りたいと望むもの。辛い過去を言葉にして表現することで、感情をコントロールできることが経験的に知られてきた」と語ります。」

 ただ、誰かに語りたいと思っても、適切な聞き手がいなかったり、社会状況や体験の内容によっては、語れないこともままあります。そんなときは、最初に書いたような「筆記による語り」もかなり有効に働くそうです。その際、「語りを強要せず」「他者に読めれることを前提とせず」「文法が間違っていても構わない」のが重要なそうです。大切なことは「短時間の筆記に没頭する」ことなのだそう。この「集中」が精神を解放させてくれるらしいのです。

 今、心の問題を特定の専門家に丸投げして任せてしまおう、という風潮があります。でも、余語さんは「心の問題に関して、誰にも自分で解決できる力が備わっているはずです」と言います。なのに、専門家に頼るあまり、心に焦点を合わせすぎて、実在しないものまでも実在するように語り、異常か正常かを判断しています。これでは、ストレスを解消することはできないでしょう。実在するものをそのままの姿で認識してこそ、正常が保たれるはずなのですから。

 この「筆記による語り」を使えば、静かな環境と紙とエンピツがあれば、ストレスマネジメントができます。手軽に精神コントロールができるのです。思い起こせば、ぼくもコピー修行時代(今もそうですが…)に日記を書いていました。クライアントや上司への非難、批判ばかりを綴っていたように憶えています。きっと、あの行為も「筆記療法」だったのですね。もしかして、このコラムも…。

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2007年3月14日 (水)

Daily K-Scale 0495

よみたいときに よめば よゐ

倒すべきは、自分。

 小学校6年生のときのことです。当時、ぼくは陸上部に入っていて、毎週水曜日の放課後に、ミニマラソンなんかをしていました。

 学校の周辺の2キロばかりのアップダウンのあるコースを1周するのですが、たいていぼくは4~5位(10人くらいでこれだから、まあまあ優秀な方でしょう)でした。

 ある日、いつも1~2位が定位置の仲間がふたりとも風邪をひいたかなんかで、休みました。これはチャンスです。そう、「今日はトップになれるかもしれない…」と、密かに思ったものでした。

 さあ、スタートです。ぼくは、とにかく最前線に立つことをめざしてダッシュをかけました。いきなり初っ端から息が切れてきます。ゼイゼイ、ハァハァ、ゼイゼイ、ハァハァ…。最初は下り坂が続きます。呼吸器系には辛くないのですが、膝とかにはとてもキツいのです。でも、先に立った以上は、このポジションを譲りたくありませんから、どんどん足を前に出します。

 しばらく平坦なルートを走ればいいのですが、ラストスパートは心臓破りの急な坂道が待っています。とりあえず、ここまではトップをキープしていました。でも、後ろにはピッタリといつもぼくの上位につけるやつがくっついて走っています。虎視眈々と抜く機会を狙っているようです。彼の意識というかオーラのようなものが、ビンビンと背中に響いてきます。

 ああ、なんてことを望んでしまったんだ!というのが、坂道を駆け上っているときの思いです。トップになりたいなんてなんで思ったんだろう。いつものように5位くらいで走っておいたら、こんなにもプレッシャーとか感じなくてもよかったのに…。なんだか、涙も出てきました。ぼくは、いつしか「負けへんぞ」と口走りながら走っていました。ぼくの敵は後ろの上位者ではなく、自分の「もういいやん」という負け心に変わっていました。そして、とうとう、トップでゴールすることができました。

 すごいプレッシャーに遇うと、いつもこの経験を思い出します。あのとき歩いていたらどうなっていただろう…。勇気が出ます。

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2007年3月12日 (月)

Daily K-Scale 0494

よみたいときに よめば よゐ

優先座席って誰のもの。

 ときどき10時台の電車に乗って事務所に向かうことがあります。いつもは8時32分発の電車に乗るのですが、朝一番に自宅でコピーを仕上げてから出かける、といったときには10時台のを利用したりするのです。

 この電車内は、風景が違います。8時台なら、現役社会人や学生たちが緊張感ある顔立ちで乗り込んで来ます。が、10時台はなんとものどかなのです。というのも、主なお客さんは、60歳から70歳のおじいちゃん、おばあちゃんが多いからです。きっとお買物とか、誰かと遊びに行く、というので乗っていらっしゃるんでしょう。気合の入った衣装で、バリバリにキメての乗車です。

 その日は、たまたま座席につくことができました。最初は空いていたのですが、次の駅からどどどっと混んできました。それもおじいちゃん、おばあちゃんばかりです。「席を譲らなくては…」と思うのですが、いったい誰に譲ったらよいやら。席ひとつに、ご老人は無尽蔵とは言いませんが、4~5名はいらっしゃいます。歳の順というのも見た目ではわかりませんし、かといって一番そばの、ということも不公平な気がして…。結局、譲れませんでした。

 そんな中、ふと思ったのですが、こんな電車の状況では「優先座席」って機能しているのだろうか。今、一車両の「優先座席」の比率は10%というところでしょうか。100人乗っていたら10人くらいのご老人は座ることができるのです。

 しかし世間のシルバー比率はそんなもんじゃないでしょう。4人に1人がシルバーとしても25%。ぼくが席を譲れなかった車両だとゆうに50%は超えていたと思います。半分がお年寄りなのです。そんな比率の中では「優先座席」が椅子取りゲーム状態になってしまいます。さもなくば、証明書でも見せてもらって、年齢順に座っていただくほかないような状況になるでしょう。

 「優先座席」それはマイノリティのためのシートだったはずです。それが今やマジョリティの席になろうとしています。もしかすると「からだの弱い若者」への優先席ができるかもしれませんね。

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Daily K-Scale 0493

よみたいときに よめば よゐ

過ぎたるは、及ばざるが如し。

 ―才能すぐれた者を抜擢するということをやめるなら、人民のあいだで競争はなくなるであろう。手にはいりにくい珍しい品を貴重とすることをやめるなら、人民のあいだで盗みをはたらく者はなくなるであろう。欲望を刺戟する物が目にはいらないようにすれば、人民の心は乱されなくなるであろう。―『老子』第三章抜粋

 西武ライオンズが、アマチュア選手に不適切な金銭を与えていたということが発覚しました。きっと、誰かがリークしたのでしょう。球団としては、指名制度もあり、より自身に有利になるようにという焦りもあったことでしょう。でも、競争する舞台を間違えましたね。でも、この根本には「競争」がある。それを忘れては、この問題は結局見えてこず、再犯の可能性を孕んだままになるでしょう。

 全国各地で、鉄板や銅線などの金属製品というか金属部材というかの盗難が相次いでいます。お隣の中国が建設ラッシュで、金属類の価格が急騰し、盗んで持ち込んだって「儲け」につながるのが、その理由だそうです。いまやその辺に置きっぱなしにしてある鉄くずが、大金を生む貴重品となったいるのですね。でも、この急騰でほんとうに儲かっているのは、いったい誰なのでしょう。建設や金属取引に全く無関係の人が大儲けしているかもしれません。

 テレビのニュースを見ていて、「オレもやってみたくなった」と無差別に人を刺したヤツがいました。そこまででなくても、ラーメンをおいしそうに食べているCMを見ると、ラーメンを食べたくなるのは人の情。見てしまうから、したくなる、ほしくなる。メディアの発達は、多くの人に多くの情報を伝達することを可能にした反面、「隠す」とか「秘密にしておく」という「知らせない」行為を崩壊させたように思います。人は知らなくてもいいこともあるんじゃないか…と思うんですがね。

 さっと世相をながめてさえ、先に記した『老子』の言葉って含蓄があるな、と思うのです。これが、2千年前に書かれていたという事実!逆に言うと、2千年前も今も、世相は変わっていないとも言えるのですが。21世紀、彼の言葉をじっくり咀嚼したいものです。

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2007年3月10日 (土)

Daily K-Scale 0492

よみたいときに よめば よゐ

もっと闇を!

 白日の下に晒す、という言葉がありますが、この「白日」というのは、明るく輝く太陽であり、昼間・白昼であり、やましいところのないたとえ(大辞林第三版)とあります。つまり「正」なるものの存在する場が「白日」なのです。

 「正」としての「白日」に対して「負」としての「闇」があります。それは、「夜」であったり「悪」であったり「邪」であったりします。大抵の場合、駆逐されねばならない存在として認識されていますね。だから、これらの「負」たちは、「白日」の下に晒されると、ちょっと困る。行き場をなくしてしまうのです。

 そんな理由から、世間から「夜」が駆除されてきました。人は闇を恐がります。恐いものを取り除こうと、人類は火を手に入れ、そして電気をコントロールする技術を憶えました。これはほんの一例。人類の歴史って、考えてみれば、「負」を駆逐するための時間のようにも見えます。天然痘を撲滅させたり、というのも「負」の排除ですものね。人類にとって恐いものはどんどん少なくなっています。

 でも、そんな環境って、ほんとうはどうなのでしょう?夜は恐くなくなりました。だから、みんな夜になっても外で徘徊したりします。そして生活のリズムが狂い、時間がカオス状態になっていくのです。これは、ちょっと危険なんじゃないかと思います。

 時間には「律」が必要だと思うのです。「律」とはリズムであり、強弱であり、きまりです。それを構築するためには、両端を意識しなければならないし、どちらも欠かすことはできません。影があるからこそ光が見えるのであり、悪がいてこそ善が認識できるのです。どちらが失われても、機能しなくなってしまいます。そういう意味では、「正」「負」は、まさに両輪の役割を果たしているのです。

 白日に晒されても、逃げ込める闇を用意しておくこと。どこかに「負」の要素を持っておくことが、今、求められているように思います。綺麗になりすぎては、生きていくのが辛くなることもあります。「白河の清き流れに住み飽きて昔の田沼恋しき」なんていう狂歌もありましたが、妖怪に住むような夜を取り戻したいものです。

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2007年3月 9日 (金)

Daily K-Scale 0491

よみたいときに よめば よゐ

見る方が恥ずかしくなってしまった!

 ぼくは、コピーライターという仕事を本職でやっているのですが先日、こんな広告を見つけて、思わず「まいりました!」とひれ伏してしまいました。

     驚くほど
     精力がつきすぎ
     恥ずかしくなって
     しまった!

     メディカルライター吉本富夫著

 う~ん、キャッチフレーズなのかタイトルなのか、ぜんぜんよくわからないのだけれど、精力増強の方法を記した一冊の本の紹介広告なのでした。こんな一文が、京都新聞という地方紙の第一面の下三段の1/6のスペースで、ドカン!と自己主張しているのです。とにかく目を引くこと間違いなし。買う買わないは別にして、気になる広告となっているのは確かです。

 ぼくが、うなったのは「恥ずかしくなってしまった!」という箇所です。きっと、効果は絶大で、期待を大きく上回ってしまって、ついには「恥ずかしいほど」の域に達してしまったのでしょう。ただ単純に「うれしい」とか「自信を回復した」なんて、生やさしい表現よりナマナマしくて、届く表現になっていると思うのです。

 驚いたり、恥ずかしくなったり、男が生きていくには、いろんな感情を総動員して前進していかないとダメなのですが、そんな哀しい男たちに、根拠はないのだけれど、潜在意識に訴えかけるような勇気を与えてくれる広告だと思うのです。

 この広告を見て、「よ~し!オレだって!」と元気になった方もいると思います。意気消沈していたのに、元気モリモリになった人もいるかもしれません。

 広告とは、モノが売れてなんぼの世界にあるものです。が、たまには、インパクトだけを狙ったものなど、ちょっとポイントをはずしたものも、最終的には効果を発揮するんじゃないか、と思うのですが…みなさん、いかがなものでしょうか?

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2007年3月 7日 (水)

Daily K-Scale 0490

よみたいときに よめば よゐ

誰がなってもいっしょ…ですか?

 東京都知事選が、がぜん熱っぽくなってきました。もちろん、ぼくには投票権はないのですが、じゃじゃ馬よろしく、気になります。

 現職の石原慎太郎氏の反感を持つことさえ忘れさせてしまうような歯に衣着せぬモノいいには、若干辟易してしまいます。浅野史郎元宮城県知事は、頭脳明晰だということはわかるのですが、わかり過ぎて少し嫌味かな…とも思います。共産党系の方は、失礼ですが
よくわかりません。都議だったんですかね。

 で、一番気になるのは、黒川紀章氏です。彼は、もともと石原都知とは、とても仲良しさんだったのですが、オリンピックの東京都招致問題などで意見が対立。自ら都知事選に立候補し、石原氏に引導を渡したいというのです。これも、ま、ひとつの友情表現なのでしょうか。そして、マニュフェストでは、東京都庁舎や江戸東京博物館、東京国際フォーラムの民間売却などをあげているそうです。

 ま、そんなことは、いろんなメディアでも総括的に書かれていることです。ぼくが、注目しているのは、もっと細かなことなのです。彼はインタビューでこんな風に言っています。「ぼくはお金持ちだから、都知事としての給料はいらない」とか「いつも運転手付きのクルマに乗っているから公用車はいらない。自分のを使う」とか、「妻の若尾文子とは銀行口座を別にしている」とか。なんとなく政治のことをナメ切ったような発言をたくさんされているのです。

 これって、どこかで聞いたような…、と思っていたら、わかりました。アーノルド・シュワルツィネッガーカリフォルニア州知事でした。彼は、先の選挙の際にこう言ったといいます。「ぼくは億万長者だからお金に困ることはない。だから、絶対に汚職なんかしない。これ以上お金をほしいと思わないから」。

 黒川氏もシュワルツィネッガー知事も、政治とは違う世界で才能を発揮し、成功した人です。政治を商売と考えていないことは確かなことでしょう。彼らの言っていることは正しいのかもしれません。意外と、こういう人たちに政治を託すことが、よい結果を生むかもしれません。都民のみなさん、いかがなものでしょうか?

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2007年3月 6日 (火)

Daily K-Scale 0489

よみたいときに よめば よゐ

BSEにならない牛。

 そりゃいい、と思って、新聞記事をよく読んでみたら遺伝子操作された牛でした。まるで究極の選択を迫られているみたいで、いい気分が飛んでいってしまいました。

 アメリカの科学雑誌ネイチャーによると、この牛を開発(?)したのはキリンビールの子会社を含む日米の研究チームだそうです。チームは正常プリオンをつくる遺伝子が働かないようにした牛の体細胞の核を、核を抜いた受精卵に移植して子宮に戻す体細胞クローン技術で、正常プリオンを持たない牛を12頭誕生させたといいます。

 BSEは、脳細胞などの表面にある正常型プリオンタンパク質が、異常型プリオンタンパク質により異常型に変形させられて増殖することで発症するとされています。そこで、チームは、プリオンタンパク質を持たない牛を遺伝子操作でつくったわけです。ヤバいものは根こそぎ無くしてしまえ!みたいな乱暴さを感じてしまうのは、ぼくだけでしょうか。マッドサイエンスっぽく思います。

 実験では、12頭のうち3頭の牛を解剖し、脳組織から抽出した溶液を異常プリオンに加えても、異常プリオンは増殖せず、これらの牛に正常プリオンがないことが晴れて確認されたそうです。残りの牛たちの発育や健康状態も引き続き観察され、生後20ヵ月まで普通に成長したといいます。チームは「正常型がなくても健全に成長するようだ」とコメントしているそうなのです。そして、現在は、異常プリオンを注入してもBSEを発症しないかを検証中だそうで2~3年後には結果がでるようです。

 この実験の成果は、BSEと同じ病原体が原因で人がかかる異変型クロイツフェルト・ヤコブ病の感染を防ぐ手がかりになるとされています。また、牛を原料とした医薬品づくりをより安全に進めることができると、期待が高まっているそうです。 

 しかし、どうでしょう。BSEにならない牛だけど、遺伝子操作がされている。選ぶ側としては、とても辛い選択になりますよね。できれば、どちらも避けて通りたいものです。人間がそこまで神の領域に足を踏み込んでしまっていいのでしょうか。不安です。

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Daily K-Scale 0488

よみたいときに よめば よゐ

赤十字だけじゃないんです

 救急医療活動のシンボルといえば、「赤十字」ですね。でも、これって、イスラム諸国では使われていないんですよ。イスラムの国国では、十字のマークは、かつてのキリスト教による十字軍を連想させるので使用せず、「赤新月」と呼ばれる右に開いた赤い三日月をシンボルとして使っているのです。

 つまり国際的に認められている救急医療活動のシンボルには2種類あるということなのです。ご存知でしたか?

 そのシンボルが、この度、3種類になることに決まりました。3つめのシンボルは「赤いひし形」です。このシンボルが生まれた背景には、イスラエルの救急活動組織「マゲン・ダビド・アダム(ダビデの赤い盾)」の存在がありました。彼らは、赤十字も赤新月もどちらも使用を拒んで、正三角形を2つ組み合わせた「ダビデの盾」をシンボルに使っていました。しかし、そのせいで国際赤十字活動への参加を阻まれ、長年の懸案となっていたのです。

 さらに、キリスト教国とイスラム教国との対立が激しくなり、赤十字、赤新月どちらのシンボルを掲げていても、攻撃を受けることが多くなったのも、新シンボル作成の原因のひとつだと言われています。攻撃の刃は無分別で凶暴化しているようなのです。

 今後、「マゲン・ダビド・アダム」は、赤いひし形の中にダビデの盾を書き込んだ独自のシンボルを使って、国際的な救援活動に参加するそうです。

 赤十字にしても赤新月にしても、人を助ける救護者なのです。それを攻撃する輩が居るとは…。なんとも悲しいことですが、これを現実として考えるなら、いくら「赤いひし形」を制定したとしてもこれは返ってイスラエルカラーが強くなって、イスラムテロリストからすると格好のターゲットになるんじゃないか、という懸念も湧いてきます。ほんとうに大丈夫なの?と。

自然災害の救援ならまだしも、戦争の救護というのは、なんともやるせないものでしょう。助けに行って、攻撃されては、泣くに泣けないでしょう。戦争がらみの救援は、なくなってほしいものです。

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2007年3月 3日 (土)

Daily K-Scale 0487

よみたいときに よめば よゐ

人も歩けば病気に当たる。

 世の中、いろんな病気があるものです。自分に火の粉が降りかからない限り、その存在さえ知らないっていう病はいっぱいあるのですね。そんな病気のひとつを紹介したいと思います。

 アクロメガリーは、脳の司令塔を果たす脳下垂体に良性の腫瘍ができて成長ホルモンが過剰に分泌され、手足などが肥大化する病気。またの名を先端巨大症ともいい、国内には8~9千人の患者がいるとされています。手足が大きくなるだけでなく、額やアゴが突出したり、舌が大きくなったり、発汗過多や多毛という症状が伴うこともあるそうです。

 良性の腫瘍とはいえ、大きくなって脳内への圧迫が強くなると視野が狭くなったり、頭痛に悩まされたりします。長期化すれば、糖尿病や高血圧などの合併症を起すことあり、要注意なのです。

 症状の進展がゆっくりしているのと知名度の低さから早期発見が難しいのが実情だといいます。発病から診断を受けるまで、平均で8.6年ほどかかっているという報告もあるそうです。

 手足の大きさなんて、あまり気にすることはないですよね。ぼくなんかは、最初から大きいので「こんなもんかいな」と思って生きてきました。でも、考えてみたら、昔っから「アクロメガリー」だった可能性だってあるのですね。

 そんな意味では、新しい病気の情報を得ることはいいことだと思います。自分でも気がついていなかった病気に関して、正しい理解をすることができるようになるからです。ヤバい病気を早期に発見し、治療することもできるでしょう。

 ただ、何でもかんでも新しい病気のせいにしてしまうことは避けたいものです。病気を逃げ場のようにしてしまっては、人生はとても寂しいものになってしまうでしょう。

 病気を前向きに捉えて、病気とともにどう人生を歩いていくか。そういった積極性を生み出すための「病気への知識」を求めたいと思います。明るく、マジメな態度で病気と向き合う。もう40年も人をやっているから、そろそろ病気のこと、真剣に考えたいものです。

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2007年3月 2日 (金)

Daily K-Scale 0486

よみたいときに よめば よゐ

打算のない夢を。

 ぼくらは子どものころ、鉄腕アトムなんかに描かれている未来の生活に憧れて大きくなりました。でも、大人になって、まだ「あの未来生活」がやって来ていないような気がしています。

 先日、高市早苗イノベーション担当相の私的諮問機関「イノベーション二十五戦略会議」が“2025年に目指すべき社会像”というレポートの中間報告を発表しました。

 それによると「リニア新幹線で東京~大阪間50分」「人工光合成を応用して走れば走るほど空気をきれいにするクルマ」「一家に1台家庭ロボットを導入して家事から解放」「200平方メートルの200年住宅を安い価格で提供」「ロボットの月面旅行」などの夢のような未来予想図が並んでいます。

 他に「自動翻訳機能を備えたヘッドホンで外国語の壁がなくなる」「紙のように丸めてポケットに入れられるディスプレー」「カプセル型の超小型健康診断装置」などの技術革新も予測されています。

 2025年といえば、今から18年くらい先のお話です。生まれたての子どもたちが大学生になるくらいの時間ですね。長いようでいて、意外と、あっという間のことなのかもしれません。技術のスピードは、時間の速度に勝てるのでしょうか。ほんとうに興味シンシンで目が離せないのであります。

 安倍首相の公約のもと、学界や経済界などの民間有識者7人による8回にわたる非公開会合の結果をまとめられたこの中間報告は、今年の5月末をめどに最終報告としてまとめられる予定です。そして、その報告を政府の「骨太の方針」や各省庁の予算要求に反映させていくのだそうです。

 今、人々の思う夢は経済活動に組み込まれて、キラキラした輝きではなくて、どこかギトギトしたいやらしい光を放っているように思います。夢=お金儲けになってしまっているようです。欲を超えたところにこそ「夢」があるということに、なかなか気がつかない。そんなもどかしさを感じてしまいます。どこかで「得」をしようというような打算を排した「夢」を描き続けていきたいものですね。

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2007年3月 1日 (木)

Daily K-Scale 0485

よみたいときに よめば よゐ

となりの巨人。

 かつて日本は「倭」と呼ばれ、大陸からは「一段低い国」と位置づけられていました。厩戸皇子いわゆる聖徳太子と呼ばれる人が、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれた有名な書簡を隋へと送ったり、天武天皇が「日本」という国名を宣言したり…。わが国の歴史は、いにしえより大陸を大いに意識していたようにみえます。

 足利義満しかり、豊臣秀吉しかり。日本の王をめざし、実質的にその地位を獲得した者たちは、中国の帝国に、そして皇帝に並ぼうと意識したものです。顕在化していなかったとしても、常に大陸のイメージは、わが国に密やかに影響を与え続けてきたのです。

 その影響への反発か、コンプレックスなのか、ときに私たちは大陸に対して感情的になってしまうことがあります。それが、悪い方向に進んだのが、第二次世界大戦のころのことだと思うのです。

 東西冷戦時代、一種のカーテンに遮られて、大陸は近くて遠い国でした。紫禁城は門を閉じてしまっていて、交流を拒んでいるかのよう。しかし、意識だけはピリピリとお互いに、一方的に発信していたのではないでしょうか。

 そして、現在。状況は、古代に近いかもしれません。政治的にも、経済的にも、軍事的にも大国になりました。いまや「日出る処」は日没を向かえ、「日没する処」は昇る日輪の勢いで発展しています。

 自民党の中川昭一政調会長が、中国の急速な軍事費の増大を指摘し、「将来的に日本が中国の勢力下に置かれかねない」と強い警戒感を表明しました。「中国は今は平和的台頭でおとなしくしているが、2010年(の上海万博)が終わると、いよいよ“非平和的台頭”になる可能性がある。台湾が完全な勢力下に置かれた場合、次は日本になりかねない」と強調もしているそうです。

 日本の歴史は、大陸からの脅威に常にさらされてきたはずです。たまたま最近は、その意識が弱かっただけなのではないでしょうか。元寇だって実際あったわけですから。すぐにどうこうしろ!というのは行き過ぎですが、常に脅威を意識することは大切でしょうね。

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2007年2月28日 (水)

Daily K-Scale 0484

よみたいときに よめば よゐ

チチかえる。

 14年ぶりの快挙なのだそうであります。あ、なんの話かというとチチ松村氏のソロアルバムなのであります。

 なんと「全編歌モノ」です。全12曲、みんなチチさんが、ゆるゆると歌ってます。1曲目は『僕は見た』。チチさん謹製の特製ハガキにも描かれていた軍艦の上にいた物体のことが切々と歌い込まれています。なんか、夢に出てきそうな不思議な楽曲です。

 4曲目の『眉毛を描かれた犬』は、わがギターの師匠・長田“taco”和承師もラップスチールで参加の出色の楽曲。詩も抜群にいい。ついつい涙がこばれそうな世界観を持っています。

 8曲目の『ペルシアのじゅうたん』にいたっては、もうゲゲゲの鬼太郎にも匹敵する妖艶な世界が描かれておりまする。一度聴くともう耳を離れない。そんな呪術のような麻薬のような甘美で妖しい音がゆらめいておるのです。

 10曲目から12曲目までは、ある人間関係をさまざまな視点から見つめた、いわば兄弟曲。壮大で切ない物語が紡がれているのです。ここでも詩はとても大事なファクターとなっています。

 ゴンチチといえば、インスツルメンタルが主ですから、ゴンチチが好きという方には、かなりビックリ仰天かもしれません。が、さすがイカ好きのチチさんだけあって、聴けば聴くほど味が出るというか、歌声に引きこまれるというか、行ってはいけない禁断の園に連れて行かれるような感覚になるのです。そうそう、アン・サリーのコーラスも実にゆるり快感をかもし出してくれています。

 こんな摩訶不思議な音を、今ならうちの「Gallery HAY-ON-WYE」で堪能することができます。本リリースは4月4日(水)赤口ですが、その前にクセになる音をぜひ聴いてみたい、という方はお立ち寄りください。ゆるりとしたチチワールドにひたっていただけます。ちょっとお天気のいい日の昼下がりなんかがぴったりかもしれませんね。まどろみながら聴く、っていうのがキモチよさそうですから。

 ま、4月4日になれば、みなさん、こぞってお買い上げくださいね。「チチ、買える」ですから。あ、では、お後がよろしいようで。

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2007年2月27日 (火)

Daily K-Scale 0483

よみたいときに よめば よゐ

体系づけて考えよう。

 わけあって、今さらながら「物理学」を勉強しなければならなくなりました。アインシュタインの「相対性理論」や「量子力学」なんという、なんとも脳が液化して顔中の穴という穴から流れ出しそうな勢いでシノプスが振動しています。

 アインシュタインが『特殊相対性理論』を発表したのは1905年のこと。今からはるか102年も前のことなのです。勉強してみてはじめて知りました。なんとなく戦前、それも1940年代くらいの印象がありましたから、えー、そんなに歴史があったんだ、と感嘆したものでした。いやはや無知は悲しいものです。

 『相対論』には前述の『特殊相対性理論』と、これに重力を導入した『一般相対性理論』の2種類があることも知りました。重力によって光が曲がるという論です。

 いつも使わない脳を使うので、ほんとうにいい思考訓練になりますね。それと体系的に捉えることができるので、点で学習するより理解度が深く、記憶の時間も長いように感じられます。

 この学習をしている際に、昔、ロッキングオン(今でもありますね)に載っていたインタビューを思い出しました。それは当時ポリスのリーダーだったスティングへのロングインタビューでした。

 聞き手は、彼にピアノの訓練について尋ねました。それに答えてスティングは「ピアノに限らず楽器のレッスンに当てはまることなんだけど、まず初期の段階の曲からはじめることだよ。最初はすごくプレーンなテクしか使っていないからね。そこから、どんどん技を積み上げていく。時間を短縮して経験していくんだ。すると意外と難なく技術が修得できるんだ」みたいなことを言っていたと記憶しています。

 物理学も楽器演奏術も同じなのです。体系的に捉まえれば、それほど難しくない。いや、難しさの程度は和らぐはずです。点よりも線、線よりも面、そしてより立体的なイメージで体系づけられたらもっと理解は広く、深くなることでしょう。また、今年の大きな目標を見つけた爽快感です。なかなか気分上々ですね。感謝。

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2007年2月26日 (月)

Daily K-Scale 0482

よみたいときに よめば よゐ

「学」をつけていこう!

 「学」という言葉は、とても便利なワードだと思うのですが、いかがなものでしょう。例えば、「湯治」なる言葉が目の前にあるとしますね。これは、レジャーであり、趣味であり、遊びであります。そして具体的行動でありますが、思想ではないし、教義でもないわけですね。

 でも、この「湯治」に「学」を組み合わせて「湯治学」としたとたんに、とても高尚な世界が目の前に現れます。日本はおろか世界中に知のアンテナを張り巡らせ、情報を収集し、分析し、体系づけて、湯治に関する知を統合する。そんな半端じゃない活動が見えて来ると思いませんか。

 同じようなことが「道」にも言えそうです。「茶」「花」「香」などなど、ある単語と結びつくことで、まったく新しい観念やシステム、世界観をつくりだしてしまうのは、まったく同じですね。

 まだ、うまく説明できないのですが、この「学」とか「道」という「言葉の存在」が、最近とても気になるのです。それを足すことで、世界観が鮮明に立ち上がってくるような、料理でいうところのひと塩みたいなもの、あるいは隠し味のようなもの…でしょうか。あるいは、「道」「学」は、対象となる言葉とぼくたちになんらかの「関係性」を生み出す触媒になっているのでしょうか。その結果、新しいつながりが生まれ、それを継続することで体系化が起こり、新しい世界観が生まれてくるのかもしれませんね。

 難しいことは、ちょっと置いておいて、今年は、ぼくのまわりにあるものになんでもかんでも「学」をつけて取り組んでみようと思っているのです。それも、できるだけミニマムで、あまりスポットの当たっていないものやことにです。例えば、PCのスイッチ学とか、壊れたファスナーの修理学とか、正しいおしりの拭き方学なんていうのもいいかもしれませんね。

 こんな風に、いろんな事物に「学」をつけて、実際に学んでみようと思うのです。研究成果は、また、この場を使ってレポートしてみたいと思います。どこまでやれるかな?ま、乞うご期待。

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2007年2月25日 (日)

Daily K-Scale 0481

よみたいときに よめば よゐ

涙そうそう。

 今日は、久しぶりにギャラリーにクルマで出勤しました。ひとつは荷物が多くて重かったのと、最終電車が出るころに仕事が終われるかどうか不安だったのですが、明日の朝はどうしても地元にいなければならない、という理由でクルマ出勤を選んだのです。

 3月31日に北浜のライブハウス・チャクラで、恒例のギター教室発表会、人呼んで「フォーク・ジャンボリー」が開催され、それに参加することもあって、クルマには課題にしようとしている楽曲の入ったCDが積んであります。その中の1枚に「ビギン」のベスト
アルバムが入っています。

 今日は気合を入れて「涙そうそう」でも練習しながら出勤しようか!なんて意気込んで、15曲目の「涙そうそう」をチェックしたまではよかったのですが…。曲がスタートしたら、急に涙があふれてきて止まらなくなったのです。日ごろから、あまりウルウルするタイプではありません(ただし高校生のころ、エレファントマンを読んで泣いたことはありましたが…)。だのに、涙が止め処もなく出てきて歌うことができませんでした。

 そう言えば、昔、レコード大賞を獲った歌手が、泣いてしまって歌えなかったことを思い出し、「あ、こんな感じだったのか」と妙に納得してしまいました。

 でも、なぜ、涙があふれてしまったのでしょうか?ぼくにもまるっきり見当がつきませんでした。ただ、しばらくして、ぼくが幼稚園のころに天国に逝ってしまった父方の祖母の顔が浮かんできました。「もしかしたら、おばあちゃんが泣かせてくれたんかなぁ」とも思われました。

 昨日、次男坊と大ゲンカしました。胸ぐらをつかみ合い、殴り合いました。孫を持つ人間のやることじゃない、と思いつつも感情を抑えることができませんでした。その戒めのために、おばあちゃんが泣かせたんかもしれんなぁ。親として大きく包んでやることを忘れていたな。笑顔で接してやれなかったな。いろいろ反省するところがいっぱい。こう思わせてくれた、おばあちゃんに感謝です。

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2007年2月24日 (土)

Daily K-Scale 0480

よみたいときに よめば よゐ

逃げの手を使わぬように。

 近ごろ、コマーシャルのボリュームが大きいと思いませんか。たとえば、映画を見ていて、CMタイムになると急に音が大きくなってビックリさせられることがあります。そこでボリュームを絞ると本編に戻ったときに小さくて聞き取れない…なんてことが、このところ何度も何度もあるのです。

 20年ほど前に聞いたことがあるのですが、CMをつくって放送局へ納品する際に、わからないくらいわずかに音量を上げておくことがあるのだそうです(真偽のほどはわかりません。広告畑に居ながら電波はほとんど経験がないからです)。その積み上げによって、どんどんCMの音量が大きくなってしまうのだそうです。

 ちょっとでも目立つように、他と差別化したい…そのキモチは、なんとなくわかります。ぼくも広告畑の人間ですから。根本的な部分すなわちインフラの部分で優位に立てれば、願ったり叶ったりなのですね。それはテレビで言えば、絶対的に音量が大きい…ということにつながるのです。一番手っ取り早い方法でしょう、これが。

 でも、「それは、やっちゃぁいけないだろうよ」とも思うのです。プロレスで言えば、反則技なわけです。禁じ手なのです。同じ音量の中で勝負してこそ、試合なのですから。あくまでもルールがあってこそゲームは成り立っているはずです。反則技を使っては、ゲームになりません。CMだってゲームの一種なのですから。

 20年前に聞いた話では、業界内で自粛が行われ、ボリュームが下げられたといいます。コマーシャルって、やっぱりムダだと思われているのですね。確かに、ビデオなんかの機能でも「CMカット」といわれるものが搭載されていたりします。カットされて当たり前なのですね。だからこそ、つくり手はあれこれ考えて、カットされないものをつくろうとする。そこに工夫が生まれ、いいものが生まれるのです。これがいい循環です。

 ただ、その方向が音量アップにシフトしてしまうとクオリティは一向にアップしないでしょう。それは、卑怯な手だと思います。頭と心を駆使するクリエイティブを求めていきたいものですね。

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2007年2月23日 (金)

Daily K-Scale 0479

よみたいときに よめば よゐ

やっぱり濡れ手に粟がお好き?

 マルチ商法に引っかかる学生が増えているそうです。「新規会員を集めれば、その数に合わせて高い報酬がもらえる」「さあ、濡れ手に粟で大儲けして勝ち組になろう」という甘い言葉に誘われて、ついつい手を染めてしまうのだそうです。

 これは、国民生活センターの最近の調査の結果です。同センターによると、2005年度のマルチ商法に関する相談は2万1544件に上り、1996年の統計調査開始以来、最多の件数となったそうです。相談者は20代が43.6%で最も多く、大学生や専門学校生などの、いわゆる学生は全体の8.4%を占めているようです。この8.4%には、01年度の5.3%と比べて、急速に増加していることがうかがえます。

 また、同センター相談調査部は「誘い文句通りに利益を得られていることはほとんどない。友人から誘われて被害を受けるだけでなく、別の友人を勧誘して加害者になることもある」としています。

 この問題の根底にあるのは「濡れ手で粟感覚」だと思うのです。そこには「楽して儲けよう」とか「一攫千金」とかの欲が見え隠れしています。お金って、そんなに簡単に手に入るものじゃないのだけれど…とため息が出てしまいます。

 先日、バブル再来について書きましたが、ほんとうに来そうで、恐いです。実際、東証が終値で6年9カ月ぶりに1万8000円台を回復したり、徐々にではありますが、世間は好景気に向かっているのかな、という雰囲気に包まれつつあります。好景気=バブルというわけではないですが、やはり「株」とかの証券というか、ペーパー上の好景気は、なんとなく「濡れ手に粟感覚」を醸成しかねないような危うさを孕んでいるような気がするのです。

 隣の人がいい思いをしていると、ついつい羨ましくて、自分も同じ目に会いたい、と思うのが人情というものかもしれません。でも、自分の思うところと異なるなら、断固手を出さない、という態度を取ることが「品性」というものでしょう。それが「誇り」なんだと思います。目の前に、おいしいニンジンをぶら下げられたら、果たしてぼくは「誇り」を捨てずに生きていけるでしょうか。

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2007年2月22日 (木)

Daily K-Scale 0477

よみたいときに よめば よゐ

答えを知っているのは時間だけ。

 進化の方向性を「巨大化」へと進めた恐竜は、その戦略ゆえ滅んだ、という説があるそうです。確かに、マンモスだって巨大化して絶滅しましたね。人類が食い尽くした、という説もあるそうですが。

 小回りが利かない、とか、危機の際に対処できない、とか、いろいろ理由は上げられますが、「大きいこと」の弊害っていうものは存在します。ま、逆にメリットも多々あるのですが。

 いま、世界中の産業が再編の時期を迎えているようです。かつてのクライスラーとベンツの合併など枚挙に暇がありません。日本国内を見ても、石油業界、金融業界などなど、メガ企業でないと生き残っていけないような状況ですね。

 最近では、大丸と松坂屋の合併話やアサヒとサッポロの合併によるビール業界再編成などなど…。まったく、経済界はメガ化への道をまっしぐら!という感じですね。スケールメリットで勝負しようということなのでしょう。めざせ、業界ナンバーワン!ですか。

 ある意味、垣根がなくなって、世界標準のモノが気軽に手に入るような世の中になることは、便利でうれしいことです。でも、その結果、失うもの・ことがいっぱいあると思うのです。

 グローバル化(巨大化)を見越して、熱心に英語教育を進める初等教育機関があります。3歳までに外国語と接すると修得力が断然違う、高くなるといいます。でも、英語でものを考える日本人ってありえるのでしょうか?これって言語&文化的にいって、日本人を捨てていることにはならないのでしょうか?

 ちょっと巨大化の話から逸れてしまったように感じられるかもしれませんが、実際、巨大化あるいはグローバル化するということは、こういうことだと思います。こういうこと、というのは、捨てるものが必ず出てくるということ。それは日本らしさとかの固有のもの、あるいは非効率なもの、遊びの部分などでしょうか。これまでも、日本人は、いろいろ大切な物を捨ててきたのかもしれません。だから、それらを失うことがイイことなのか、将来に陰を落とすことになるのか…。その答えは、時間だけが知っているのですね。

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2007年2月20日 (火)

Daily K-Scale 0476

よみたいときに よめば よゐ

弱い者を叩くなかれ。

 先日、京都の伏見署が79歳の男性を現行犯逮捕しました。理由は「鉄道営業法違反」の中でも「信号機改ざん」の疑いだそうです。

 1月の下旬から、京都市伏見区深草のJR奈良線の踏切で、異常がないのに緊急時に電車を停車させるボタンが押される被害が6件あり、伏見署と京都府警鉄道警察隊員が警戒していたそうです。

 2月13日午前10時過ぎ、男性がボタンを押しているところを警戒中の同署署員と警察隊員が目撃し、現行犯逮捕したといいます。男性は住所不定。つえをついていたそうです。

 調べに対して男性は、「踏切を渡り終える前に遮断機が下りないようにボタンを押した」と供述しているそうです。それに対して、伏見署は余罪を追及するとしています。

 天満橋の交差点は、歩車分離式の信号で、交差点内を斜めに渡ることができます。ただし「青」の時間が短い。だから、お年寄りは渡っている途中で「赤」になってしまう可能性が充分にあるのです。実際、お年寄りが3/4渡ったところで赤になっていしまったのを見たことがあります。その方は悠々として渡っておられましたが。

 話は、逮捕された男性に戻ります。確かに、彼のしたことは罰を受けるようなことです。停止装置の作動で上下線2本が最寄の駅などで数分停止したといいますから。でも、彼はどうしてもその踏切を渡らなければならなかった。でも、渡りきる自信がなかったに違いないのです。決して面白半分じゃなかったのだと思います。切実な問題だったのでしょう。

 今、世間は弱者にとっても辛く当たる風潮になっています。いつかは自分たちも同じ境遇になるはずの高齢者には特に風当たりがキツイように感じます。老人だけでなく住所不定に対する偏見もあったかもしれません。とにかく迷惑をかけることが悪い、という決め付けもあったかもしれません。

 ただ、この報道を見て思ったのは、ぼくたちが「彼がボタンを押さなくてもよい社会」をつくっていく努力をしなければならないんじゃないか、ということ。それを気づかせてくれた一件でした。

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2007年2月19日 (月)

Daily K-Scale 0475

よみたいときに よめば よゐ

得した一日でした。

 今年は、まだ雪を見ていなません。なんだか、季節をひとつ損したような気分です。長い晩秋の果てに、春がやってくるような…。

 それでも春は訪れます。今日は、京都の北野天満宮に参ってきました。そろそろ「梅は咲いたか…桜はまだかいな…」といった想いで出かけてみたのでした。空模様はあいにくの曇りときどき雨。でも雷神様の天神さん詣でにふさわしいお天気かもしれません。

 西陣界隈の町屋風景を楽しみながら、一路「天神さん」をめざします。歩いて15分ほどですから、だいたい1キロくらいでしょうか。その間、五番町夕霧楼で名高い地所や京都の方位の守り神「大将軍八神社」のそばを通りながらの行程です。京都の人たちは、みんな
緑がお好きなようで、庭先には必ずと言っていいくらに何かの鉢植えが置かれています。歩きながら、ほっとした気分になれるのは、この緑の贈り物のおかげなのでしょう。

 と、清清しい気分を味わいながら、いよいよ天神さんに到着です。意外と人が多かったのは、受験期なのと京都の観光ブームがまだ続いているからなのでしょう。標準語を話す人が多かったのもそう思わせた理由のひとつです。

 たくさんの牛たちに歓迎されながら、参道を進んでいきます。斜めに立った巨大な松が両脇を固めています。本殿に近づくにつれて梅の芳香が強まっていきます。梅は暖冬だけれど、まだ五分咲き。きっと来週くらいが見時でしょうか。来週また来ようか、とも思いましたが、来週は確定申告でどっぷり数字と格闘でしょう。…残念。ということで、五分ながら「天神さんの梅」を堪能させていただきました。紅梅、白梅、若いもの、齢を重ねたもの…。一本一本が個性を見せています。タイミングよく鶯もやってきました。梅に鶯…。こいつは春から縁起がいいや!

 あと、あの有名な「北野天満宮縁起絵巻」を展示している宝物殿では、酒天童子を退治したという「鬼切丸」という妖刀を見ることもできました。とにかく出かけてみる。好奇心に任せて動いてみる。アクティブになると、やっぱりなにか発見があるものですね。

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2007年2月18日 (日)

Daily K-Scale 0474

よみたいときに よめば よゐ

さすがファーストフードの国。

 制限時間8分!―今、アメリカでスピード合コンというかスピードお見合いが流行しているそうです。なかなか出会いのチャンスがない現代人にとって、このイベントは効率のよさが大人気なのだそうです。ある主催者は、一回のイベントで8分間のお見合いを8回提供することを保証しているそうです。

 会場はバーなどが選ばれることが多く、参加費は40ドル(約5千円)くらいで、店での飲食費は自己負担というのがスタンダード。人種や趣味を限定して参加者を募集することもあるのですが、たいていは参加フリーで募集することが多いとか。恋は年の差を超えて、を地でいくことも多々あるそうです。

 たいていの参加者が、「8分あれば相性はチェックできる」といいます。その結果は、「採点表」にチェックされます。ここが、なんともアメリカっぽいところなのですが、しっかり数値化して客観化して相性を確認するわけです。それは、一面、お見合いをゲーム化しているということでもあるようです。

 参加者によると「ナンパするよりストレスがなくていい。内気な男性には適したシステムだ」とか「ちょっと疲れた。でも来週は、制限時間4分のもっと効率的なお見合いに参加する」という猛者の女性もいたそうです。とにかく、参加者は、「効率」と「安全」をこのシステムに求めているようなのです。

 この報道を見て思ったのが、モダンタイムスで自動食事マシンで食事を摂る実験台にされるチャップリンです。時間制限の中で次々に料理を無理矢理詰め込まれていく…。8分を制限にして次々と相手を換えてお見合いを繰り返す姿は、一種「オートマティック」というイメージがありますよね。

 ハンバーガーよりも筑前煮の方が好きなぼくとしては、なにか味気ないな、と思うのです。極論してしまえば、プロフィールの書かれたパネルを並べて相手を選ぶのと大差ないのじゃないか。効率を突き詰めるとそんな方向に進んでいってしまいそうな危うさを孕んでいる…。そんな恐怖感をふと感じてしまいました。

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Daily K-Scale 0473

よみたいときに よめば よゐ

バブル再来か。

 近ごろ世間に流行るもの―バブル―です。やたらテレビで見かけると思ったら、フジテレビ系列つまりポニーキャニオンになるのでしょうか、もうすぐ映画が封切りされるからなのですね。

 なにかと宣伝上手のフジサンケイグループです。朝、『目覚ましテレビ』を見ていても、「これって、ほとんど番宣やないの?」と思わされる番組づくりをしています。

 そんなフジサンケイグループが総力を挙げている『バブルへGO!』ですから、出演者を起用した特別枠のクイズ番組やワイドショーでのコーナー設定などなど、あらゆる機会での露出が計画されているようです。その結果、ぼくたちの目には「バブル」が焼きついてしまうわけです。

 今様バブルの風潮を見ていると「伝説の復活」のような気がしないでもないです。バブルを知らない子どもたちは「えっー、信じられない」という反応がほとんど。しかし「えっー」の裏側には、そんなおいしい想いを自分も体験したい…という意図が見て取れます。

 かつても書きましたが、確かに、経済学者たちの中には「2010年まではバブルのような拡大基調の経済状況になる」と予言している人もいます。ここ2~3年ほどは「浮かれた社会」が到来するのかもしれません。そこは目ざといフジサンケイグループです。先を見越して、今、手を打っている感がします。

 ただ、番宣のごとく電波を使って「バブル」を喧伝するのはいかがなものでしょう。ま、一種の販促活動といえばそれまでですが。資本主義社会です。モノは売れてなんぼ、マスコミは視聴率が取れてなんぼですから。なんとかして、映画を見てもらおうとするのはわからないでもないのですが…。

 結局は、そのような数字を追いかける体質や公共性の高い電波を個人的感覚で扱ってしまうという錯覚によって、例の「あるある事件」なんかが起こるんじゃないでしょうか。ま、踊る者がいなければ、踊らせる方だってひとり芝居になってしまいます。結局、ぼくたちが踊らされないことを心がけるしかないのですね。

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2007年2月15日 (木)

Daily K-Scale 0472

よみたいときに よめば よゐ

鰯の頭も信心から、です。

 九星によると今年は「二黒土星」で、「温故知新」の年だといいます。この年は、懐かしいものが復活したり、これまで疎遠だった人と急につながったりすることが多くなるのだそうです。

 当たるも八卦…ですから、すべてを盲信してはならない、と思うのですが、節分以降、なんとなく「当たっているかも…」と思わずにいられないことが多々ありました。

 しばらく疎遠になっていた人から突然に電話が入ったり、偶然に道で出くわしたり、ギャラリーを訪ねて来られたり…。そう思って見るから、そう感じるのかもしれませんが、なんとも不思議な気分を味わっているのは確かです。

 信じる者は救われる、と言います。ときには、救われるんやなくて掬われてるんやで!なんて嫌味を言ったりもしますが、信じているとなにかいいことが起こりそうな気がするから不思議です。

 ただ、この九星によると、九紫火星のぼくは、今年はどこの方向もよくないので旅行はあまり勧められないといいます。でも、今年はぜひタンザニアに出かけたいものです。あの広大な大陸にこの足で立って、ティンガティンガを描く修行ができたらなんて素敵なんだろうと思います。さてさて、どうしたものか…。

 と、本日は高島暦を片手にコラム書きをしているのですが、この本ってなかなか見るどころいっぱいです。

 例えば、最後の方にそれぞれの干支の守本尊が載っているのですが、辰年のぼくの本尊は普賢菩薩だそうです。その他、関東基準ですが、「種まき」の時期や「園芸メモ」、「季節のことば」なんかも掲載されていて、なかなか役に立ちそうです。

 完成を慌てず、最初の一歩から堅実に出発しなさい。手ごたえのある前進が期待できます。厄が明け意欲がわきますが、無計画に新しいことに手を出すと見込み違いの大失敗となるので用心しなさい。そんな2007年だそうです。中でも2月は明るい日差しが当たるが、問題にも光が当たるので整理整頓を、ということらしいです。

 成功を信じて、心して前進していこうと思います。

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2007年2月14日 (水)

Daily K-Scale 0471

よみたいときに よめば よゐ

人並みのモノサシを持とう。

 普通ってなんだろう?とふと疑問に感じたので、角川書店の類語国語辞典を引いてみました。すると…

 一般・普遍・通常・尋常・通有・通例・平常・常・世の常・常並み・並み・並み並み・並み大抵・世間並み・世の習い・並み一通り・一通り・通り一遍・一応・大抵・本来・当たり前、という言葉が並んでいました。これらは【特に他と異なる性質を持っていないこと】という項目で探したものです。

 また、【普通一般・上等でも下等でもないこと】で探してみると、尋常・並・人並み・十人並み・人間並み・月並み・只・平・有り触れた・凡・平凡・平平凡凡・凡庸・類型・変哲も無い・芸が無い・可も無く不可も無し、といった言葉がそろいました。

 まだ、よく掴めないので新解さんにも尋ねることにしました。すると彼が言うには、「その類のものとしてごく平均的な水準を保っていて、取り立てて問題とする点が無い(良くも悪くもない)こと」と。また例文では「普通の〔並みの〕品ですよ」とありました。

 思うのですが、「ごく平均的な水準」とは誰がどのようにして決める水準なのでしょう?みんながそれそれに「これくらいかな?」と線引きしているのでしょうね。きっと、隣の人やちょっと向こうの方にいる人の様子をチラチラと伺いながら、自分ならこんなものかな…と判断している。ぼくだってその一人です。

 この線引きが、ある日突然、大きく動くことがあります。例えば、太平洋戦争のころ、あるいは最近ならバブルのころ。普通が普通でなくなっているのに、普通とされていた。線が大きくズレたのですね。その原因を今風に言うなら、マインドコントロールされていた、ということになるのでしょうか。

 普通って、とても相対的なものだと思います。常に比較し、修正を加えて尋常な状態に保つものだと思います。だから、「ぼくの普通は、あの人の普通なのだろうか?」って、いつも、心の片隅にそんな意識を持っていたいものです。あ、そうか、「普通」って、ひとつのモノサシだったんですね、きっと。

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2007年2月13日 (火)

Daily K-Scale 0470

よみたいときに よめば よゐ

ナフタリンの香り。

 ギャラリーの関係で、休日に出勤することがときどきあります。休みの日の電車は、同じ時間帯でも乗っている人のカテゴリーがいつもと全然違います。めったにまちの外に出かけないような人たちが大勢乗り込んできたりするのです。時には、月に一度のお出かけ
モードで、はしゃぎまわっているおばさまの大きな笑い声が車内中に響きわたることもあります。

 先日、休日出勤した際は、運よく座ることができて(ウィークデーに立つことはないのです。休日の方が電車が混んでいるのです)、ぼーっとしていたのですが、次の駅で初老のおじさんが乗ってきて、ぼくの横に座られました。

 あ、ぼくは思わずおじさんの方を向きました。ほんのりとナフタリンの香りがしてきたからです。彼は、同窓会にでも主席されるのでしょうか、こざっぱりとしたライトグレーのジャケットにダークグレーのズボンをコーディネートされていました。衣替えの季節ではありませんので、きっと、彼はとっておきの衣装をタンスから引っ張り出してこられたのでしょう。

 昔は、よくこの香りを嗅いだものでした。衣替えの季節だとかに、そんなことが多かったので、パブロフの犬ではありませんが、ついつい新鮮な気分が湧いてきます。「あ、これから気分一新だ!」みたいな思いに包まれるのです。

 今はすっかりスマートな世の中になってしまって、ナフタリン臭い服なんか着ようものなら、いろんな人からすぐにチェックが入ってしまいます。でも、この香りには、人間の実直さだとか素朴さだとかが、溶け込んでいるような気がするのです。ちょっと照れながら、「今日は一張羅で気張ってみました…」なんて真っ赤な顔で言うような、なんかかわいらしさがあると思いませんか。

 ぼくがチラっと見ると、おじさんはちょっと緊張したような、恥ずかしがっているような顔をして天井の方をじっと眺めていらっしゃいます。これから、彼はどこで楽しいひとときを過ごすのだろう?ぼくも、なぜか、とってもワクワクしてきました。ありがとう。

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2007年2月12日 (月)

Daily K-Scale 0469

よみたいときに よめば よゐ

対岸の火事じゃないのです。

 「金髪、目は青か緑」―こんな条件をつけた求人ポスターを甲府市の英会話学校が製作し、山梨県国際交流センターに半年にわたって掲示していたそうです。このポスターは、幼稚園に派遣する外国人教師の求人用のもので、市内の複数の幼稚園からの依頼によるものだったそうなのですが、依頼の際に上記のような条件がつけられたのだといいます。同校は、「古い差別的な考え方だと思ったが、客のニーズには逆らえなかった」のだとか。

 こういう報道の場合、たいていポスターをつくった学校へ非難が集中します。誰もが、審判員のようにジャッジするでしょう。「悪いとわかっていながらなぜ実行した!」と。しかし、どうでしょう?まず、発注した幼稚園の人たちに外国人=金髪&青い目という偏見があったのではないでしょうか?そして、その背景には保護者たちの偏見が見え隠れします。これは、決して、特別な人たちが犯した特別な事件ではないのです。ごく普通の人々が生み出し、膨らませることで起こった事件、原因は私たち自身にあるのです。でも、ついつい私たちは、マスコミに載ってしまうと自分のことであるのに他人事にしてしまう傾向があるように思えるのです。

 私たちは、やはり「迷える子羊」なのかもしれません。この消費社会の中で、いつの間にか大衆は「神」に祭り上げられてしまっているのかもしれません。その結果、気分的に舞い上がっているようにも思えるのです。ついつい自分のことを棚に上げて、あるいは、自分の姿を見ないで、他人の行為を非難してしまう。そんな愚行を防ぐには、自分の実像をしっかりと見据えることが大切でしょう。

 記事を読んで、非難する前に、「自分が同じようなことをしていないか、同じような考えをしていないか」を確かめてみようと思いました。私は決して「神」でもなければ「審判員」でもありませんから、良いこととか悪いことだとかと断じることはできません。ただ、この事実を参考にして、自分の進むべき方向を修正したりすることはできます。できるだけ、世の中の悪しきことを自分を映す鏡であると考えて、自らを省みたいものです。

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2007年2月11日 (日)

Daily K-Scale 0468

よみたいときに よめば よゐ

星占いは国にも当てはまるのか?

 今日は建国記念の日(建国記念日ではありませんよ、“の”をお忘れなきよう)。そう、日本国は2月11日生れのみずがめ座さんなのです。では、星座占いでは、みずがめ座はどんな性格かというと。

 まず、頭の回転が早い。知的で合理的な考え方を持ち、自由で独創的に思考することができる。気分や感情に流されることなくクールに判断する。芸術的センスなど天才的な能力を持つ。先見の明を持っている。一般では思いつかないような破天荒な行動をとることがある。誰とでもすぐに仲良くなれる。自分の考えに自信を持っているので主張を貫く。周囲の意見を聞くことが得意でありながら、周りを説得することにもたけている面を持っている。いつもグループのまとめ役的な存在になる。

 さあ、いかがでしょう。日本という国の特性にどれくらい当てはまっているでしょうか。あんまりマッチしていないように思えますね。ま、個人と人の集合体である国というとても大きな違いがありますから、キャラクター分析がマッチしないのは仕方がないといえば、仕方がないのですが…。

 ただ、このみずがめ座のキャラクターを見ていてふと思ったのですが、これからの日本が目指さなければならない方向性が、ここに隠されているんじゃないか、と。

 後手後手にまわる内政、自分の意見を明確に伝えることのできない外交…。俗説ではあるけれど、日本が、もう少しみずがめ座的なキャラクターを持ったなら、日本人はもっとすばらしい民となれるのではないでしょうか。

 ま、そんなキャラクターづけを誰がするんだ?とか、国に星占いを結びつけるな!あるいは、星座占いなんてナンセンス…などなど、といったご意見もあるかとは存じますが、現在の漠然とした「美しい国」づくりに、なにかしらのキャラクターづけという「方法」が加われば、もう少しだけこの国の進むべき具体像、リアルな姿、着地点というものが見えてくるんじゃなかろうか、と思った次第なのであります。祝日の戯れごととお赦しくださいませ。

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Daily K-Scale 0467

よみたいときに よめば よゐ

それでも4位なのだ。

 気象庁の発表によると世界の1月の平均気温は平年(1971~2000年の平均)を0.45度上回り、1月としては統計を開始した1891年以降、最高だったといいます。

 これは気象庁の速報値として発表されたのですが、世界の平均気温は昨年12月も過去最高を更新していて、2ヵ月連続で最高値を記録しているのです。やはり、地球は温暖化という坂道を転げ落ちているのでしょうか。

 日本も平年より1.44度も高い気温となり、1898年以降で4番目の暖かさでした。確かに、今年の冬は暖かい日が続いています。とても「冬」と呼べないような日ばかりで、このままでは冬を経験せぬまま春になりそうな勢いだ、と思っていたくらいですから「4番目の暖かさ」といわれると、逆に「1位じゃないの?」と首を傾げてしまいそうです。これだけ暖かくても4位なのです。

 では、これまで一番に暖かかった1月はいつだったかと言うと、今から18年前の1989年の平年比プラス2.09度だったそうです。バブル真っ只中で、冬さえも熱く盛り上がっていたのかもしれませんね。

 気象庁では、この高温の原因をいろいろ分析もしています。原因は3つ想定されているのですが、まず、ひとつ目が「地球温暖化」。二つ目が「北極圏が寒気を周期的に放出したり蓄積したりする“北極振動”が蓄積期で、寒気が南下しにくかった。三つ目が「秋頃か
ら進行中とみられるエルニーニョ現象。この3つが挙げられていました。結局は、異常気象が基本にあるということらしいのです。

 過去百年で世界の年平均気温は0.67度、日本はこれを上回る1.07度の割合で上昇しているそうです。「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」という団体が、地球の今世紀末の平均気温は最悪の場合、20世紀末に比べて6.4度上昇する可能性があるとの報告書をまとめています。

 4位を「まだ上がある」と考えるか「後がない」と捉えるか。それによって人類の未来が決まるような気がします。今すぐ使っていないライトや見ていないテレビを消して、平均気温の上昇を止めなければ…。このままでは取り返しのつかないことになりそうです。

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2007年2月10日 (土)

Daily K-Scale 0466

よみたいときに よめば よゐ

妻には、頭が上らない。

 なんともイタリアなのであります。すべてがラテン的なのです。で、なんの話かというと、前首相のベルルスコーニ氏(70歳)のことであります。これが、また面白いのです。

 ANSA通信が伝えるところによると、新聞紙上に妻のベロニカさん(50歳)にしたためられたベルルスコーニ氏の手紙が全文掲載されたそうです。これは、ベロニカさんの謝罪要求に応えたものでした。では、なぜ彼は妻から謝罪を求められたのでしょう。

 前首相は、複数の女性に「もし結婚していなかったら、あなたといっしょになれたのに」などと声をかけていたそうです。それが妻の知るところとなったのですが、彼はきちんと謝らなかったそうです。そこで、妻は謝罪要求に踏み切ったとか。

 ここには、ふたつの大きなイタリア的ポイントが隠されています。ひとつは、前首相は「もし結婚していなかったら…」と自分のポジションを偽らずに女性に接近したこと。そしてふたつ目が、ベロニカさんが謝罪要求した理由が、夫が女性を口説いたことではなく、彼女に謝らなかったことだということ。

 これらは、いいことでもあり悪いことでもあるのですが、なんともドライな感覚だと思うのです。日本なら刃傷沙汰になったり、賠償金や慰謝料と言った金銭闘争になったり、とてもウエットな事態になるような気がします。なんともカラリとした印象が、なんともイタリア的だと感じさせてくれます。ま、よし悪しではありますが。

 謝罪の手紙の中で、ベルルスコーニ前首相は、「ぼくはいたずら好きで、高慢なところがある」を反省し、「ばかな冗談だった。許して」と訴えています。ま、いたずら好きと自らを表現するところが、なんともイタリア男っぽい、つまり“ちょいワル”風なのですが。そして究極は、「初めて会って恋に落ちたときから、君がすべて」と最大限の言葉で20歳も年下の娘のような妻を持ち上げたのです。きっとこれを読んだイタリア人妻は、彼を許したのでしょう。日本人ならきっと、「同じことを、どこかの女に言ってるんでしょう!チクショー!」となるような気がします(笑)。

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Daily K-Scale 0465

よみたいときに よめば よゐ

ときには闇もいいものです。

 ずい分と前に一度書いたけれど、日本の各地の観光都市と呼ばれるまちでは、観光客を引きこむために、いわゆる「ライトアップ作戦」なる夜間照明策が導入されています。国際観光都市である京都も例外ではなく、つねにどこかの社寺仏閣が本堂や塔やなんやらを夜まで煌々と照らしています。

 先日、2月1日のことです。京都と姉妹都市関係にあるパリで、ある実験が実行されました。「エッフェル塔の照明を消してみよう」というもので、環境保護団体などの呼びかけに応じるかたちで実施されたそうです。

 午後7時55分、エッフェル塔が5分間、闇の中に沈みました。エッフェル塔のほか、フランス各地の観光名所でも照明が消されました。この日、フランスは、たった5分間ではありましたが、贅沢な闇に包まれたのです。

 これは、もともと地球温暖化への関心を市民に高めてもらおうと企画されたものでした。でも、実質的な成果もありました。フランス公共ラジオによると、この5分間のおかげで国内電力消費が1%以上減ったそうです。意識とともに実利もあったわけです。

 日本でも、年に一度、「照明を消そう」という全国的なイベントが開かれていますね。確かに、六甲山とか生駒山とかの夜景スポットへ出かけて景色を眺めていて思うのは、「現代の夜景は空と地が逆転している」ということです。地面には人造の星であるネオンやライトの照明が輝き、天にあるほんものの星たちは、それら人造星の光のために姿を見せられない…。地上の星たちに天上の星たちが駆逐されているのです。

 地球を蝕みながら輝く地上の星たち。それは、さながら自らを縮めて燃える蝋燭のようです。光を発するためのエネルギーは、いつか無くなります。光は燃え尽きまるのです。今ほんの少し、エネルギーを節約することで、光の強さを抑えることで、この輝きがもっと寿命を長くすることができるのです。これから先のことを考える。私たちもフランスの快挙に続きたいものです。

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2007年2月 9日 (金)

Daily K-Scale 0464

よみたいときに よめば よゐ

売りモノは殺人マシンなのですよ。

 モーターショーやギフトショー、キャラクターショーに建材資材ショー…、世の中、いろんな見本市がありますが、先日、経済成長著しいインドで、戦闘機の見本市が開かれ、米ロがしのぎを削ったという報道がありました。

 インド南部のバンガロール空軍基地を会場にして、国際航空ショー「エアロインディア2007」が開催されました。もともとインドは冷戦時代から伝統的に当時のソ連(現ロシア)と軍備面で協力関係にあり、航空戦力の拡充をサポートしてもらっていたという経緯がありました。しかし、今回は、米国の航空メーカーが米軍の主力戦闘機を携えて初めて参加。ロシアなどと激しい販売合戦を繰り広げているようです。

 インドは現在、老朽化したロシア製ミグ機の後継機として126機の多目的戦闘機の購入を検討しているといいます。これは総額50億ドル(約6千億円)の予算規模とされていて、この枠をゲットしようと防衛・軍事産業大国が虎視眈々と狙っているのです。

 米国からはロッキード・マーチン社のF16戦闘機とボーイング社のFA18戦闘攻撃機が参加。実際に飛行してポテンシャルの高さを強く印象づけました。米政府担当者は「防衛産業での重大な進展があることを期待する」と語ったといいます。

 一方、ロシアはプーチン大統領が訪印。それにタイミングを合わせて最新鋭のミグ35戦闘機の売却に向け攻勢をかけたと言います。さらにはミグ35の展示をはじめ、インドの航空機メーカーへの技術移転やライセンス生産も認めるなど背水の陣を敷いています。

 道に落ちたクッキーに群がるアリのように、経済的急成長の真っ只中にいるインドに軍事大国が寄ってたかって、武器を売っているわけです。6千億円のマネーが動くビッグビジネスではありますが、結局、インドが手に入れることになる戦闘機がいったいどれだけの命を奪うのでしょう。殺人マシンをめぐって、巨額のマネーが動く。なんともやるせない気分がつきまといます。いわゆる「死の商人」たちは、どんな神経を持ってしてセールスしているのでしょうね。

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Daily K-Scale 0463

よみたいときに よめば よゐ

頭を冷やして、聞き直そうよ。

 「女性は産む機械」と発言して物議をかもした柳沢伯夫厚生労働大臣ですが、今度は「子二人以上が健全」と発言して、またまた一斉反発の声を受けています。野党の意見、マスコミの取り上げ方、ちょっと違うような気がするんですが、いかがなものでしょう。

 柳沢厚労大臣の発言を正確に記すと「若い人たちは結婚したい、子どもを二人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる。若者の健全な希望にフィットした政策を出していくことが非常に大事だ」となります。

 さて、ここで問題になのは「子二人以上が健全」と彼が言っているかどうかです。確かに、「子どもを二人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる」と言っています。でも、これって「子どもを持ちたい」という希望を持っていることが「健全である」と言っているんですよね。しっかり読むと「子どもを二人以上持つのが健全」とは言っていないことは明白でしょう。

 「産む機械」発言以来、柳沢厚労大臣の言葉はいろんな人が耳を欹てています。そんな時にこの発言ですから、「そら、みたことか」とばかりに、みんな言葉尻を捉えてかかります。一度坂道を転げ落ちると加速がついて止めようがない、という感じですね。

 これはあくまでも、ぼくの個人的な感慨なのですが、柳沢大臣をめぐる一連の出来事は、「いじめ」に通じるものがあるんじゃないか、と。とっても好々爺のような様相の柳沢さんが困り果てた顔をしているのを見るのは、どうも辛い。自業自得と言えばそれまでですが、それでも、みんなで寄ってたかっての感があるのです。言葉だけが一人歩きして、政治の駆引きの道具にされているように思います。本質は他のところにあるはずなのに、それをはぐらかせるために、彼の発言が利用されているのではないか、と思えるのです。

 安倍首相は「言葉にいちいち反応するのではなく真意をくみ取るべきだ」と言い、柳沢大臣は「文脈をみてほしい」と言っています。二人の意見は正しいとぼくは思います。野党やマスコミの声は上げ足取りに見えます。みんな、もう少し冷静になってもいいのでは?

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2007年2月 7日 (水)

Daily K-Scale 0462

よみたいときに よめば よゐ

弱者が、さらに弱者を叩く。

 弱い者たちが、さらに弱い者たちを叩く―これは、ザ・ブルーハーツの『トレイン・トレイン』の歌詞の一部。個人競争をあおり、勝者をもてはやしてしまう、悪い上昇志向に汚染された世間のやるせなさをよく表わした詩ではないか、とぼくは思っています。

 今や、世にはびこるのは「勝者」です。弱い者たちが生きにくい世の中になってしまっています。そんな環境の下、“敗者が続出する格差社会で不遇な立場に苛立ち、暴力的に妻子を支配してしまう父親が増えつつある”といいます。弱い立場に追いやられた父親たちが、さらに弱い家族を叩いているのでしょうか。

 こんな父親の下で育った子どもたちはどんな大人になるのでしょうか。ここにひとつの説があります。あくまでも参考的な説ですが、こんな具合です。「暴力的な言動で反抗を抑圧された子どもは、頭の中で父親を殺して自立することができず、実際に殺して乗り越えるしかなくなる」というのです。

 フロイトの唱えた「エディプス・コンプレックス」をバーチャルではなくリアルな世界で実践しないと、精神的に辻褄が合わなくなってしまうのが現在の父子関係だというのです。実際に手を下して殺してしまわないと達成できないコンプレックスが黒々と父子の間に横たわっているのでしょう。

 その結果として、子どもが親を殺傷する事件が多発していると分析している専門家もいると聞きます。その背景には、やはり、他人を顧みず、自分の都合ばかりを優先する世相や授乳中でさえ携帯電話を手放さずメールに没頭する「いるのにいない」母親たち、「死ね」「殺すぞ」と叫ぶ子どもたちの増加といったことが大きく影響を与えているのでしょう。

 フロイトの「エディプス・コンプレックス」に戻りますが、子どもたちは頭の中で、父親を殺して大人へと成長していきます。ま、これも心理学の一説に過ぎないのですが、少なくとも「反抗」は、子どもたちには必要不可欠なものです。ただ、それが「暴走」にならないように、家族は気配りを意識したいものです。

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